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当時、遠距離恋愛中の彼女は、瀬戸内海に面した小さな観光地の町に住んでいた。

自分は東京でも多摩市住みだったが、年初めに六本木にオフィスがある、それなりに名の知れた企業に転職が決まっていた為、併せて引っ越しを考えていた。

ひと月に一回でも潮風が香る町で、飾らない自然体の彼女と会えば日々の混沌した世界から離れられ癒やされていた筈なのに、いつの間にか垢抜けず田舎臭いように思い、また面倒だと感じるようになってしまっていた。

そして転職、引っ越しにかこつけて、電話で別れを告げた。彼女は「分かった」とだけ小さく呟いた。

…あれから、忙しい冬が過ぎて、いつの間にか桜が既に散り、5月を迎えようとしていた。

ふと、同僚と連休の話しになり、そういえばと思う。
もう二度と行く事は無いあの町。
起き抜けに作ってくれた、しじみと長葱の味噌汁と屈託の無い彼女の笑顔。

地上37階のオフィスから見える、ビル群の隙間に覗く空を眺めながら、この都市では「手に入れることの出来ないもの」の大きさを実感していた。

題:何もいらない

4/20/2024, 7:21:55 PM