“夜明け前”に、彼と2人だけの夜道を歩きたい。街灯が私たちを照らして、はたまた明日を迎える日光を、わたしたち、たった2人で浴びる。
なんて、まだ今は教師と生徒の夢物語を語ったけど、夜とか危ないし、朝方も危ないし、もしも彼がおかしなチンピラに襲われたらどうするの。もしも急に体調悪くなって、辺りに助けてくれる人がいなくて、窮地に陥ったらどうするの。あんなに愛しい彼を外に出したら、そもそもどうなっちゃうんだ…?
やっぱり夢は夢のままが良い、世の中は危険なことが多すぎる。たとえば、生徒が教師に夢中になってしまうだとか。
ちょっと待って長々書いたのに消えた沢山力量注いだのに辛いもう今顔ないこれこそ“本気の恋”だよ最悪
ちょうど一年前から、“カレンダー”に君と行ったことを書き込むようになった。相合傘をした記念日であったり、君の自宅に招いてもらった日だったり、珍しくハグをしてくれた日だったり、私の中の特別な日を記していた。
今ではどうだろう。君と離れつある今、君と話した少ないやりとりをも記している。そのはずなのに、“カレンダー”の中には1個や2個しか、君の印がない。昔はその、毎日の重大さに気付けなかった。いくつも君の印がある、あの大好きな“カレンダー”の幸せを。私はつくづく生きる価値のない、醜い人間だ。いっそ君の手で私を殺してくれたら最高の幸せだ。失ってから大切さに気付き、たったひとりの君をもまっすぐ愛すことのできない、この、愚かな私を。
こんなに大好きな彼には、それは深い深い、“喪失感”を感じて欲しい。負の気持ちの底まで沈んで、俺の人生はもう終わりだと感じて欲しい。
そんなときにふと、再び私が現れる。汚れきった彼を痛いほど愛して、全肯定して、窮地に追い込まれた彼を救うことで「わたししか居ない」という確立した現実を体感してもらう。そんな彼にはもう私しか求められないね。ずっとそれで良いんだよ、14歳も下の私に、彼は溺れる運命なんだ。私の重たい愛情も“喪失感”には勝ってしまうからね
「世界に一つだけ」
かっこいいものが好きなのは男。かわいいものが好きなのは女とはよく聞き慣れたもの。これを人間は「多様性」と呼ぶようになった。
私はかっこいいものも、かわいいものも好きだ。おそらく、全人類そうだと思う。かわいい猫もすきだし、かわいい絵もすきだし、かっこいい車もすきだし、かっこいい犬もすきだ。「多様性」という枠組みに収めてしまうから堅苦しいだけで、全てはただ、「あれもこれも好きだなあ、あれは嫌いだけど、まあ私にとってはどうでもいい」くらいの感受性で良いのだ。
だが、ここでひとつ断言しておこう。
私は、ただのんびり生きている中でこの感受性の豊かさと、許容範囲の広さに気付けたわけではない。これらは全て、「世界に一つだけ」の、彼のおかげなのだ。わたしは、彼の文字がふにゃふにゃなところが可愛くて好きで、彼がバイクに跨るかっこいいところが好きで、彼のかっこいい歩き方が好きで、けど彼の言葉の語尾が優しい、可愛らしい発音が好きで。かっこいい存在もかわいい存在も、どちらにせよ私は好きなままだということに気付けた。
では、私はこれで何を伝えたかったのだろう?
そうだな、確かに彼は「世界に一つだけ」でしかない。けれど、「世界に一つだけ」の彼には、可愛さやかっこよさには抑えられないほどの幾億個の素晴らしさがこもっている。「世界に一つだけ」のはずの彼がこんなにも眩しく見えるのは、かっこよさや可愛さを含めた、そのもっと奥深く、多様だなんて脆すぎる、彼への私の重い愛ということだろう。