拓けた世界は妙に色彩が豊かで眩しかった。並木道の桜は空のように青いし、高く建ち並ぶビルの色はパステルカラーに染まっている。電灯は明るい緑で地面は菫色だ。周りには多くの人々の行き交う気配だけが漂っていて、人の声はするのに目を凝らすとしゃぼん玉みたく弾けて居なくなる。あるいは、白くぼやけた塊が見えた側から霧散していく。おかげでこの状況を誰にも確認できない。どうしたものかと頭を抱えて唸っていると、
「会いにきてくれてありがとう。私の大切なあなた」
正面からふと、焼きたてのシュガーバタークレープのような甘い香りがした。一瞬違和感を覚えたが、ひどく心を落ち着かせる柔らかい声に、自然と導かれるまま顔を向けるとこちらを見て笑みを浮かべる少女が居た。
「どういうこと?」
最初の一言以降何も言わない彼女は、説明もなく俺の手を引きこの喫茶店へ足を踏み入れた。カウンターの奥でグラスを磨くスーツ姿の男性の頭はマーガレットの花の形をしている。入ってきてすぐ、見間違いかと目を擦ってもう一度見たが静かに会釈を返す仕草は優雅な紳士そのものだった。
彼女は言った。私の大切なあなた、と。聞きたいことは山程あったが口をついて出た質問は理由を聞くそれだった。ここに来て数十分の話だが言葉の通じる相手と出会えたのは彼女が初めてだ。見た目からして十五、六……多く見積もって十七歳位の少女はもう五十近い自分にとっては若い女の子だ。こんな若い知り合いはいないはず、それなのに少女は俺のことを〝大切〟だと言う。
「私はあなたの知る人よ、それは間違いないから。そしてあなたは私の大切な人、だから味方。安心して」
それだけ言うと、彼女はメニュー表を一瞥してからどこからともなく現れた蒲公英頭のウェイターへ飲み物を注文する。一分も経たない内に出てきたのはマロウブルーの紅茶。鮮やかな紫紺が湯気を立てる光景にはまた違和感を覚えたが、ズキリとこめかみに痛みが走ったので考えるのをやめた。まずは情報収集が先だ。
「ここは何処なんだ? 君以外に人は居ないし、俺の知っている場所と似てるようで全然違う」
「造られた世界だからね」
「造られた世界?」
「そう、面白いところなの。紅茶も無料で飲み放題」
「君は好物かもしれないが……っ、!?」
突如、頭に激痛が走る。先程の痛みとは比べ物にならないくらいの痛みに強く目を瞑る。視界の端で慌てた様子の彼女が席を立ってこちらへ駆け寄るのがわかった。何故、俺は少女の好物を知っているんだ? 喉から熱い何かが伝い体内へ染み渡っていく。霞んだ世界が再び鮮明に色づいていく。徐々に痛みが引いていき薄く閉じていた瞼を上げると俺は彼女に紅茶を飲まされていた。続けていれば当然、咽せるわけで。
「……っげほ! っけほ、…ゔ、もう飲めな、」
「ごめんなさい! 大丈夫だった!?」
「だいじょう、ぶ……なんとか」
「よかった……」
「ありがとう、助かったよ。薬みたいな味でよく効いた」
「ハーブティー、苦手なの?」
「飲めないほどでは」
「それ苦手って言わない?」
「そんなことない」
否定を返す俺に対し彼女は安心した顔で笑っていた。本当にそんなことはない。一人好んで飲むことはないけれど傍で眺めているのは好きだった。特に、マロウブルーは。
「その紅茶って何か入ってる?」
「何かってなに?」
「頭痛薬とか」
「入ってるわけないでしょう」
「こんなすぐ治るなんておかしくないか?」
「マロウブルーは特別なの。それより楽しいことしようよ」
「特別ってどういう……」
「特別は特別。折角だからこの世界で出来る事したいな」
これ以上は聞く耳持たずと改めて深緑のソファに浅く腰掛け、特別な紅茶を十分味わった彼女は行儀良く手を合わせごちそうさまを告げる。
それからは喫茶店を出て一通り街の中を見て回ることになった。ピンクに染まった本物の像がいる公園、分厚い雲の上まで届く前衛的なオブジェ、開けたら閉めるまで宝石が出続ける箱を売る雑貨屋。所々で起きる頭痛の謎は気掛かりだったが、喫茶店で起きた痛みに比べれば全然平気だし、何よりわくわくと瞳を輝かせる少女の顔を曇らせたくはなかった。不思議と焦燥感は生まれず、寧ろこの場に居れば居るほど気にならなくなってくる。
「この服似合う? ちょっと子供っぽいかな」
「子供っぽいって子供だろう」
「大人です。似合う?」
「大人じゃ……、あー似合う似合う」
「生返事! もういい、好きなの買うから」
「最初からそうした方がいいぞ」
「あなたの好みが知りたかったの」
「好みねえ……」
服を見たいと言う少女の願いに応え、次にやってきたのは一日じゃまわりきれないほどに広大なアウトレットモールだ。こんなに広い場所でも相変わらず人の気配や声はするのに姿形は朧げで、彼女以外にしっかり認識できる者はいない。今選んでいる花柄のワンピースは、落ち着いた色合いかつ地味にならない華のあるデザインで、少女から大人の間の女性によく似合う──つまり彼女にとても似合うワンピースだった。けれども、服のセンスには自信が無く、着るなら自分の好みに合った物が一番だという考えなのでいい加減な返事をしてしまった。あと、なんか照れくさい。
「決めたわ。これにする」
「決まってよかったな」
「あなたが好みを教えてくれればもっと早かった」
「はいはい」
早速着て出掛けたい、と試着室へ行く彼女を見送り、待つ間にぼうっと今の状況を整理してみる。似ているのに違う世界、人間として認識できるのは言葉の通じる少女のみ、違和感を覚えると頭痛がする、他には……。考え込むうちに手持ち無沙汰になっていた空っぽの手のひらに視線がいく。そういえばよく手を繋いでいるのに温度を感じたことがない……?
「お待たせ!」
はっとして顔を上げるとそこには、小ぶりの白い花が散りばめられたアイスグリーンのワンピースを纏う麗しい女性が立っていた。思わず目を見開く、服が変わるだけでこうも印象が変わるのか。照れ隠しに横髪を撫でながら微笑む彼女は自分のよく知る女性に酷似していた。
いや、今確信した。目の前の女性は〝私の妻〟だ。
──妻は花屋に勤めていた。花になど興味も無かった私にひとつひとつ花の名前を教えてくれたのは彼女だった。大好物は焼きたてのシュガーバタークレープとマロウブルーの紅茶。結婚後も家でよく作るためそれらはすっかり彼女の香りとして認識していた。
そんな彼女の笑う顔に翳りが見え始めたのは戦争の通達が国全体に行き渡った頃のこと。齢五十といえどまだまだ現役の私は当然駆り出される男の一人で彼女はずっと首を横に振り続け、私達は共に国の厳命に逆らい続けた。許されることではない、いずれ罰が下ると分かっていても一緒に過ごす日々を失う恐怖の方が何倍にも勝る。妻もその気持ちは同じで、蝋燭の灯火のような弱々しい光が消えゆく最後の時まで厚かましくも生きる事を決意した。
気がつくと辺りは真っ暗だった。焦げた匂いのする黒い部屋は、焼け落ちた家の跡だとすぐに分かった。頭が痛いのは崩れて落ちてきた柱に当たって出血が酷いからだ。なんとか少しだけ顔を動かすと、隣には手を繋いで穏やかに眠る妻の姿。同じように目を瞑ると眠る前の光景が思い浮かぶ。
本格的な戦争が始まり、平和だったこの街も敵の攻撃で燃え盛る炎の海となった。けたたましい阿鼻叫喚の中避難を仰ぐ声も頻りに聞こえてきたが、いつ死んでもおかしくないと思っていた私達は闇雲に逃げ隠れることはせず、籠城を決め込み、いつもどおりの一日を過ごそうと約束していた。次第にこの家も燃え移ってきた火で焼け落ちる、そんなときでも妻はあの紅茶を淹れてくれたのだった。
「どんな形でもいいから夢の世界ではずっと一緒にいられますように」
彼女が告げる最期の言葉を胸に刻みながら二人で大量の睡眠薬と一緒にマロウブルーの紅茶を飲んだ。深く、深く眠れるように、想いの込められた紅茶は私に幼い時の彼女を見せてくれた。私が思い出して意識を取り戻さぬように下手な誤魔化しで話を逸らす少女の顔が愛おしく感じる。もう一度君とともに、今度は目覚めぬ夢の中で、ずっと同じ時を過ごそう。
#夢と現実
12/5/2024, 8:45:39 AM