礼を言われるのは嫌いじゃない。恩を売っておいて損はないし、回り回って自分に返ってくるとも言うじゃん? 見返りを求めることを否定する連中も居るけど、それって綺麗事。寧ろ損得無しに関係を続ける方が俺にとっては気持ち悪いね。親切ってのは自分のためにするもの。礼を欠いて失礼だと言われるのは相手側。なら、やればやるだけ身になるしハッピーだと思っていたけど……それっておかしい?
「ありがとう、ごめんね」
親友から急に言われた言葉。一瞬、時間が止まったみたいに体が固まる。今日もいつもどおり生徒会の仕事を手伝っていた。お互い長机の上でまとめた書類を揃える最中、世間話を切り出すように顔も見ないままあいつは前触れなく言ってきた。当然意味がわからず、しかし声のトーンから大事な話をされた気がして焦る。俺は考える間も無く疑問を口にした。
「なんだよいきなり。礼はともかく、謝罪される謂れはねえよ」
「ううん、ごめんね」
「はあ? だから理由を説明……」
「疲れてるよね、顔に出てる」
「何言ってんだよ、力仕事でもないし。平気だ」
「違う。心が」
そう言って親友の──司は俺の胸をトン、と押して困ったような笑みを浮かべた。心? 改めて自分の胸に手を置いてみるが思い当たる節はない。
ホッチキスの無機質な音が生徒会室に響き、整理した書類が閉じられていく光景をただ見つめる。全て閉じ終わったところで再び司は口を開いた。
「もう来なくていいよ」
「え、」
「こういう言い方はよくないか。疲れている時は来なくていい」
「疲れてなんか……」
「自分の許容量が分からないうちは仕事を任せられない、と言えばいい?」
「……」
「俺は誠也が倒れないか心配なんだよ。今の君は確実に無理してる」
「無理なんてしてない」
「今月、もう何件誰かの仕事を代わりに受け持ったか覚えてる?」
「……?」
「自ら買って出たのが三件。交渉後に任されたのが三件。押し付けられたのが五件。何も言わずに決められたのが二件。他にも、小さな手伝いを挙げればきりがない」
「なんでそんなこと知って……、てか俺が進んでやってるんだから良いだろ!」
「良くない。生徒会に居ると大抵のことは耳に入るんだ。調べたものもあるけど、今はそれは別にいいじゃない。重要なのはこれ以上続けたら誠也が壊れるって話」
「だからって……」
嫌な予感がしたんだ。今まで礼は言われても、一緒に謝罪してくる奴は居なかったから。それがこんな風に突然来るなと言われて、自分のためにしてきた事が全て良くない事のように言われて。血が滲むんじゃないかってくらい拳に力が入り、悔しさで奥歯を噛み締めた。じゃあどうしろ、っていうんだ。
「……簡単に言うなよ。好きでしてることだ。お前には関係ない」
「関係ある。死へ向かっていく親友を見過ごせ、って言うの?」
「大袈裟な」
「大袈裟じゃない。誠也が誠也を大事にしない限り、それは死んでいくことに等しいよ」
「俺は自分を大事にしてる! 自分のためにしてんだから」
「それは本当に自分のため?」
「本当に自分の……!」
自分のためにしている、と思う。誰かを助けたいとか守りたいとかそういう無償の愛を持つどこかのヒーローを目指しているわけじゃなく、俺は俺のためにやりたいことをして、礼を受け取る。その経験が役立つ事もあるし、結果的に人望が厚くなるのも良いことだ。十分見返りを貰っていて得していると思った。だが、司は死へ向かっている等と物騒なことを言う。俺のやってきたことを、否定するみたいに。
「誠也のやりたいこと、本当に出来てる?」
「出来てる……」
「じゃあ休養はちゃんと取れてる?」
「最近は、試験勉強してたから……あんまり」
「自分だって忙しいのに変わらず人のことばっか優先してるよね」
「生徒会長のお前に言われたくない」
「俺はちゃんと寝れてるから大丈夫だよ」
帰り支度を済ませ上着を持って部屋を出ようとする司の後に無言で続く。普段なら和気藹々と会話しながら下校し、寄り道したり買い物したりするがそんな気にはなれない。司が戸締りを済ませている間に昇降口へ向かう。後ろで引き止める声が聞こえたがこれ以上何も聞きたくなかった。一刻も早く一人になりたくて、手早く靴を履き替え下駄箱を後にする。
「待ってよ!」
校門を通り過ぎたところで走ってきた司に腕を掴まれた。なんだよ、もう話すことなんて無いのに。前を向いたまま振り払おうと軽く腕を振るが司は強く握って離さない。まだ何か文句があるのかと諦めて振り向く。
「嫌われるのが、怖いんだろう」
「!」
「誰かの手助けをしていないと自分に価値は無い、って決めつけてる。だから俺は……」
──金槌で頭を打たれたような衝撃だった。まだ何か話しているのが分かるが右から左にすり抜けていく。これまで築いてきた理想像ががらがらと崩れ落ち、残ったつまらない自分すら丸裸にされていく感覚。惨めだと思った。落ちた視線の先の地面が歪んで見え、これ以上恥を晒したくないと今度こそ大きく手を振り払って帰路へ走った。脇目も振らずに家へ帰ると即座に自室へ駆け込む。
心の底に押し殺した、誰にも知られたくなかった部分を覗かれた。俺自身も忘れて無かったことにしていた痼り。見返りを求めた理由の根底はそこにあった。頼られることで存在を確立させ、ここに居てもいいんだと自己暗示をかけて過ごす。思い返してみるとなんて生き様だ。ヒーローなんてとんでもない、俺はどこにでもいる村人Aだ。
#ありがとう、ごめんね
私はただ、友達と遊園地に遊びに来ていただけなのに。
「レディースアンドジェントルメン! 紳士淑女の皆々様。本日はこのミラーハウスによくぞおいでくださいました。私、司会を務めさせていただきます、名もなき道化師にございます。以後、お見知りおきを」
突如、耳が痛い程の拍手喝采が巻き起こりスポットライトを浴びて華々しく登場したのは仮面をつけたマントの男。すらりと伸びた背は細身ながら二メートル弱くらいだろうか。白黒の半々で分かれた面は二つの三日月型の瞳を携え、口も大きく弛んでいるものの本当に笑っているかはわからない。全面ガラス張りのだだっ広い部屋に集まる人々を一瞥してから大きくお辞儀する。視線だけ動かして周りを盗み見ると、皆は狂信的なまでに男に夢中だ。特に女性なんかは恍惚とした表情を浮かべている。道化師を自称するそれは伸びやかな低い声で言葉を続けた。
「皆様は〝逆さま言葉〟という遊びはご存知ですか? 地域によっては反対言葉とも言われております。本来言いたい言葉と逆の意味を持つ言葉を言って会話する遊びです。大好きを大嫌いと言ったり……、子供でも遊べる簡単なルールですね。本日はこの遊びで皆様の内なる自分を曝け出してしまいましょう!」
そこまで言い切ると再び埋もれるくらいの拍手が室内に響き渡る。思わず手で耳を塞ぐと仮面の男と目が合ってしまった。ひゅっと息を飲む音が鳴り、心臓を鷲掴みにされた気さえして冷や汗が垂れる。ヒールの高い靴の音がカツン、カツンと近付いてきて視界が仮面でいっぱいになる。
「そうですね。まずはあなたから、お手本をお願いします。鏡に向かって何か言ってみてください」
「……え、…あ゙…」
ただでさえ動揺しているところに突然言われ、喉奥にこびりついた驚愕は声にならず代わりに蛙が踏まれた時のような汚い音色を発した。道化師は私の背を押して鏡で出来た壁の前へ立たせ、一言喝を入れる。周りの鏡は道化師の姿を映していて、まるで彼が何人も居るようだ。
「そんなものじゃ内なる自分は出てきてくれませんよ! さあ、もう一度」
「わ、私……私は、 家に帰りたくない!」
鏡に映る道化師達の重圧に耐えきれず恐怖した私はミラーハウス全体に届くくらいの大きな声で叫んだ。理解できない不気味な現状から早く逃げたくて心の底から望んだ言葉の反対を告げた。瞬間、鏡の中の私は笑って
「わかった、帰ってあげる」
「え……」
短く一言言って手首を掴んできた。呆気にとられていると壁だったはずの鏡が水中のように抵抗なく崩れて『私』の力で引き摺り込まれていく。慌てて踠きながら道化師に問う。
「なんで! ちょっと、これ、どうなってんの! ねえ!」
「家に帰りたくないあなたと家に帰りたいあなたが反対になるんですよ」
「は!? ……離して! 待って、」
「内なるあなたの願いを叶えられるのは嬉しいでしょう?」
「何言って……! この子は私じゃない!」
「あなたですよ。鏡に映ったあなたなんですから」
「違う!!」
一際強く否定しても道化師は薄気味悪い仮面の奥に笑みを浮かべたまま傍観しているだけで、体はどんどん飲み込まれていく。入れ替わりに鏡の私がミラーハウスに足をつけ、向こうで楽しそうに笑っていた。いつの間にか本当の私が『鏡の私』になっている。
急いで鏡の壁に向かって、出して、と何度も叫び、叩き割る勢いで拳を打ちつける。あんなに柔らかく私を受け入れた鏡は外に出してはくれず、次第に揺れる視界から遠く見えるのは道化師が紙吹雪とともにショーの幕引きを示して深々とお辞儀する様子。
向こうの私が近付いてくる。手を振ってさよならを言うあの子に鏡である私は何も出来ない。遠ざかっていく様子を眺めるだけなんて嫌で、道化師を睨んで声を荒げた。
「ねえ! ここから出してよ。お願い!」
「ええ? 家に帰りたくないと仰ったじゃありませんか」
「あれは貴方の遊びに付き合ったからでしょ!」
「鏡に映ったあなたは帰りましたよ」
「私が帰りたいのよ!」
「ここはミラーハウス。逆さま言葉を使ったあなたは鏡のあなたの願いを叶えました。全てがあべこべになるのなら鏡のあなたが本当のあなたなのです」
「後出しルールなんてずるいわ!」
「知っていて来たものと思っていましたが、もしや迷い込まれて?」
「そうよ!」
「……そうでしたか! それは失礼しました。では、あちらの世界に未練が無くなった際はまたこちらにおいでください。その時は一緒に遊んでくださいね」
暫し問答した後納得したのか、仮面の男はパチンと指を鳴らした。すると、軽い爆発音と共に白い煙が辺り一面に舞い、強い閃光が走って眩しさから瞼を閉じる。次に目にしたのは少し遠くに佇むお化け屋敷だった。
「何してんの、行くよー」
「えっ、うん」
「怖いのかなあ、どきどきするー!」
見慣れた友達に手を引かれ目の前のお化け屋敷へ向かう。後日確認すると、先日遊びに行った遊園地にミラーハウスは無かった。あの出来事は全部夢だったのかと頭を捻りながら、これまでの日常に戻っていくのだった。
#逆さま
明かりの消えた六畳一間の片隅で、窓辺を照らす月を見上げていた。ラジオから流れるステレオタイプの歌が、今夜は妙にしっくりきて容赦なくとどめを刺してくる。壊れた涙腺に身を任せ叫ぶように泣いた午後三時。あれから時計の針は丁度十二回まわっていて、食事も睡眠もとらずに時間だけが過ぎていった。
一方的に終わりを迎えた関係はどうしたって戻らなくて、理由を問う間もなく消えたのが悔しくて、情けなくて、可笑しかった。畳んだままの布団は少し皺が寄り濡れている。頬へ触れると、感触からみっともない跡が付いているのが分かった。
乾いた笑いが零れる。枯れてしまえば後は笑うしかない。責める矛先に相手がいなければ自分へと返る。何が悪かったのか、どこを間違えたのか、どうすれば変わらず傍に居てくれたのか。答えは、未来の自分が知っているんだろうか。やけに輝く月明かりを見上げ勝手に惨めさを覚える。二人で、コンビニ帰りの夜道を歩いたときはあんなにも優しかった光が、今は遠く切なさを帯びて眩しい。
ふと、突き刺すような冷たい風が前髪を攫ったかと思えば見えたのは──白。午前三時に降る雪は淡く冷たく、そして柔らかそうに見えた。ああ、もしかしたらこんな風に、ゆっくりと積もっていったのかもしれない。重なる不満やすれ違いに気付かず、時には知らないふりをして見過ごしていた代償。思わず力が抜けて壁に凭れた右半身がずるずると擦れて床に寝転ぶ。
馬鹿みたいに恋焦がれていた。その気持ちは嘘じゃない。たとえ日付が変わったとしても昨日までの日々に別れを告げるのは、意識を手放すまでは、まだ。
#眠れないほど
拓けた世界は妙に色彩が豊かで眩しかった。並木道の桜は空のように青いし、高く建ち並ぶビルの色はパステルカラーに染まっている。電灯は明るい緑で地面は菫色だ。周りには多くの人々の行き交う気配だけが漂っていて、人の声はするのに目を凝らすとしゃぼん玉みたく弾けて居なくなる。あるいは、白くぼやけた塊が見えた側から霧散していく。おかげでこの状況を誰にも確認できない。どうしたものかと頭を抱えて唸っていると、
「会いにきてくれてありがとう。私の大切なあなた」
正面からふと、焼きたてのシュガーバタークレープのような甘い香りがした。一瞬違和感を覚えたが、ひどく心を落ち着かせる柔らかい声に、自然と導かれるまま顔を向けるとこちらを見て笑みを浮かべる少女が居た。
「どういうこと?」
最初の一言以降何も言わない彼女は、説明もなく俺の手を引きこの喫茶店へ足を踏み入れた。カウンターの奥でグラスを磨くスーツ姿の男性の頭はマーガレットの花の形をしている。入ってきてすぐ、見間違いかと目を擦ってもう一度見たが静かに会釈を返す仕草は優雅な紳士そのものだった。
彼女は言った。私の大切なあなた、と。聞きたいことは山程あったが口をついて出た質問は理由を聞くそれだった。ここに来て数十分の話だが言葉の通じる相手と出会えたのは彼女が初めてだ。見た目からして十五、六……多く見積もって十七歳位の少女はもう五十近い自分にとっては若い女の子だ。こんな若い知り合いはいないはず、それなのに少女は俺のことを〝大切〟だと言う。
「私はあなたの知る人よ、それは間違いないから。そしてあなたは私の大切な人、だから味方。安心して」
それだけ言うと、彼女はメニュー表を一瞥してからどこからともなく現れた蒲公英頭のウェイターへ飲み物を注文する。一分も経たない内に出てきたのはマロウブルーの紅茶。鮮やかな紫紺が湯気を立てる光景にはまた違和感を覚えたが、ズキリとこめかみに痛みが走ったので考えるのをやめた。まずは情報収集が先だ。
「ここは何処なんだ? 君以外に人は居ないし、俺の知っている場所と似てるようで全然違う」
「造られた世界だからね」
「造られた世界?」
「そう、面白いところなの。紅茶も無料で飲み放題」
「君は好物かもしれないが……っ、!?」
突如、頭に激痛が走る。先程の痛みとは比べ物にならないくらいの痛みに強く目を瞑る。視界の端で慌てた様子の彼女が席を立ってこちらへ駆け寄るのがわかった。何故、俺は少女の好物を知っているんだ? 喉から熱い何かが伝い体内へ染み渡っていく。霞んだ世界が再び鮮明に色づいていく。徐々に痛みが引いていき薄く閉じていた瞼を上げると俺は彼女に紅茶を飲まされていた。続けていれば当然、咽せるわけで。
「……っげほ! っけほ、…ゔ、もう飲めな、」
「ごめんなさい! 大丈夫だった!?」
「だいじょう、ぶ……なんとか」
「よかった……」
「ありがとう、助かったよ。薬みたいな味でよく効いた」
「ハーブティー、苦手なの?」
「飲めないほどでは」
「それ苦手って言わない?」
「そんなことない」
否定を返す俺に対し彼女は安心した顔で笑っていた。本当にそんなことはない。一人好んで飲むことはないけれど傍で眺めているのは好きだった。特に、マロウブルーは。
「その紅茶って何か入ってる?」
「何かってなに?」
「頭痛薬とか」
「入ってるわけないでしょう」
「こんなすぐ治るなんておかしくないか?」
「マロウブルーは特別なの。それより楽しいことしようよ」
「特別ってどういう……」
「特別は特別。折角だからこの世界で出来る事したいな」
これ以上は聞く耳持たずと改めて深緑のソファに浅く腰掛け、特別な紅茶を十分味わった彼女は行儀良く手を合わせごちそうさまを告げる。
それからは喫茶店を出て一通り街の中を見て回ることになった。ピンクに染まった本物の像がいる公園、分厚い雲の上まで届く前衛的なオブジェ、開けたら閉めるまで宝石が出続ける箱を売る雑貨屋。所々で起きる頭痛の謎は気掛かりだったが、喫茶店で起きた痛みに比べれば全然平気だし、何よりわくわくと瞳を輝かせる少女の顔を曇らせたくはなかった。不思議と焦燥感は生まれず、寧ろこの場に居れば居るほど気にならなくなってくる。
「この服似合う? ちょっと子供っぽいかな」
「子供っぽいって子供だろう」
「大人です。似合う?」
「大人じゃ……、あー似合う似合う」
「生返事! もういい、好きなの買うから」
「最初からそうした方がいいぞ」
「あなたの好みが知りたかったの」
「好みねえ……」
服を見たいと言う少女の願いに応え、次にやってきたのは一日じゃまわりきれないほどに広大なアウトレットモールだ。こんなに広い場所でも相変わらず人の気配や声はするのに姿形は朧げで、彼女以外にしっかり認識できる者はいない。今選んでいる花柄のワンピースは、落ち着いた色合いかつ地味にならない華のあるデザインで、少女から大人の間の女性によく似合う──つまり彼女にとても似合うワンピースだった。けれども、服のセンスには自信が無く、着るなら自分の好みに合った物が一番だという考えなのでいい加減な返事をしてしまった。あと、なんか照れくさい。
「決めたわ。これにする」
「決まってよかったな」
「あなたが好みを教えてくれればもっと早かった」
「はいはい」
早速着て出掛けたい、と試着室へ行く彼女を見送り、待つ間にぼうっと今の状況を整理してみる。似ているのに違う世界、人間として認識できるのは言葉の通じる少女のみ、違和感を覚えると頭痛がする、他には……。考え込むうちに手持ち無沙汰になっていた空っぽの手のひらに視線がいく。そういえばよく手を繋いでいるのに温度を感じたことがない……?
「お待たせ!」
はっとして顔を上げるとそこには、小ぶりの白い花が散りばめられたアイスグリーンのワンピースを纏う麗しい女性が立っていた。思わず目を見開く、服が変わるだけでこうも印象が変わるのか。照れ隠しに横髪を撫でながら微笑む彼女は自分のよく知る女性に酷似していた。
いや、今確信した。目の前の女性は〝私の妻〟だ。
──妻は花屋に勤めていた。花になど興味も無かった私にひとつひとつ花の名前を教えてくれたのは彼女だった。大好物は焼きたてのシュガーバタークレープとマロウブルーの紅茶。結婚後も家でよく作るためそれらはすっかり彼女の香りとして認識していた。
そんな彼女の笑う顔に翳りが見え始めたのは戦争の通達が国全体に行き渡った頃のこと。齢五十といえどまだまだ現役の私は当然駆り出される男の一人で彼女はずっと首を横に振り続け、私達は共に国の厳命に逆らい続けた。許されることではない、いずれ罰が下ると分かっていても一緒に過ごす日々を失う恐怖の方が何倍にも勝る。妻もその気持ちは同じで、蝋燭の灯火のような弱々しい光が消えゆく最後の時まで厚かましくも生きる事を決意した。
気がつくと辺りは真っ暗だった。焦げた匂いのする黒い部屋は、焼け落ちた家の跡だとすぐに分かった。頭が痛いのは崩れて落ちてきた柱に当たって出血が酷いからだ。なんとか少しだけ顔を動かすと、隣には手を繋いで穏やかに眠る妻の姿。同じように目を瞑ると眠る前の光景が思い浮かぶ。
本格的な戦争が始まり、平和だったこの街も敵の攻撃で燃え盛る炎の海となった。けたたましい阿鼻叫喚の中避難を仰ぐ声も頻りに聞こえてきたが、いつ死んでもおかしくないと思っていた私達は闇雲に逃げ隠れることはせず、籠城を決め込み、いつもどおりの一日を過ごそうと約束していた。次第にこの家も燃え移ってきた火で焼け落ちる、そんなときでも妻はあの紅茶を淹れてくれたのだった。
「どんな形でもいいから夢の世界ではずっと一緒にいられますように」
彼女が告げる最期の言葉を胸に刻みながら二人で大量の睡眠薬と一緒にマロウブルーの紅茶を飲んだ。深く、深く眠れるように、想いの込められた紅茶は私に幼い時の彼女を見せてくれた。私が思い出して意識を取り戻さぬように下手な誤魔化しで話を逸らす少女の顔が愛おしく感じる。もう一度君とともに、今度は目覚めぬ夢の中で、ずっと同じ時を過ごそう。
#夢と現実
真っ青な空の下、快活な陽射しを浴びながら頭上へ手を伸ばす。あそこが目標地点。本当に行けるなんて露程も思っていないけど、冷えた朝の空気と希望を胸いっぱいに吸い込んで心の中で企むくらいは許してほしい。
真下にはひしめく雑踏。人生なんて大仰なものを掲げて、背負い込んで、時に引っ張られて歩むごみ達。昨日まではあのごみの一部だった。けれど、今日はその一歩先に進める。高揚感に打ち震えて鳥肌が立つ。これがいわゆる武者震い? 歴史上のお偉いさん方はこんな気持ちだったんだろうか。別に興味も無いけど。
「気持ちいい……なあ!」
両手を大きく広げて大の字に身体を伸ばす。それから、反動をつけて眼前の柵に飛び乗り頼りない足場に身を預ける。
陽の光は相変わらず平等に降り注いでいる。天上はこの光のように平等な世界なのかな。本当に平等だったら、それはそれで気持ちが悪いけど、それでも。こんな馬鹿みたいな空想論に縋らなければごみに紛れることすら出来なかった。
自然と俯きがちになる顔を無理矢理起こし歯を食いしばる。ずっと、最期は笑顔と決めていた。次へのステップアップは軽く、楽しく、朗らかに。ありがとうなんて言ってやらない。別れの挨拶も必要ない。今度は「人でなし」の生を歩みたい。人生なんて、いらな──
#さよならは言わないで