「逆光」
背後から照らされる光はあまりにも眩しい。
目には入ってこない光。
それでも逆光が自分を通りすぎて、
目の先を照らす人や物が酷く輝いて見える。
それらが眩しい。
背中だけが暑い。
太陽が背中を押してくるような感覚というより、
自分の影を踏んで太陽から逃げるように歩いていく感覚。
私の人生は影を踏んで踏んで、
たまに振り返って太陽を見るけれど、また影を踏んで。
いつまで経っても明るい自分を肯定できないみたいに、
暗い自分を突き詰めて責め立てていく。
それが私の人生でしかないのだ。
そう、逆光はいつまで経っても嫌い。
受け入れたくもない。
太陽なんてなければ、逆光なんて存在しないし、
明るい自分がいなければ、暗さしかないから、
それを「ただの自分」だと肯定できてまだ楽なのかもしれない。
でも、死ぬまで太陽はあるし、
生きてたら明るい自分はきっとくる。
明るい自分も暗い自分も肯定できたら、
360度、どこへでもいけるのかな。
逆光の眩しさを受け止められるかな。
冬の澄んだ空気が暖かく感じる。
自然の風のはずなのに、
なぜか実家のヒーターからの暖風と似ていた。
温かさだけじゃない。懐かしさも。
一つ前の冬の暖かい風なんて、何年前に感じただろう。
実家にだって、ここ数年帰っていない。
冬の暖かい風の後に来る冷たい風が私を寂しくさせる。
厚着の枚数が少ない寂しさは元からあったけれど。
当たり前に感じていた「一人」の寂しさが来た。
冬の冷たい空気ほど当たり前に感じていた「一人」が
暖かい風を感じたことで、「実家」を求めた。
私は心に火が灯ったような感覚になった。
この火が消えないように。
そう思って暖かい風を追いかけるように、
実家へと向かった。
きっと運命的な自然の暖かい風よりも、
実家の暖かい風の方が運命的な空気であり、
そんな空間なんだろうな。
幸せとは
幸せよりももっと単純で美しいものを探している。
「単純」とか、「美しい」とか、よく分からない言葉。
私はよく分からない。
なぜなら、どこからが単純で、どこからが美しいか、
分からない。
そんな言ったら、どこからが複雑で、どこからが醜いのか。いやどんな言葉だって分からないのかもしれない。
それらの言葉は人それぞれの基準であって、
基準における「正解」など分からないじゃないか。
そうだ。私の目指しているものの手前にある「幸せ」だってもっと分からない。
曖昧な言葉こそ、それになろうとすると、
不安とか心の迷いが起こる。
そんなこと考えたら、
最初に言った「幸せよりももっと単純で美しいもの」
これってなんだ?
心から適当に引き抜いた言葉の意味が不可解に感じてきた。
私は、「幸せ」に対する不信感がある。
「幸せ」って、まるで人生を救って明るくして、このままでいたいと思えるようなものだと、子供の頃は思っていた。
そんな、子供の頃、感じていた「幸せ」とは別れ、
大人になって裏切られた。そんな幸せなど幻想だと。
それから私は「幸せ」よりももっと綺麗な存在になりたいと思うようになった。
例えば、「健康的な心身」のような、
人間本来の状態が綺麗な存在だと思っていた。
私はそんな状態からは、かけ離れている。
心身共に健康とは言えない。
だけれど、なんとなく漠然とした願い。
それが「単純で美しいものになりたい」。
それが私にとっての綺麗な存在。
逆に私にとって、複雑とか、醜いとか、
そんな言葉を人間に置き換えると、
不幸な人間が思いついた。
私はきっと「私は幸せになりたい」と言えるほど、
単純になるべきかもしれない。
その単純さが美しさを滲み出すのなら、
私の望みは幸せなのかもしれない。
私の望みは、
自分が思っていたよりもっと手前にあったのだ。
私の心から出る言葉を作品化しようとして、
「幸せよりももっと単純で美しいものを探している」と
書いたが、私には素直さが足りなかったようだ。
素直になれば、自ずと幸せになるためのスタート地点が見つかるのだろうか。
さて、私はどんな幸せが好きだろうか、
「君と見上げる月…🌙」
新月になればいいのに。
誰かを想える余裕がないほど、
心が真っ暗になれば、
心の愛が満たない私の悩みだけで済むのに。
「 」
数年前。
言いたかった。言葉を。
出したかった。声を。
そして、今取り返した。
「やっと人間らしくなったな、自分。」
「『助けて』をちゃんと自分の声で言えるなんて。」