愛も平和も幻想的な言葉のように聞こえる
もしも愛が誰かに伝わってそれが連鎖して
平和になったとして、
みたいな想像、頭の労力をフル回転させたような
そんな幻想的な思考回路だ。
私に置き換えてみるか。
愛というなら両親からの愛。紛れも無い愛。
平和というならまだこの身の回りにはない。
「愛と平和」を体感で思い出すと、
それは幻想ではなく、現実的な理想。
幻想的な言葉なんて名付けていた自分が馬鹿馬鹿しい。
体感が現実味を教えてくれる。
体感が教えてくれた「愛」はあっても、「平和」はない。
なら、「平和」はまだ半分幻想的な言葉としておこう。
「大好きな君なんていない」
私は愛情を注げられる相手なんていない。
自分に愛情を注げることもできない。
だが、気づいた。
私は「君」に「大好きな」がついていることで、
それが「恋人」だと勝手に意味づけていた。
思い返したら、私は両親を愛してるし、
今ベッドの横に座っているぬいぐるみも愛してる。
愛しているものに対する愛情は、
「愛してる」というシールを貼るきっかけがあって
芽生えるもの。
愛してるシール、手元にまだ余ってるかもな。
何から貼るのが楽しいだろうか。
いや、愛してるシールという言語化ができた私。
私から貼ろうかな。シールを丁寧に自分に貼る感覚。
自分を大切にしている気分でとても清々しい。
「大好きと思いたいのは自分だった」
自分でいることの安心感って小さな太陽みたいだなって。そう思うんです。
自分に自信を無くしたり、自分を傷つけてしまったり。
気持ちが沈むように太陽が沈んで、真っ暗な心になることがあります。
でもそれは夜明けを待つように自分でいることの安心感を求めていたら、いつかは太陽が昇って、心の温もりを感じる。
その度、「ああ、これが私らしさ」だなと。
安心感を得たり、無くしたり、安心感を得た感覚を思い出したり。太陽のように見え隠れするのと同じだなって。
今まで安心感は太陽のようにここまで言ってきた。
でも実は自分でいることの安心感を最も感じるのは、夜。自分の部屋に籠って寝る前に心を落ち着かせるときなのだ。だからこそ、太陽が外にない時間、自分の心と向き合って温もりを感じる。
その時の安心感がが「小さな太陽のよう」。
そういった表現をしたのだ。
皆さんの心の中には、小さな太陽と呼べるような、
暖かいものが心にあるだろうか。
なくてもいいよ。朝、太陽を浴びれば少しでも心は明るくなる。「太陽のような」ってお題だけれど、結局一番求めているのは、「太陽」だよね。
太陽のような
「逆光」
背後から照らされる光はあまりにも眩しい。
目には入ってこない光。
それでも逆光が自分を通りすぎて、
目の先を照らす人や物が酷く輝いて見える。
それらが眩しい。
背中だけが暑い。
太陽が背中を押してくるような感覚というより、
自分の影を踏んで太陽から逃げるように歩いていく感覚。
私の人生は影を踏んで踏んで、
たまに振り返って太陽を見るけれど、また影を踏んで。
いつまで経っても明るい自分を肯定できないみたいに、
暗い自分を突き詰めて責め立てていく。
それが私の人生でしかないのだ。
そう、逆光はいつまで経っても嫌い。
受け入れたくもない。
太陽なんてなければ、逆光なんて存在しないし、
明るい自分がいなければ、暗さしかないから、
それを「ただの自分」だと肯定できてまだ楽なのかもしれない。
でも、死ぬまで太陽はあるし、
生きてたら明るい自分はきっとくる。
明るい自分も暗い自分も肯定できたら、
360度、どこへでもいけるのかな。
逆光の眩しさを受け止められるかな。
冬の澄んだ空気が暖かく感じる。
自然の風のはずなのに、
なぜか実家のヒーターからの暖風と似ていた。
温かさだけじゃない。懐かしさも。
一つ前の冬の暖かい風なんて、何年前に感じただろう。
実家にだって、ここ数年帰っていない。
冬の暖かい風の後に来る冷たい風が私を寂しくさせる。
厚着の枚数が少ない寂しさは元からあったけれど。
当たり前に感じていた「一人」の寂しさが来た。
冬の冷たい空気ほど当たり前に感じていた「一人」が
暖かい風を感じたことで、「実家」を求めた。
私は心に火が灯ったような感覚になった。
この火が消えないように。
そう思って暖かい風を追いかけるように、
実家へと向かった。
きっと運命的な自然の暖かい風よりも、
実家の暖かい風の方が運命的な空気であり、
そんな空間なんだろうな。