艱難辛苦の人の生を歩んできたが、振り返れば苦しかったことや耐え忍んだこと以上に眩い記憶が蘇り溢れ出す。
朝から夜遅くまで保育所で過ごす毎日は、友達に囲まれて寂しさなどなくワクワクやドキドキでいっぱいだった。
保育所には一歳のころから通っており、上の兄弟四人が既に入所していたことや保母さんの中には友達の母親がいたこともあり、それはまるで家族のような環境だった。朝早くに母に連れられて保育所に着くや否や、友達とたわいないことで話を弾ませ、庭で駆け回る。春は穏やかな日差しの下、竹馬や缶蹴り、缶下駄ではしゃいだ。庭に設けられた、浮標をロープで吊るしただけのブランコで揺られ続け、飽きたらまた他の遊びを繰り返す。
夏は幼児の膝丈ほどに水が張られたビニールプールで涼み、身体が冷えるとやはり駆け回った。喉が乾いた時には給食室へ走り、美味しい麦茶を二、三杯いっきに飲み干した。蝉の合唱に、蝉の居場所を探しまわる。見つけた時には皆で木登りに挑戦して、捕まえた時には興味津々に観察をした。今ほ
ど身を焦がすほどの日差しなどなく、ただただ一年のうちで一番あたたかい季節を汗を流して満喫していた。
秋はどこかものさみしくもの悲しさを肌で感じる季節、幼い私も例外ではなく母親がそばにいないことに寂しさを感じていた。今でこそ秋という季節が曖昧だが、当時は秋という季節を肌や心で感じる事ができた。朝は寒さを感じながら母の手を握り保育所へ歩いた。
「お母さん、今日は何時にお迎えに来くるの」
と母に甘えると少し困ったような顔で
「早めに帰ってくるから、先生やお友達と遊んで待っていてね」
と頭を優しく撫でられる。この季節になると保育所では、ほかの保育所との交流会が頻繁に行われていた。幼い私たちにとって、他所の保育所を訪ねることやそこの子どもたちと顔を合わせることはいつもドキドキする一大行事だった。しかし、それらの行事や新しい出会いが胸の内を埋めつくしていく寂しさを取り除いてくれていた。それでも、夕方になれば次々と友達の方が先に帰っていく。保母さんの息子さんだった友達は、保母さんのお仕事終わりに一緒に帰っていくから私たち兄弟と一番仲が良かった。それでも、やはり私たち兄弟だけが残り所長や保母さんとお話をしたり遊んだりしながら母の迎えを待っていた。二十一時になって母が迎えに来ると、抱きついて「お母さん」と甘えては歩き難さに困る母をよそに抱きついたままきたくする。
冬は一面白く染まる庭に心が踊った。私の地元は今でこそ積雪などしないが、当時は雪だるまを作ったりソリで滑ったりできるほど雪が降っていた。冷たく悴んだ指先に息を吹きかけては手を揉み込む。手をすり合わせポッケに差し込んで温まってはまた雪で遊び、綺麗な雪玉を作っては友達どうし自慢しあった。身体が芯から冷えた頃、給食室では温かいお茶を沸かしている。私たちが集まればプラスチックのカップに温かいお茶が注がれ、モクモクと白い湯気が立ち上っていた。母があんでくれた手袋やマフラーでポカポカする身体も雪遊びで冷えてしまうけれど、温かいお茶を飲んでは身体を温めてはまた雪にはしゃぐ。
保育所生活の中で私が唯一として好きになれなかったことがある。お昼寝の時間は、賑やかだった保育所が静まり返り、どこか寂しさを覚えたのは言うまでもない。だけれど、私にとって何よりも恐ろしいのは「おねしょ』だった。毎日、寝る前の水分を控えてもトイレに行ってもおねしょをする。幸いにも叱る保母さんはおらず、泣きべそをかく私を「大丈夫」と慰めて励ましてくれていた。それでも、私の布団だけ庭に干されるとは幼い私にも羞恥心を掻き立てるには十分だった。「またおねしょしちゃったの?」と純粋無垢に訊いてくる友達の声が耳にも胸にも痛かった。それでも保育所生活が嫌いにならなかったのは、あたたかいみんながいたからだろう。意地悪もない、嫌がらせもない、悪口もない。ただただのびのびと過ごさせてくれる環境、失敗をしても叱らず慰め励ましてくれる環境が幸せだったからだろう。
こんな小さな頃の思い出話をしたのは、子供の頃から度々懐かしい夢をみるからだ。いまは無くなって更地になってしまった、幼い日々を過ごした市営住宅のこと。たくさんの思い出が詰まってはいるが、あの市営住宅は幼い頃から人には見えないもの見える私にとって恐怖そのものだった。私たちが住んでいた二号館は四階建ての四階の部屋で、いつも通るのが嫌だったのは三階から四階にかけての階段や踊り場だった。恐怖や思い出の両方がバランスよく両立しているから、共存しているからこそ強く記憶に根付いているのかもしれない。
夢の中では、今まさに小さなコンクリートの橋を渡って市営住宅の団地に入るところだ。夢の中で「あぁ、あの階段を登るのか。怖いんだよな」思いながら、一歩一歩あゆみを続ける。昼間でも薄暗く湿度を帯びている階段を四階まで駆け上がると玄関を勢いよく開け放つ。玄関から見えるのは生まれた時から小学五年生の途中まで過ごした当時のままの部屋だ。土間で靴を脱ぎ、中をまわると暖かな日差しに照らされた部屋が二つ。懐かしさと寂しさが込み上げてきて涙が止まらない。ベタンダ側の部屋は母と姉と妹が寝ていた。その部屋の台所側の部屋角に置かれたテレビ台とブラウン管テレビ。壁際には母の黒い机とデスクチェアが存在感強く佇んでいた。床を見れば、畳の上に引かれ鋲で留られところどころ破けている茣蓙。そして、三人の布団が敷かれている。
反対の部屋は、兄二人と私が寝ていた部屋。玄関側の部屋角には五段の引き出し収納の大きな箪笥と、その上に置かれた仏壇。この仏壇は私の父のものだ。玄関との間仕切りにはアコーディオンカーテンが掛けられている。反対の壁側は襖と、鴨居に掛けられたたくさんの衣類。床は、こちらは畳が見えており私が寝ている所はおねしょのせいで変色していた。私の横の布団はすぐ上の兄の布団、その隣に長男の布団。いつも喧嘩したり笑ったり泣いたり、たくさんの思い出が詰まったこの家は今は無い。
暖かい日差しに眩く照らされた家の中は、当時の自分たちが今もまだ暮らしているかのように生き生きとしている。台所には折り畳み式の円卓があるが、普段は半分しか開かない。椅子は全て円卓の真ん中にある収納の中、食事をする時だけ取り出していた。キッチン左手に大きな冷蔵庫、そして年季の入ったキッチンと給湯器。この給湯器は私が四年生の頃に壊れたんだったか、しばらくの間は母と姉がコンロで沸かしたお湯を水で適温にしてから湯船に張っていた。お風呂はと言うとコンクリートの壁のせいで湿気が逃げず、ジメジメしていた。ある時、どこから侵入したのかフタホシテントウが大量繁殖していた。部屋の中にやたらと黒地に赤ふたつの見慣れぬ虫がいるなと思って家族みんなで不思議がっていたら、お風呂に大量にいるのを姉がみつけてパニックになっていた。駆除をしたのは母だが、やはり母は強しというようにこれだけの子を育てていれば肝が据わってくるのだろうか。
遡れば凡そ三歳ころまで記憶を辿ることができるが、ここまで遠い記憶を思い出せるのは兄弟では私だけだという。他の兄弟は思い出せても保育所の年長さんころまで、つまり五歳ころまでだという。そして、いくつの頃か分からない記憶もあるが、母からスプーンで食事を与えられている記憶や、ひらがなのドリルのようなものを書いている記憶もある。そして、私が三歳のころに他界した父の記憶もある。顔こそ思い出せないがたった一度だけ肩車をしてもらった時の記憶だ。
私がここまで鮮明に当時のことを思い出せるのは、きっと夢のなかで当時の記憶を辿るからだろう。私は夢の中で、音や声、会話、匂いや触れた感触、空気など感じることがある。夢を見た時にそれらを強く感じたときは数日経って、夢に関連した何かが起きる。それは恐らく夢で見聞きしたことや感じたことを記憶していなければなんてことの無い日常の一コマに過ぎないし、なかなか覚えていることすら難しい。たから記録をとるようにしているのだけれど、大抵の事は記憶から生み出された私の幻想として無視している。
これらの夢は私にとって、意識付けには十分すぎる。だからこそ遠い日を思い出すことが兄弟よりも得意なのかもしれない。しかし、この夢はパタリと見なくなったり忘れた頃に見たりするもので、なんとも気分屋なのだ。ただし、夢が私を追憶の世界へと誘う時、忘れていた大切なものを思い出させてくれたり生きるヒントを与えてくれたりする。とても意味のある尊く貴重なものなのだ。
夢よ、突然の君の訪問が私に生きる意味と道標を与えてくれているのだ。
人には人の、それぞれが発する言葉がある。そして、その言葉は他人が同じく口にした時、まったく同じ意味になるとは限らない。聞き手、受け取り手の考えや心情などあらゆる環境や状況からまるで異なるものとなる。それこそ対義する言葉にもなり得るが、これが言葉の面白さであり不思議なところである。
私は幼少の頃からたくさんの人に愛され、大切にされて濃い時間のなかで育ってきた。その中には辛いこと悲しいこと、楽しいこと嬉しいこと、許せないことやり切れないこともあった。人とのかかわり合いの中で、たくさんの新しい出逢いも、同じだけ悲しく寂しい別れもあった。出逢い親しくなる人たちは皆特別な存在で、格別な時間を私に与えてくれていたが、そんなみんなから私へ掛けられた言葉もまたこの人生を生きていく今でも意味のある貴重なものだった。
学校から家に帰る道すがら、仲の良い友人たちと後でいつもの公園に集合しようと話をする。友人たちはいつもお菓子を持ち寄るため、この日の私はと言うとやはり何か甘味のもののひとつでも持参すべきと考えた。考えたが我が家にはお菓子などなく、友人たちへ持ち寄る甘味のものなど何も無かった。母が毎日作るコーヒーに角砂糖を二つ落としているのを見ていた私は、母がどこに角砂糖を収めているのかも知っていた。母は仕事で夜まで家を空けているため事後報告をするとして、母の引き出しの中から角砂糖を四つほど拝借してポケットに突っ込んだ。
公園では先に集まっていた友人たちが既にボール遊びなどをしていた。私の姿を見つけると友人たちは駆け寄って来てくれたのだが、私は角砂糖をいつ差し出すべきかと躊躇っていた。意を決してポケットから角砂糖を取り出して「皆で食べない?」と訊けば、いつも持ち寄っているお菓子より喜んでいい反応を見せる。「ごめんね。こんなものしかぼくの家にはないの」と私がべそをかくと、そんなことは気にするなと励ましてくれた。友人たちからすれば、お菓子は持ち出せてもお砂糖などはきつく叱られるそうで大層よろこんでいた。
この時の、貧乏で情けのないと勝手に思い込み恥ずかしいと俯いた私への友人たちの言葉、「ありがとう」や「甘くておいしい」、「ぼくたちがお菓子を持ってくるから気にしていたんだよね、でもいいんだよ。皆で食べた方が美味しいから持ってくるんだよ」という言葉は今でも私の心の中で輝いている。
小学三年生の夏休み、仲良しで学期中は毎日遅くまで遊んでいた友人と登校日に久しぶりに話しをした。夏休みに遊ばなかったのは、どの友人たちも帰省したり旅行に行ったりテーマパークへ行ったりしていたからだ。私は気にしいな性格で、きっと誘っても迷惑だろうと大型連休には友人のもとを訪ねないようにしていた。
久しぶりに目を見て話しをしたその友人は、風邪をひいていたのか元気がなかった。学校を後にするとき「また遊ぼうね」と笑顔で口にした友人につられて、私も笑顔で「うん」とだけ応えて手を振った。訊けばやはり友人は具合が優れないようで、夏休みの間は静養するのだそうだ。そんな友人へ元気になったらまたいっぱい遊ぼう、たくさんゲームをしたり、アニメを観ようと手紙を認めた。明くる日の昼下がり、友人宅に足を運び認めた手紙を郵便受けに入れようとしたが郵便受けが見つからず諦めて帰ってしまった。
新学期の登校日、友人の机には花瓶が手向けられていた。担任の教師が友人との別れを告げる言葉を聞いても心の幼い私には実感が持てない、意味がわかっていなかったのかもしれない。ただ、もうずっと会えないのだなという感覚でしか無かった。日を追う毎に、歳を重ねる毎に友人が天へ旅立ったことを理解した。それと同時に手紙を渡せなかった後悔が私の頭を、胸を、心を抉った。
病弱だった友人は行動も制限されることが多く、いつも大義をしていた。そんな友人であるにもかかわらず、いつも前向きな言葉しか口にしなかった。決して弱音や後ろ向きな言葉を口にすることは無かった。私の行き過ぎた悪戯に「人の嫌がることはしちゃだめなんだよ」、「遊び方もかける言葉もちゃんと考えないとダメなんだよ」、「人を傷つけたら自分も傷つくんだからね」といつも諭してくれた言葉は忘れない。いつも今を生きることを忘れず、人として素晴らしい様を見せてくれた友人を私は忘れない。掛けてくれた言葉、強く前を向いて歩き続けたその背中に勝る輝きを私は知らない、
大人になって初めて知った恋と、初めて知った恋しい人との別れは私にたくさんの気づきと反省を与えてくれた。2人で過ごし紡ぐ時間の中で注がれた愛情も、時に喧嘩をしてムキになって背中を向けあった時間も全てが尊い。それにもかかわらず私はなんども新しい恋をして、その度に別れを繰り返してきた。私から恋人を嫌いになったことも、別れたいと思ったこともない。ただただ、私が不甲斐なく恋人を不安にさせてきたことが全ての原因だ。結婚を前提に交際しようと言いながら、仕事の忙しさを理由に注がれる愛情を当たり前と勘違いして、大切にしてあげられなかった。何倍にも返して幸せにしようなんて考えて、その実は悲しませ寂しい思いをさせていた。
起業をして従業員に恵まれ、さらに多くの人達との繋がりのなかで自分自身を育て、磨いてきたのに恋人のひとりも幸せにできなかった私はどうしようもない大馬鹿者だ。
そして、この人生こそが私が奏でてきた音楽なのだ。否、奏でてきたとは烏滸がましい。ただただ吹鳴させてきたに過ぎない。
私の作品を目にしている
君(みなさん)の奏でる音楽は、
いったいどんな音色を響かせているのだろうか。
静かな客車で揺れも音も僅かばかりもせず、疲れと安心感からくる眠気に抗えず船を漕ぐ。車窓から外を見れば流れ早く移ろう街の景色に、今どの辺を行くのか検討もつかない。やがて寝ぼけた頭もこの新幹線のように早く回り始め、理解した時には後悔と虚しさに襲われた。そうか寝過ごしたのか、果たして次の駅はどこなのだろう、無事に家に帰り着くことは適うのだろうか。
六日前の仕事終わり、アパートに戻るや颯爽とシャワーを浴びて身支度を済ませた。遠方で暮らす恋人の実家へ泊まりに行くため、少しの緊張感と楽しみにしている心は未だか未だかとこの日を待っていた。泊まりが期末またのは更に三ヶ月前のこと、「「お母さんとお父さんに、彼氏が泊まりに来るから」って伝えたから。親戚にも伝えたら皆楽しみにしていたよ」
と恋人から伝えられ、知らぬところで決定していたことを知った。
アパートを出て、バス乗り込み駅を目指すときも心の中では様々な気持ちが巡っていた。お義父さんは私と同じ業種で、頑固でとても厳しく以前の彼氏は殴り飛ばされたと聞いた。娘の彼氏が突然泊まりにくると知った時、お義父さんは一体どんなことを感じたのだろうかと考えても仕方のないことに頭を悩ませていた。
駅で手土産を買い込み高速バスに乗り換え恋人の暮らす街へ走り出した時には、泊まっている間には何をして過ごそう、どんな思い出を作れるだろうかと気持ちが高揚していた。五時間の道のりを寝て過ごそうとするが、なかなか慣れない環境に直ぐに諦めが付いた。無意味にスマホの画面を眺めては何度も時間を確認するが、先程と時間は変わらない。動画投稿サイトやアプリで暇を潰そうとするも、肝心要のイヤホンを持ってきていない。ひたすらに流れる景色をぼんやりと眺めることしかできなかった。
ゆっくりと、そして静かにバスが止まった。運転士のアナウンスが目的地への到着を知らせれば、乗客は水の流れのようにバスを降りていく。私もこれに続いて運転士へお礼の言葉を後に下車をした。
バス乗り場から駅地下の店を周り、乾いた喉を潤す飲み物と小腹を満たすサンドイッチを買って駅を後にする。しばらく歩くがこれまでタクシーを一台も見かけない。恋人と落ち合う深夜まではまだ時間がある、インターネットカフェにて時間を潰そう、そう考えるも移動手段がない。
地図アプリで最寄りのインターネットカフェを検索すると徒歩三十分の距離、大荷物さえなければ歩ける距離だが仕事疲れとなれない移動に心は挫けていた。どうしようかと思い倦ねるも時間だけが流れていく。仕方なく検索サイトでタクシー会社を調べていると、遠くこちらへ走る一台のタクシーを見つけ慌てて手を挙げた。空車だったことが幸いだったが目的地を伝えてみるも理解して貰えない、運転手のことぱも理解できない。
訛っていた、運転手はその地域の訛りが酷く私には理解が出来ないでいた。そして、運転手は高齢だった為かインターネットカフェを認知していなかった。運転手が無線を私に手渡すので、最寄りのインターネットカフェに向かいたい旨を伝えると、プレストークからお詫びの言葉と地図アプリで案内頂けないかと依頼を受ける。アプリで経路を設定して運転手に伝えながら目的地を目指した。到着したときには既に辺りは暗くなっていた。
どれほどの時間が経ったのだろう、深く眠ってしまっていたようで頭が重く、頭が回らない。時間を確認しようとスマホをの画面を除けば恋人との約束の時間から十分も過ぎていた。着信履歴もこれまた酷い有様だ。直ぐに恋人へ連絡するも激怒していて罵詈雑言を浴びせられる始末、ワクワクしていた気持ちは暗い沈んでいた。寝てしまった私が悪いのは当然だが、遠く時間を掛けて会いに来たにも関わらず酷い言葉で罵られるならと今回の泊まりは辞めて帰宅すると伝え通話を切った。
せっかくならここで一泊して明朝に発とうと、バスのチケットを予約しようとしていた時に電話が鳴った。応答すれば何度も謝る恋人の声、聞けばお義母さんにこっぴどく
「仕事終わりに遠方から長い時間掛けて来てくれた人を、それも彼氏になんてことを言うんだ。仕事と移動で疲れているんだから寝てしまっても仕方ないでしょう」
と叱られたのだという。今から迎えに行くからというので現在地を伝えると十分後には到着したと連絡があった。
恋人のご実家では、お義母さんが出迎えのために起きていてくれたので手土産とお世話になること、結婚を前提に交際していることを伝えて恋人の部屋へ向かった。
「ずっと会いたかった、さっきはあんなことを言ってごめんなさい。待ち遠しかったのに連絡が取れなかったから裏切られたんだと思って勝手に怒ってしまったの」
と恋人の謝罪の言葉を受け入れ、私も連絡をせず寝入ってしまったことを謝罪した。
二階にある恋人の自室で何度も愛を貪った。下階の居間やお義父さんの部屋のことを気にしながらも、身体はもっと深く長く激しく愛を紡いでしまう。呼吸もシーツも乱れ、汗に濡れた身体が擦り合う。時間も忘れて交合いながら互いの気持ちを囁き伝えあった。
朝もまだ早く、太陽が辺りを照らすのはあとどれだけの時間があるだろうか。農家を営んでいるお義父さんが畑へと家を出る音が聞こえた。恋人も目を覚ましたようで、肌寒い部屋のなか再び互いを感じあった。
朝食の支度ができたから降りてきなさいと、お義母さんの呼ぶ声に身支度をする。居間ではお義母さんが食卓に並べた朝食に腹の虫が鳴る。あれも食べなさい、これも食べなさい。冷蔵庫に筋子があるから食べなさい、明太子もお漬物もあるから食べなさいと続々と運ばれてくる品々。気がつけば食べ切れる量ではなくなっていた。無下にはできないと、苦しく膨らんだ腹を擦りながら全てを頂いた。
朝食を終えて、ご実家を後に恋人の運転で観光地巡りを楽しんだ。未だ運転免許を取得していない私は、助手席で申し訳なさと感謝の気持ちで複雑だった。とある山の中の湖を観光した帰り、山中にて盛大に迷子になってしまった。スマホは圏外でルート検索がでない、カーナビも機能しない。未舗装の道を四時間走ってアスファルト舗装の道に出た時には、二人で胸をなで下ろした。
家路を急ぐ道すがら、お義父さんへお酒とグラスやジョッキのプレゼントを買い込む。家に着いた時には夕食の支度が済んでいた。私はお義父さんへ挨拶と宿泊させてもらうお礼を済ませ、本題である交際の件を口にしようとするも
「〇〇さん(私)、娘と結婚を前提に付き合っているんでしょう? 」
お義父さんが先に切り出してくれた。そのご挨拶をと伝えれば
「嫁にはやらない。〇〇さんが婿に来て欲しい」
と返される。聞けば跡継ぎが欲しいのだというが、私にはどちらでも良かった。迎え入れてくれたこと、歓迎してくれていることがなによりも嬉しかった。私に父はいない、だからこそお義父さんに父を求めてしまっていたのかもしれない。
宿泊している間、親戚を集めてのバーベキューや花火など濃厚で充実した時間を過ごすことが出来た。ところがあまりにも居心地が良すぎた。私の帰宅前日、恋人と最後のドライブデートをした帰りの車中で涙が止まらなくなってしまった。母子家庭で親戚と疎遠している私の家庭環境では受けることのなかった温かい気持ちや、感じられなかった愛情を恋人のご家族や親戚が注いでくれた。これが私に寂しさを強く感じさせたのだろう。大人になって初めて嗚咽しながら涙を流した。
夜、最後に過ごすこの時間に最後に肌を寄せ合い愛を注ぎあった。そして、恋人がスマホで再生した再生した
「C&K アイアイのうた~僕とキミと僕達の日々~」で二人の涙腺は崩壊した。離れたくない、ずっと一緒にいたいと涙を抑えられなかった。
新幹線の客車の中、切符の確認の為に車掌さんが立ち寄ったときに次の駅を聞いて絶望した。アパート最寄りの駅からは随分と離れていた。事情を知った車掌さんの案内の通り、到着した駅の改札で在来線での折り返しにて最寄り駅まで戻り着いた時には日を跨いでいた。ウェブでタクシー会社を検索しては電話をかけて幾度目か、やっと連絡が付いたのは少し離れた地域のタクシー会社だった。時間はかかるがこれから向かわせることはできるという、迷わず配車を依頼して真っ暗な駅舎の前でじっと待つことに。
タクシー運転手の優しい笑顔と、大変だったねと笑い、温かくかけてくれる言葉に安心感が溢れてくる。
アパート自室の玄関を開けた時、嗅ぎなれた部屋の匂いと住み慣れた間取りに帰ってきたのだと、どこか夢心地だった頭が現実に引き戻された。あれだけ寂しいと、離れたくないと涙を流し目を腫らしたのに今では気持ちがスっと切り替わった。冷静な自分がここにはいる。
結局、結ばれることは無かった。そして、その後も結婚前提に交際した方とも結ばれず今に至る。孤独な人生の中でたどり着くのが私の終点なのだろう。
近況報告
皆さんこんにちは、お疲れ様の方はお疲れ様です。この後お仕事の方は無理せず頑張っていきましょう。
といいたいところですが、コロナに感染してしまいました。身体中が痛く、気管支炎も発症してしまった為胸も苦しく、呼吸をすることさえ苦痛を感じてのたうち回っています。
日頃から手洗いうがいを徹底していて、現場でさえとトイレの後は石鹸で清潔にしています。
にも関わらず、初夏から居候している兄にまんまと移されてしまいました。身体がつらいのはもちろん、仕事に穴を開けてしまったことが心苦しく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
どうぞ、みなさま。日頃より予防と対策などされておられるとは存じますが、今一度お気をつけてお過ごしくださいませ。
復活したら、また執筆致しますのでどうか見捨てずお待ち頂きたく、何卒よろしくお願い申し上げます。
例えば性格や人間性、或いは人との接し方や立ち居振る舞いが十人十色あるように、その心の内の状態や程度も様々だ。狡猾な人間も横柄で傲慢な人間もいれば、利他的で慈悲や慈愛の心を持った人間。偽善と方便で繕うも、結果としてそれは人のためとなる言行を重ねる人間と同じく様々。
心の内は誰にも見えない。探れど掴むことの出来ない度し難いものが、人の心である。
執筆中
明日、続きを描きます。
どうかお待ちいただけますと幸いでございます。
そうそう、この一ヶ月は食生活が大きく変わりまして玄米を好んで食べるようにまりました。いつもであればスーバーやお米屋さんで10キロ単位で新米を購入していたのですが、先般の購入の際に玄米三十キロを購入しました。
玄米と言えばボソボソしていて、臭くて美味しくないと苦手意識をお持ちの方もおおいとは思いますが、実は白米や分つき米よりも美味しいんです。モチモチプチブチとしていて食感を楽しむことが出来て、食べ応えも非常に良いのです。そして、白米よりも和食がより美味しく感じられるんです。
確かに手間はかかりますが、その手間も慣れれば当たり前の所作とさえ感じるようになります。お通じも良くなりますし、体躯もスマートになりますの。ぜひ、玄米をまだ頂いたことがない方は是非一度、少量からご賞味くださいませ。