また、もうすぐ6月が来る。そして、42歳を迎える。世間で云う立派な孤独なおじさんだ。
3年前に離婚歴あり、妻とは一年の別居の末、お別れした。それでも、それなりにお付き合いする女性には恵まれ、寂しい等と感じることは無かった。
昨年12月にも、些細なことで考え方のズレが生じ、正直に「面倒くさい」と感じてしまい、さよならを彼女に告げた。
結局、自由が良い。この歳になっても、若かりし頃の感覚や残り香が自分を纏っており、歳を重ねるとそれを上手に隠せるようになっただけだ。
ふと、ベッド横のサイドテーブルに置いてあるマネークリップに目が止まる。昨年の誕生日に彼女がくれた物だ。
12月に別れた彼女の最後のLINEは「幸せでした。さよなら」だった。
今更ながら、自分は幸せか?なんて考えて生きていただろうか。ということは逆説的に、彼女の幸せも考えていなかったことにならないか。
その刹那、ひとりベッドの上で、とてつもない焦りを覚えた。
題:刹那
全ての連絡先を削除し、引っ越しを済ませて、
SNSなどからもお互いの痕跡を辿れないようにした。
…今も。
朝になると、眠そうな顔をして気怠そうにシャツに腕を通す姿を思い浮かべてしまう。
夜は、つい薄灯りに照らされたあなたを思い出し、おやすみと呟く。
もう、二度と、絶対に会いたくないと、
こんなにも、こんなにも思っているのに。
題:たとえ間違いだったとしても
当時、遠距離恋愛中の彼女は、瀬戸内海に面した小さな観光地の町に住んでいた。
自分は東京でも多摩市住みだったが、年初めに六本木にオフィスがある、それなりに名の知れた企業に転職が決まっていた為、併せて引っ越しを考えていた。
ひと月に一回でも潮風が香る町で、飾らない自然体の彼女と会えば日々の混沌した世界から離れられ癒やされていた筈なのに、いつの間にか垢抜けず田舎臭いように思い、また面倒だと感じるようになってしまっていた。
そして転職、引っ越しにかこつけて、電話で別れを告げた。彼女は「分かった」とだけ小さく呟いた。
…あれから、忙しい冬が過ぎて、いつの間にか桜が既に散り、5月を迎えようとしていた。
ふと、同僚と連休の話しになり、そういえばと思う。
もう二度と行く事は無いあの町。
起き抜けに作ってくれた、しじみと長葱の味噌汁と屈託の無い彼女の笑顔。
地上37階のオフィスから見える、ビル群の隙間に覗く空を眺めながら、この都市では「手に入れることの出来ないもの」の大きさを実感していた。
題:何もいらない
兄が失踪して10年以上経っていた。
運送会社が失敗し、従業員の給料も借金も全て踏み倒し消えた。保証人だった父はその借金を背負い、肩代わりした。
当時、兄に碌な思い出が無かったので、冷たい眼で父を見ていた気がする。
コロナ化の中、対面制限で私のみが付き添う病室で、独り父は70歳の誕生日に亡くなった。70年積み重ねた時間の最期は寂しいものだった。
葬儀を済ませ、ちょうど父の誕生日から、ひと月経った日に、私のスマートフォンに見知らぬ番号から着信が入っていた。
電話番号をインターネットで調べると「大阪府西成警察署」と表示された。すぐに掛け直し、いくつかの部署を経由して生活安全課の年配の男性が早口で喋る。
「こちらの捜査中に、お兄さんが東京で見つかりましたが、自分には家族はいないと思っている、金輪際関わらないでほしいと言っています。よろしいですか」
「…結構です。ただ、ちょうどひと月前、1月9日に父が亡くなった、とそれだけ伝えて頂けますか」
「…分かりました」と言い終わると同時に電話は切れた。
父は、兄に対して相変わらず甘いな、と私はふっと笑った。
題:届かぬ想い
「本当に、夫は昔から外面は良いんですけど、私達家族には辛く当たるような所があって、わたしの母や姉の悪口を散々聞かされてきたんです」
「それの影響だと思うんですよ。急にご飯が食べられなくなってしまったのは。え?悪口の内容?そんなのは、よく覚えてませんけど、とにかくずっと言われてきたんです」
「夫は、近所にも私の悪口を言い回るんですよ。あいつはおかしいとか、ぼけてきたとか。そりゃ片付けなど昔のようには出来ませんけどね」
「夫は警察官でしたが、しょっちゅう後輩や同僚を連れて帰ってくるので大変でした。こっちの事は何にも考えていませんからね。夫は…」
窓越しに良く晴れた青い空を背景に彼女は喋る。
奥の部屋では、夫の遺影が笑っていた。
題:快晴