-ゆずぽんず-

Open App

艱難辛苦の人の生を歩んできたが、振り返れば苦しかったことや耐え忍んだこと以上に眩い記憶が蘇り溢れ出す。

朝から夜遅くまで保育所で過ごす毎日は、友達に囲まれて寂しさなどなくワクワクやドキドキでいっぱいだった。
保育所には一歳のころから通っており、上の兄弟四人が既に入所していたことや保母さんの中には友達の母親がいたこともあり、それはまるで家族のような環境だった。朝早くに母に連れられて保育所に着くや否や、友達とたわいないことで話を弾ませ、庭で駆け回る。春は穏やかな日差しの下、竹馬や缶蹴り、缶下駄ではしゃいだ。庭に設けられた、浮標をロープで吊るしただけのブランコで揺られ続け、飽きたらまた他の遊びを繰り返す。
夏は幼児の膝丈ほどに水が張られたビニールプールで涼み、身体が冷えるとやはり駆け回った。喉が乾いた時には給食室へ走り、美味しい麦茶を二、三杯いっきに飲み干した。蝉の合唱に、蝉の居場所を探しまわる。見つけた時には皆で木登りに挑戦して、捕まえた時には興味津々に観察をした。今ほ
ど身を焦がすほどの日差しなどなく、ただただ一年のうちで一番あたたかい季節を汗を流して満喫していた。
秋はどこかものさみしくもの悲しさを肌で感じる季節、幼い私も例外ではなく母親がそばにいないことに寂しさを感じていた。今でこそ秋という季節が曖昧だが、当時は秋という季節を肌や心で感じる事ができた。朝は寒さを感じながら母の手を握り保育所へ歩いた。
「お母さん、今日は何時にお迎えに来くるの」
と母に甘えると少し困ったような顔で
「早めに帰ってくるから、先生やお友達と遊んで待っていてね」
と頭を優しく撫でられる。この季節になると保育所では、ほかの保育所との交流会が頻繁に行われていた。幼い私たちにとって、他所の保育所を訪ねることやそこの子どもたちと顔を合わせることはいつもドキドキする一大行事だった。しかし、それらの行事や新しい出会いが胸の内を埋めつくしていく寂しさを取り除いてくれていた。それでも、夕方になれば次々と友達の方が先に帰っていく。保母さんの息子さんだった友達は、保母さんのお仕事終わりに一緒に帰っていくから私たち兄弟と一番仲が良かった。それでも、やはり私たち兄弟だけが残り所長や保母さんとお話をしたり遊んだりしながら母の迎えを待っていた。二十一時になって母が迎えに来ると、抱きついて「お母さん」と甘えては歩き難さに困る母をよそに抱きついたままきたくする。
冬は一面白く染まる庭に心が踊った。私の地元は今でこそ積雪などしないが、当時は雪だるまを作ったりソリで滑ったりできるほど雪が降っていた。冷たく悴んだ指先に息を吹きかけては手を揉み込む。手をすり合わせポッケに差し込んで温まってはまた雪で遊び、綺麗な雪玉を作っては友達どうし自慢しあった。身体が芯から冷えた頃、給食室では温かいお茶を沸かしている。私たちが集まればプラスチックのカップに温かいお茶が注がれ、モクモクと白い湯気が立ち上っていた。母があんでくれた手袋やマフラーでポカポカする身体も雪遊びで冷えてしまうけれど、温かいお茶を飲んでは身体を温めてはまた雪にはしゃぐ。

保育所生活の中で私が唯一として好きになれなかったことがある。お昼寝の時間は、賑やかだった保育所が静まり返り、どこか寂しさを覚えたのは言うまでもない。だけれど、私にとって何よりも恐ろしいのは「おねしょ』だった。毎日、寝る前の水分を控えてもトイレに行ってもおねしょをする。幸いにも叱る保母さんはおらず、泣きべそをかく私を「大丈夫」と慰めて励ましてくれていた。それでも、私の布団だけ庭に干されるとは幼い私にも羞恥心を掻き立てるには十分だった。「またおねしょしちゃったの?」と純粋無垢に訊いてくる友達の声が耳にも胸にも痛かった。それでも保育所生活が嫌いにならなかったのは、あたたかいみんながいたからだろう。意地悪もない、嫌がらせもない、悪口もない。ただただのびのびと過ごさせてくれる環境、失敗をしても叱らず慰め励ましてくれる環境が幸せだったからだろう。

こんな小さな頃の思い出話をしたのは、子供の頃から度々懐かしい夢をみるからだ。いまは無くなって更地になってしまった、幼い日々を過ごした市営住宅のこと。たくさんの思い出が詰まってはいるが、あの市営住宅は幼い頃から人には見えないもの見える私にとって恐怖そのものだった。私たちが住んでいた二号館は四階建ての四階の部屋で、いつも通るのが嫌だったのは三階から四階にかけての階段や踊り場だった。恐怖や思い出の両方がバランスよく両立しているから、共存しているからこそ強く記憶に根付いているのかもしれない。
夢の中では、今まさに小さなコンクリートの橋を渡って市営住宅の団地に入るところだ。夢の中で「あぁ、あの階段を登るのか。怖いんだよな」思いながら、一歩一歩あゆみを続ける。昼間でも薄暗く湿度を帯びている階段を四階まで駆け上がると玄関を勢いよく開け放つ。玄関から見えるのは生まれた時から小学五年生の途中まで過ごした当時のままの部屋だ。土間で靴を脱ぎ、中をまわると暖かな日差しに照らされた部屋が二つ。懐かしさと寂しさが込み上げてきて涙が止まらない。ベタンダ側の部屋は母と姉と妹が寝ていた。その部屋の台所側の部屋角に置かれたテレビ台とブラウン管テレビ。壁際には母の黒い机とデスクチェアが存在感強く佇んでいた。床を見れば、畳の上に引かれ鋲で留られところどころ破けている茣蓙。そして、三人の布団が敷かれている。
反対の部屋は、兄二人と私が寝ていた部屋。玄関側の部屋角には五段の引き出し収納の大きな箪笥と、その上に置かれた仏壇。この仏壇は私の父のものだ。玄関との間仕切りにはアコーディオンカーテンが掛けられている。反対の壁側は襖と、鴨居に掛けられたたくさんの衣類。床は、こちらは畳が見えており私が寝ている所はおねしょのせいで変色していた。私の横の布団はすぐ上の兄の布団、その隣に長男の布団。いつも喧嘩したり笑ったり泣いたり、たくさんの思い出が詰まったこの家は今は無い。
暖かい日差しに眩く照らされた家の中は、当時の自分たちが今もまだ暮らしているかのように生き生きとしている。台所には折り畳み式の円卓があるが、普段は半分しか開かない。椅子は全て円卓の真ん中にある収納の中、食事をする時だけ取り出していた。キッチン左手に大きな冷蔵庫、そして年季の入ったキッチンと給湯器。この給湯器は私が四年生の頃に壊れたんだったか、しばらくの間は母と姉がコンロで沸かしたお湯を水で適温にしてから湯船に張っていた。お風呂はと言うとコンクリートの壁のせいで湿気が逃げず、ジメジメしていた。ある時、どこから侵入したのかフタホシテントウが大量繁殖していた。部屋の中にやたらと黒地に赤ふたつの見慣れぬ虫がいるなと思って家族みんなで不思議がっていたら、お風呂に大量にいるのを姉がみつけてパニックになっていた。駆除をしたのは母だが、やはり母は強しというようにこれだけの子を育てていれば肝が据わってくるのだろうか。

遡れば凡そ三歳ころまで記憶を辿ることができるが、ここまで遠い記憶を思い出せるのは兄弟では私だけだという。他の兄弟は思い出せても保育所の年長さんころまで、つまり五歳ころまでだという。そして、いくつの頃か分からない記憶もあるが、母からスプーンで食事を与えられている記憶や、ひらがなのドリルのようなものを書いている記憶もある。そして、私が三歳のころに他界した父の記憶もある。顔こそ思い出せないがたった一度だけ肩車をしてもらった時の記憶だ。

私がここまで鮮明に当時のことを思い出せるのは、きっと夢のなかで当時の記憶を辿るからだろう。私は夢の中で、音や声、会話、匂いや触れた感触、空気など感じることがある。夢を見た時にそれらを強く感じたときは数日経って、夢に関連した何かが起きる。それは恐らく夢で見聞きしたことや感じたことを記憶していなければなんてことの無い日常の一コマに過ぎないし、なかなか覚えていることすら難しい。たから記録をとるようにしているのだけれど、大抵の事は記憶から生み出された私の幻想として無視している。
これらの夢は私にとって、意識付けには十分すぎる。だからこそ遠い日を思い出すことが兄弟よりも得意なのかもしれない。しかし、この夢はパタリと見なくなったり忘れた頃に見たりするもので、なんとも気分屋なのだ。ただし、夢が私を追憶の世界へと誘う時、忘れていた大切なものを思い出させてくれたり生きるヒントを与えてくれたりする。とても意味のある尊く貴重なものなのだ。


夢よ、突然の君の訪問が私に生きる意味と道標を与えてくれているのだ。

8/29/2024, 7:35:50 AM