様々に鳴き連ねる蝉の声が聞けえなくなり、厳しい暑さも和らいで風吹けば秋を感じるようになった。焼き付ける日差しは優しさを帯びているが未だ付き纏う暑さは衰えず、影に体を隠したならば僅かばかりの心地よい季節を肌に感じる。朝晩はやや冷えを感じるようになり、一日一日とゆっくりだけれど確実に次の季節へ歩みを続ける。
不意に、心に空いたままの穴を埋める手立てもないままに惰性と野心に揺られ、ぶらりぶらりと生きる私に吹き付ける冷たい風が寂しさを運んでくる。大人にはまだ幼く子供にはもう幼さを見せない思春期の頃、父のように強く逞しく優しい姉が嫁いで実家を出た。いやいや、既に実家を出て彼氏のアバートで同棲をして一年ほどだから、姉の存在を身近に感じなくなって寂しさを覚えたのはこの時か。
姉の彼氏はとても穏やかで朗らかで優しく、姉と共に実家に訪れたときには暖かく接してくれた。兄が二人いる私には、兄という存在は嫌という程強く感じていたが彼は大人の振る舞いでもって安心感を与えてくれた。姉とのデートなど行きたいだろうに、休みの日には私たち兄弟を釣りに連れ出してくれたりカラオケへ誘ってくれた。いつしか本当の兄のように信頼し懐いていた。
姉の結婚式の日、朝早くスーツを着て準備をする私たち家族はどこか興奮気味で、まるで祭りの縁日にでも出かけるかのようだった。母子家庭で我慢し忍ことの多い姉は、どれだけのことを犠牲にしてきただろう。苦労と難儀の果てにやっと手にした幸せに私も強い喜びを感じて、だけれど緊張でふわふわしていた。
挙式、披露宴と慣れない環境に萎縮していた私達に少しおちゃらけながら声をかけに来た姉はとても綺麗だった。その表情は幸せそのもので、これからの生活への希望や期待を見て取れた。けれど、やはり少しの不安があったのだと思うのは、普段はおちゃらけることの無い姉の姿に無理に私たちの気持ちを解そうとしているようにも、自分自身を落ち着かせようとしているようにも見えた。
味めて顔を合わせた義兄の家族や親類もまた、2人を祝福し幸せそうだった。2人を眺めながら思い思いに話を弾ませ食事を楽しんでいる姿を見ながら私たち家族も特別なひとときを楽しんだ。
姉の結婚式から一週間ほど、義兄と共に姉は地元を離れ遠く離れたところへと引越して行った。一人でいるとき、涙が零れ口が震えた。もう今までのように会えない、甘えることもできないのだという現実に押しつぶされて心に大きな穴が空いた。父のいない我が家にとって姉の存在はとても大きく、とても強いものだった。
半年ほどの時が過ぎた頃、大きくなったお腹を優しく撫でながら姉が玄関に立っていた。出産、そしてせめて首が座るまでは実家で世話になるからと帰省してきたのだった。姉が戻ってきたことがとても嬉しかったが、姉は私たちの兄弟だけれど、それ以上に一人の母親になるんだと複雑な気持ちを抱いていた。独占できないことの寂しさやもどかしさ、それでいて幸せそうな姉の姿を見てはつられて笑顔になるほどの嬉しさ。けじめをつけられない自分な幼さに恥ずかしくなって踏ん切りをつけることを決めたが、やはりすこし甘えたい気持ちは無くならなかった。
母子家庭で兄弟も多くいつも寂しさを感じながら過ごしてきた。そこに友を亡くしたことや姉の結婚にと心の穴を塞げないまま大人になっていた。だから恋人との交際はいつだって結婚前提の真剣なものだった。交際から二週間で必ずご家族に挨拶をしては、真面目すぎず気楽に付き合ってみなさいなどとご両親に指摘されたこともあった。きっと、恋人が私の傍から居なくなるのが怖かったのかもしれない。それでいて、過去の失恋の経験から自分に自信が無かったことが必死さに拍車をかけていたのかもしれない。
結局、縁に恵まれないまま気がつけばこんな歳になっている。違う、縁には恵まれていた。別れてもふた月後も経てば新しい出会いに恵まれていたのだから。私はそれを大切にしなかった、恋人を大切にしなかった。言い訳や屁理屈で自己を正当化して逃げ回っていたのだと思う。いま後悔したって時を遡ることはできないのだから滑稽な様を見るだけだ。
僅かに開けた窓から吹き込む優しい風に、私のふわふわした心と同調するように揺れるカーテンが優しく頭を撫でている。
「ココロオドル」
皆さんこんにちは、昨日「今晩、投稿します」声高らかに宣言した私ですが、失念して寝てしまいました。
そして、たったいま投稿致しました。
相も変わらず訳の分からない駄文で長文なために、、執筆中はラグが酷く難儀しました。その為、誤字脱字などあるかもしれません。
どうか一読して頂けますと幸いです。
束の間の休息
十代の頃から建設業種において職人として汗を流し、時に挫け時に迷いながらも技能を磨き技術を向上させるべく精進してきた。十五歳の時には一人親方をしていた祖母の手伝いで型枠大工の仕事に打ち込み、手伝いが終わればそれがきっかけで別の会社へ飛び込んだ。山の中にある土場に乗り合わせて集まれば、夏なら陰へ逃げ込み、冬ならドラム缶で木くずを燃やして暖を取り談笑した。私の親方は当時で七十代、私のことを孫のように可愛がってくれ優しくし接してくれたが仕事ではとても厳しかった。
十九歳を目前にひとり宮城県の会社へ住み込みの職人として就職したが、所謂「反社」にいた人たちが営んでいる会社だった。仕事で下手を打てば帰社して、車座で座る従業員の目の前で苛烈な制裁を加えられた。他の従業員に殴られた時、痛みを訴えれば馬鹿にされ、罵られて人格を否定された。
逃げればどれだけ楽だったろうと考えたことも度々あるが、それができる状態ではなかった。常に監視をされていた、銭のひとつも持たなかった。逃げ出した先で路頭に迷うことになるのは容易に想像が着くほか、元反社の面子が揃っていることもあって情報網ら広い。かつて逃げ出した従業員は県外に居ても見つけ出されて連れ戻されている。連れ戻された従業員への制裁はない、というのも洗脳するために社長や幹部が優しく温かく寄り添うからだ。
辛く息苦しい日々からやっとの思いで逃げ出すも、ひと月もたたずして連れ戻される。だが、逃げ出した先で待っていたのは寝る家も暖かい風呂も布団も、美味しい食事もない現実。働くことも出来ず、銭も持たない着の身着のままでの生活など容易ではない。そんな時にさも心配したと言わんばかりの出迎えで、涙ながらに身を案じたのだと言われればぐっとくるものだ。そして、お前が必要なのだ、お前の仕事は素晴らしく他の者の見本となるものだとおだてられれば、そうなのかと信じてしまう。
会社について、社宅の居間で静かに冷静に、されど情を誘い、刷り込むように声をかければ洗脳された金の成る木ができあがる。そんな人間を見ていれば逃げようなどとは思えなかった。
私にも洗脳しようと企てが何度もあったが、私は自分の信じたことしか信じない性分だ。終に洗脳は出来ぬかと悟った社長や幹部は、私への接し方を変えた。つまりアプローチを大きく変えたのだ。否、従業員の中でとりわけ問題を抱えていた人間を追放した頃から優しく丸くなった。単にストレスが軽減されたことで心に余裕が出来たのか、震災後の復興事業で売上が爆増したことでゆとりが出来たのかもしれない。 何れにせよ私は洗脳されることはなく、仕事の先々で交友関係を広く作って抜け出すことに成功した。
その後は過去にも執筆したように、絵を描いてくれた人が元は反社の人間で現在進行形でシャブ中だった。またある人は元反社で詐欺師で現在も反社と繋がりのある人だったりと、どこまでも黒い影は私に付きまとった。だが、これは私が全てを他人に転嫁し、依存し、頼って来た結果である。悪の道を行く者やその道を歩いてきた者からすれば、私はさぞ美味しいそうに見えるモだったろう。
それらを断ち切るのは本当に大義なことだったが、それも自分自身で蒔いた種。最後は相当に危ない橋を渡ったが、繋がりを断ち切り地元へ帰ることができた。地元へ帰ることが出来たのはいいものの、私は人生の路頭に迷うこととなった。人の人生の自然なながれは、中学校を卒業して進学か就職。或いは高校や大学を卒業して就職、または専門的なことを学べる道へ進学。吟味して飛び込んだ会社でキャリアを積んだり、スキルを身につけたりする。転職だってすることもあるだろう、その時には少しでも収入向上や待遇の向上、或いはより自分にとって好都合な会社を模索する。そうして自分の信じた人生観と思い描く将来像へと歩んでいく。
しかし、私にはそれらの機会がなかった。被害者振るつもりは毛頭ない、将来について、人生について深く考えもせずふらりふらりと気の向くままに動いてきた私が作り上げた末路だ。私には何ができて、何ができないのか。何をしたくて何がしたくないのか。何が好きで、何が苦手で嫌いなのか、得手不得手さえ分からなかった。自分のことを省みて、客観的に多角的に自分自身という人間を観察することすらせず、のらりくらりと時間を無駄にしてきた。だから、自由になった瞬間から私の本当の人生が始まったのだ。
たくさんの仕事を経験した。まずは、人の役に立ちたい、誰からも頼られるヒーローのような人間になりたいと思って商業施設で施設警備員として働いた。入社して新任研修を終えて、私の地元の商業施設へ配置された。そしてひと月後には重要なポストでの勤務を任して貰えるようになり、店幹部の方や設備員のかたやセンター長にも仕事や姿勢を評価して貰えるように。センター長には休みの度に飲みに誘って貰えるようになっていた。
巡回中のお客様対応や、店舗やテナントの事案対応も周囲からの評価は高くやり甲斐を強く感じていた。もちろん、目立つ立場ではあるし事故た事案では直ぐに駆けつけるのが警備員である以上、恨まれることや難癖を付けられることもあった。不良なんてのは優しく話をすれば「○○さん」なんて呼んで懐いてくれることが多く困らなかったが、酔っ払いやネジの飛んだ人の対応には骨が折れた。
仕事の中で強いストレスを受けることはあまり無かったし、巡回時は基本的にはひとり。親しいお客様ややんちゃな若い子や、テナントのスタッフの方々との触れ合いもあり充実していた。ただ一つ、同僚に対して思うところが吐き出せばキリがないほどであった。事故や事案があれば、最寄りの隊員が駆けつけて対しなければならないが、無線を無視したり他の隊に押し付けたりと散々であった。もちろん、そのような対応が苦手な隊員に対しては教育指導やフォローアップも行っていた。どうしても難しいならほかの隊員で対応を代わるが、その代わりに巡回を引き受けたりその他の対応を行うよう指示をしている。それを行わずして不満を口にして、自分自身の仕事を全うせず責任を放棄する隊員に腹が立つ日々を送っていた。
得意なことを活かしてくれればそれでいい、書類作成が難しいと思うならば、苦手だと感じたならば
得意としている私か副隊長へ正確に引き継いでくれればそれでいい。だが、事故事案については時系列やお客様情報など記録するものが多く、事細かに記録したものを併せて引き継ぎを受けなければ作成できず、警備隊の信頼が揺らぐことになる。事実、それらの不備でなんども店幹部やセンター長から適切に指導や再教育を行うよう何度も指摘されている。
ところが、「もう年寄りだから」「若くないから」などと屁理屈を垂れては真面目に聞かないのだ。本社へ相談し、一週間ほど再研修に来てもらったがお手上げだった。そんなことが続くものだから、ほかの職を探しながら勤務を続けていた。
その後は別業種の職人になって楽しく過ごしていたらいいものの、仕事がなくなって解雇。また別の仕事に行けば、求人情報や面接や職場見学などの時に受けた説明と違ったりと散々であった。
そして現在は現場監督として様々な現場へ赴いているが、会社として無難であれど現場単位では滅茶苦茶だったりする。私は出向して応援に入っているのだが、例えば今の現場では過去のトラウマを呼び覚ますようなパワーハラスメントを受けている。会社へは相談したが、何も変わらないならこの会社とはお別れだと思い始めている。
そして、いま私の胸の中でふつふつと湧いている感情、思い描いている働き方がある。それは、この現場を最後としてもっと自分を大切にできる仕事に転職しようということだ。知っている人は多いと思うが、現場監督は残業が多いが、ここについては気にならない。問題はプライベートな時間が限られるということ、趣味に没頭する時間があまりないこと。これまで転職の度に年収を増やしてきたし、現在の職も毎年しっかりと昇給するため目に見えて年収が増えていく。しかし、自分の時間、何かに浸れる時間は大きく減った。
将来の目標や、、小さな夢はあるけれど肩肘張らずありのままの自分を活かせる働き方というのが健康で健全な生き方なのかもしれない。収入は激減するが、たった一度の人生、限られた時間はたくさん使うことが出来る。
釣り、レザークラフト、パラコードクラフト、料理
趣味の数だけ時間が必要だ。働きながらも趣味を満喫できるのならば、人生において束の間の休息と言えるのではないだろうか。
世間体、常識、色々なことがのしかかってくる人生を如何に心軽く歩いていくか。
その選択も、道のりも、歩き方も
自分の思うままに決めていいのだ。
人は生きてさえいれば、
どうとでもなる。
なるようにしか、
ならないのだ。
人生ってそんなものなんだ。
大好きな恋人とすごく毎日はとても刺激的で、仕事におわれる私には何よりもの癒しだった。ため息を吐きながらアパートの共用階段をのそりのそりと踏みしめていく。玄関の鍵を開けると合鍵を渡していた恋人が、私に連絡なくサプライズで訪ねてきていた。どれだけ嬉しかっただろう、距離離れた恋人には会いたくてもなかなか会えなかった。込み上げてくる想い、溢れてくる愛おしさからいつまでも抱きしめて離れなかった。
私の恋人は強い香りを嫌うから、タバコを吸う私に対して臭いからではなく身体に悪いからやめようといつも声をかける。そして、外での職人仕事だからとてもよく汗をかく私は「AXE」のスプレーを愛用していたことにも触れる。汗の臭いの正しいケアはシャワーの後や、細めな着替えや汗の拭き取りだよと教えてくれた。そんな恋人は自身も身体や汗のケアを良くしていた。だから香りものは一切使わなかった。
落ち着いていて大人な振る舞いをしていた恋人を初めて見た時、私は同い年くらいだと思っていた。だから声をかけてアプローチを続けた。そして告白をする前に一線を超えてしまったが、告白した時に五歳も年下だと知った。だけれども、歳を知っても恋人を子供っぽいなと思うことはなかった。口にする言葉や考え方、人への接し方や態度は見習わなければと思うほど確りしていた。甘えたいときには全力で甘えてくれる姿に、愛されていること信頼されていることを感じて満たされていた。同じように私も甘えたい時は全力で甘えていた。恥も外聞もプライドもない、ただ恋人に全てをさらけ出していた。
恋人は少し高いヘアケア商品を愛用していた。訊けば頭皮に負担をかける成分が使われておらず、そして香りも優しく自然と馴染むから選んだのだという。この商品は恋人の匂いそのものだった。もちろんスキンケアやボディケアにもこだわっていた恋人は、微香性の柔らかな香りを纏うクリームをいつも塗っていた。全身から香る恋人の香りに包まれる瞬間はいつも幸せで、どこか心から安心できた。気がつけば私も恋人に倣ってケアを始めていた。その香りに「この匂い優しくて、あなたに合っていて好き」と頬を寄せてくる恋人が堪らなく愛らしかった。
私の不甲斐なさから恋人に別れを告げられてしまったけれど、数年の後に結婚をしたと聞いたけれど、私はいつまでもあなたの幸せだけを願っています。
そして今、香水に詳しい年長者からの施しを受けて、私に合う香水をほんの少しだけつけている。そう、目立たず場を乱さない程度に。
あなたと過ごした日々の甘い記憶は、この香水を嗅ぐ度、フレッシュでウッディな香り共に別れを告げる。
このアプリを始めたのは、2023年の1月。もともと文章を認めることが好きで、得意だった私になにかできることはなないだろうかと思案する日々。そんな時に広告でこのアプリの存在を知った。毎日更新されるお題に沿って、あるいは関係なく、ここの好きなように思いを文字にする。スタイルも構成も、文章のルールなんてどうでも良い。書きたいように書きたいだけ文字を連ねていく。
アプリの利用を開始してからというもの、投稿する度に百名近い方がお気に入りに登録してくださいました。私の文章はとにかく長く、拙さも目立つでしょう。それでもたくさんの方がそうして応援をしてくださいました。これは本当に嬉しく、心から励みになりました。もしも、このアプリにコメント投稿機能などがあれば、心無い言葉が突き刺さることもあったと思いますし、否定されることで書くこと、投稿することに恐怖が生じたことでしょう。そのような機能はなく、ただ「お気に入り」というシステムだけで応援するという仕組みのおかげで書き続けてくることができました。
アプリを制作、運営して下さる方が私にこのような貴重な出会いと固い縁を与えてくださったのだと思って感謝の念に堪えません。もしもこのアプリがなければ、日常生活でこれほどまでに文字を書くことも、文章を書くこともありませんでした。語彙力こそ人並みですが、この国語力を捨てることは私にはできませんでした。生かす環境などないなかでの生活においてこの出会いはまさに一期一会。
そして応援して下さる皆様。皆様との出会いも偶然にして必然、このアプリとアプリとの出会いがなければかなわぬものでした。どれほどの利用者様がいるのか分からない中で始めたこのアプリも、気がつけば一年を超えていました。お気に入りに登録して応援してくださる方も増え続け、私に勇気と活力と自信を与え続けて下さっています。どれほどの気持ちを込めて感謝しても足りないほどです。
私の作品は事実を元に、私の経験や人生をありのままに綴っております。しかしその構成から
「どんな人が書いてんだべ」
「どんな人なんだいか」
「堅物なのかや」
「何時の時代の人なんだずや」
と気になる方も多いと思いますし、
「話なげぇ割りに、拙ねぇだっきゃ」
「もっと分かりやすく書いてけねわ」
とお思いの方もおられるかもしれません。ですが、非常に申し訳なく思いながらもお伝えしたいことがございます。
ほかのスタイルで書けないの!
そうなんです、妹にも「小説とか書けるんじゃね? 」と言われたことがあるのですが、それは難しいんです。書いて書けないことは無いとは思います、ですがきっと長編になりますし、アプリの限界を迎えそうなんですね。
「だば、小説投稿サイトで書いたらいいんでねえのわ」
コメントが怖いんです。きっと直ぐに辞めてしまいます。目の前で面と向かって言われる分にはいいのです、反論も出来ますし、何がどうダメでどこをどのように改善したら良いのかディスカッションに持ち込みますから。ですが、インターネット上では心無い言葉が飛び交います。心か疲れちゃいます。
ですので、もし宜しければ今後も変わらず生暖かく見守って頂けましたらとても嬉しいのです。
引き続き応援を賜りたくお願いを申し上げます。また、未熟な点はこれからも自身を省みて見つめ直しながら、改善を続け精進して参ります。どうかこれからも私と皆さんでこのアプリを楽しんでいけましたら幸いです。
私には特別に言葉にはできない。
言葉はいらない、ただ皆さんに日頃の感謝をお伝えしたかった。