『ココロオドル』
星矢の強烈な一撃を受け、オレは目を覚ました。
オレともあろうものが何をやっていたのか。一体何を考えていたのか。
敵を殺すことに躊躇いを覚えていたなど。
殺せ。
頭の中で声がした。
目の前に立つ者を殺せ。皆殺しにしろ。皮を裂き、肉を断ち、骨を砕け。獅子宮に血の雨を降らせろ。お前の前に立つ全ての者を抹殺しろ。
頭の中の声に、オレは唇を歪めた。
そうだ、敵を殺すことこそオレにとって極上の歓びだ。その証拠に、今右足を折ってやった星矢が叫びのた打ち回る姿を見て、オレは愉悦を覚えた。
この後、ボロ雑巾のようにズタズタにされて獅子宮の床に転がる星矢を想像しただけでオレは心躍り、大笑いしそうになった。
星矢は折れた足で懸命に立ち上がり、オレに立ち向かおうとしている。無駄なことを。日本では黄金聖衣のお陰でオレの光速拳を躱せていたが、本来青銅と黄金の間には到底超えられない壁があるのだ。それを今、お前に教えてやる。そして絶望の中で死ぬといい。
オレは全力の光速拳を放った。
『踊りませんか?』
「邪武、踊りませんか?」
沙織お嬢様からその言葉を聞いた時は聞き間違いかと思ったが、こちらに微笑み手を伸ばすその姿は幻覚ではなく、オレは内心舞い上がりながらも努めて冷静に「喜んで」とその手を取った。
遂に! オレの時代が来た!
沙織お嬢様がとある企業のパーティーに出席することになった時、お供にオレを選んでくださった。星矢ではなくこのオレを! そして今、オレをダンスのパートナーに選ばれた。オレは諸手を挙げて万歳三唱したい気分になった。
しかし、浮かれ気分もそれまでだった。オレは社交ダンスなど踊ったことはなく、悲しいことに踊りのセンスも持ち合わせていなかったようで、沙織お嬢様の足は踏むわ、他の客にぶつかって舌打ちされるわで散々だった。オレだけならまだしも、一緒に踊っていた沙織お嬢様まで物笑いの種にされ、オレは情けなさと申し訳無さでダンスが終わった後、顔を上げられなかった。
「申し訳ありませんでした、お嬢様」
帰りのリムジンの中で、オレは沙織お嬢様に頭を下げた。
「あら、何がですか?」
一方沙織お嬢様は、まるで何事もなかったかのような返事をする。いや、むしろ上機嫌に見えた。
「ダンスの件です。オレのせいで、沙織お嬢様にまで恥をかかせてしまって……」
「その事ですか。人の噂も七十五日、言わせておきなさいな」
沙織お嬢様はオレに気を遣っているのではなく、本心からそう言っているようだった。訝しむオレに、沙織お嬢様は続ける。
「むしろ、あなたは期待通りでした」
「あの、無様な姿がですか」
「ええ」
沙織お嬢様はやんわりと微笑む。
「実はあの企業の会長のお祖父様が、自分の息子と私を結婚させたがっていて困っていたのです。でも今日の姿を見て、厳格なあの方のこと、『ダンスも碌に踊れない者など息子には相応しくない』と思ってくれることでしょう」
「そんな理由が……じゃあ、ダンスの相手にオレを指名したのも、オレが踊れないと分かっていてですか」
「だってあなた、社交ダンスなんて踊ったことないでしょう?」
そう言って沙織お嬢様は悪戯めいた笑みを向けた。その顔を見て、オレは言葉を詰まらせた。体よく利用されたわけだが、嫌な気分ではなかった。どんな形であれ、沙織お嬢様のお役に立てたのであれば喜ぶべきなのかもしれない。オレは沙織お嬢様に笑い返した。
「いつでもお呼びください。貴女のためならこの邪武、いくらでも道化になりますよ」
『奇跡をもう一度』
これまで、何度だって奇跡を起こしてきた。
聖闘士の頂点である黄金聖闘士の中でも最強と謳われるサガを倒し、沙織さん――アテナを救った。
天秤座の武器でも傷一つ付けられなかった海界のメインブレドウィナを破壊することだってできた。
命を極限まで燃やし、神聖衣を蘇らせて、神を討つことだってできた。
地上を狙う邪悪な奴らと何度も戦ってきたが、その度にオレたちは持てる力以上の力を引き出して、それらを退けてきた。
友の力を借り、自分の小宇宙と命を最大限まで燃やすことで、オレはいくつもの不可能を可能にしてきたんだ。信じて貫けばできないことなんてない。どんな夢も信じれば叶うさ。
だから今度だって、オレは奇跡を起こすことができる。オレは自分自身を信じる。
オレは拳を握り締めて念じると、その手を大きく振りかぶり、ハンドルに手を掛けた。
ガラガラガラ……コロッ
「残念、外れです! はい、参加賞のティッシュ」
「……」
『たそがれ』(誰そ彼)
そいつが声を掛けてきたのは、巨大な岩を転がせずにへたり込む情けない亡者を足蹴にしている時だった。陽気に声を掛けてきたそいつに、オレは亡者を蹴るのを中断して「よぅ」と返す。
「相変わらず仕事熱心だな」
「好きでやってんじゃねぇよ。こいつらの足腰がもっとしっかりしてたらオレももっと楽できるんだ」
「違いない」
オレの冗談にそいつは大口を開けてガハハと笑う。マスクから伸びる二本の角がそれに合わせて揺れた。
朗らかに接するオレだったが、頭の中は一つの疑問で埋め尽くされていた。
こいつ、誰だっけ?
こいつとは昔からの知己であり、第三獄を管理する同僚でもあった。当然、初めて顔を合わせた時にお互い自己紹介もしているはずなのだが、何故か名前を思い出せない。天敗星という宿星は覚えているのだが、そこから先が出てこない。今更本人に「失礼ですがお名前は何でしたっけ?」と聞ける訳がないし、かといって上司のラダマンティス様に確認するのも憚られる。
そのため、顔を合わせるたびに愛想笑いをしているものの、実際頭の中はハテナマークだらけだ。
あぁ、マジで思い出せない。
『別れ際に』
「それじゃあ、また」
別れ際に軽く抱き寄せられた時にフワリと感じた芳しい薔薇の香りに心が落ち着くと同時に、この香りをもっと長く側で感じていたいと心が掻き乱されているのに気付いて、僕はこの人のことがとても好きなんだということを自覚せずにはいられなかった。