「好きな本」
お目目が痛いので、明日の暇の時間に執筆させてけさいん...
そういえば、先般の執筆で
「皆さんは私の怪談にご興味はおありだろうか」
といったような問いかけを致しました。
聴きたいですか?
お目通しくださったりなんて...してくれます?
出会いと別れは誰にも等しく訪れる。幼少から沢山の出会いを経験して人は成長していくのだけれど、例えば幼稚園や保育所から小学校へと進学をする時に別れも経験することになる。そして小学校ではより多くの出会いがあるが、転校という別れもまた初めて知ることになる。中学への進学も高校や大学への進学においても同じように別れを経て、新たな出会いが訪れる。
もちろん、この出会いと別れが誰にも寂しいものであったりかなしいものであることは決してない。馬の合わない人や嫌いな人、悪口や陰口を吹聴する人や誰かをいじめる人。自分をいじめてくる人や、それを見て見ぬふりをする人。自分にとって様々な要因のもとに目の前からいなくなっていくことが、何よりもの心の救いである人も少なくは無い。
逆に、とても信頼をしていたりまるで家族兄弟かのように息が合う友人がいる。或いは恋心を寄せていた憧れの人がいる、交際している人がいる。そんな折に互いに環境が変わることで訪れる別れに、酷く悲しむことも塞ぎ込むこともあるだろう。別れが誰にでも訪れるものであれど、一喜一憂する要因はまさに十人十色。
私は保育所で育った、笑顔が溢れ活発で元気みなぎる環境で駆け回り、時に喧嘩をして泣かせたり泣いたり。今思い返しても鮮明に蘇り、あの頃に戻れたらと恋しくなることがあるほどに人生の中で最も濃密だったように感じられる時分だ。皆さんも街で見かけたことがおると思うが、保育所(保育園)はよくお散歩をする。年少者は乳母車(小さな子どもを乗せて押す為のカート。おさんぽ車とも)に乗って、しっかり歩いたり走ったりできる年頃では先生の見守るなか元気に自然と触れ合う。あの時見た光景も感じた風も匂いも音も全てが懐かしく愛おしく、はっきりと記憶に残っている。
園庭を駆け回ったこと、竹馬で遊んだこと、メンコ(牛乳瓶の紙蓋)で遊んだこと。給食を残して先生に叱られたこと、友達を叩いて泣かせて叱られて自分まで悲しくなって泣いたこと。みんなで裏山に登って鉄塔の足元でどこまでも見える街並みに感動したこと、道中で摘んで食べた木いちごや山ぶどうが美味しかったこと。数え切れないほどのたくさんの思い出がある。同い年の友達とは兄弟のようにいつも楽しく笑い合った。
卒園式を思い出しても鮮明に蘇らないのは、涙のせいだ。卒園式を控えたころ、先生たちと練習をした。先生がお母さんやお父さんに宛てた手紙の書き方を教えてくれたり、証書の受け取り方や挨拶の仕方を教えてくれた。あと数日でいつもとは違う「さようなら」と「ありがとうございました」の挨拶を言わなければならない、友達に「さようなら」を言わなければならないのに当日までまるで実感が持てなかった。
別れが迫る中、遊んでいる時に泣き出す子もいれば、お迎えの時になって帰りたくないと泣く子もいた。私は五人兄妹の四番目の三男。兄妹は皆、この保育所で育った。父は私三歳の頃に他界した為、母女手一つで必死になって育ててくれていた。だから夕方になると先生たちと一緒に友達のお迎えを持って、「またあしたね」と帰宅を見送った。そのあとは職員室で夜九時まで先生や園長と折り紙をしたりお菓子を食べたりしながら母の迎えを待った。こんな毎日を年少の頃から送っていたからこそ実感が持てなかったのかもしれない。私にとって先生たちも家族そのものだったし、保育所が家のようにあたたかい居場所だったから。
卒園式では、恐らく誰もが知っている「きみとぼくのららら」、「ともだちになるために」、「おもいでのアルバム」を歌った。歌ったつもりではいる、でもきっと声すら出ていなかったかもしれない。歌を歌う前にお母さんやお父さんへ感謝の手紙を読んだ辺りで、今日、この日この時が終わるともう皆と離れ離れになって会えなくなるんだ。もう保育所に居られなくなるんだと自覚して涙か溢れてきた。泣くまいと堪えたものの、嗚咽が止まらない。みんな涙を零しながら、嗚咽しながら必死に歌を歌った。これまでどんなときも一緒に過ごしてきた兄弟のように絆で結ばれた友達と別れることになる、みんなそんな思いでいた。卒園式には母、長女と長男が来てくれていた。でも涙で視界がぼやけてどこにいるのかよく分からなかった。さっきまでそこにいたのに溢れて止まることの無い涙が、寂しいかなしい現実をぼやけさせていた。それがさらに涙を呼んだ。
証書を貰って園長から「何時でも遊びに来てください。ここは皆さんの二つ目のお家です。もうひとつの家族です」そう声をかけられてまた泣いた。そのあとは家族全員で母の運転する車で帰宅くした。その後、保育所の友達のうち、四人だけが同じ小学校へ進学した。そのうち二人とはいつも一緒に遊んだが、もう二人は同じクラスになることがなく遊ぶことがなくなっていった。六年生になって、いつも遅んでいた友達と、同窓会をしよう言う話になって保育所へ飛び込んだ。居なくなった先生が二人ほどいたけれど、残った先生はみんな優しく迎えてくれた。そして、もう一度みんなで集まりたい、遊びたい、たくさん話をしたいと想いを伝えると園長が全て任せなさいと背中を押してくれた。
小学校を卒業して中学校へ進学してひと月ほど経った頃、友達から保育所の同窓会を開催するという連絡を受けた。当日をまだまだかと首を長くして待っていたあのころの記憶もまたしっかりと残っている。始まって間もない中学校生活の不安などどこへやら、同窓会のことだけが頭の中を駆け回っていたのだ。
同窓会にはほぼ全員が集まった。みんなで抱き合って、みんなではしゃいで語り合って遊んだ。お菓子やジュースを保育所が用意してくれており、保育所も体育館も全て貸切にしてくれた為、幼かったあの頃のように園庭年甲斐もなく遊んだ。色んな種類のジュースを混ぜて「闇ジュース」を作って園長に飲ませてみたり、お菓子の美味しい食べ合わせを試してみたりもした。体育館で記憶を頼りに和太鼓を叩いて演奏してみたり、裏山に登って様変わりしたけどどこか懐かしい街並みを眺めてみたりもした。
再び訪れた別れの時間がとても寂しかった。次はもう会えないかもしれない、こうして集まれないかもしれない。もう、保育所で集まることも語り合うこともできないかもしれない、そんな考えが胸を強く打って涙が溢れようとしていた。友達の「また会えたら会おう」の一言で、涙をぐっとこらえて笑顔で「じゃあね、また!」と手を振って別れた。
その後は同じ中学に進学していた友達も転校したり、私が引きこもったりしたこともあって全ての縁が切れてしまった。もうどこで何をしているのかも分からないし、全員の名前を思い出すことなどできない。一人二人を思い出してやっとだろうか。保育所で出会い、たくさんの思い出を作ってくれたみんなに会うことはもう叶わないだろう。でも、人との繋がりや縁、絆や尊ぶ心は彼らと過ごした時間に養われた大切な宝物だ。これはこれまで一度たりとも無駄にすることなく、一瞬も手放すことなく生きてきた。だから大人になった今も良い園に恵まれ、よい知己に恵まれるのだろう。人を思いやる心、人の気持ちに寄り添うことで感じる大切な心をくれたみんなのことは、たとえ名前がわからなくなってしまったって思い出や存在までは忘れはしない。
小学校では病気で友人を失くした。宮城で過ごしている時は、仕事でお世話になった方を病気で失くした。宮城で出会ってきた人たちとも、私が広島に帰ったことで別れてしまった。そして、縁も絶ってしまった。
たくさんの別れの上に、私の心の中には「一期一会」という言葉と考え方が強く根付いていった。もう二度と会えないかもしれないから、今この時を大切にしようと思うようになった。だからだろ、宮城で恵まれた只一人の友人は今でも年に数回連絡を取り合う。そして、その時は六時間から八時間も語り合ってしまうのだ。
様々な別れ、辛い別れや実感の湧かない突然の別れ。出会いの数だけ、別れがあるがその一つ一つはどんな関係性だったかで意味も心も変わってくる。だけれど、他彼の数だけたった一度の縁に意識するようになる。
必ずしも訪れるものから、次に訪れる縁を尊び、大切にできる心を養うことはとても意味のあることであり、それは別れてきた人々への、ひとつの「恩送り」なのかもしれない。
お題とは何ら関係の無いこと、皆さんは怪談や心霊、スピリチュアルなどに興味や関心はあるだろうか。或いは、信じるだろうか。
私は幼少の頃より勘が鋭いのか、家族や兄弟には見えないものが見えたり聞こえたり、感じたりしてきた。そしてこれは今現在も変わらないのだが、幼少の頃に比べて頻度は減ったように感じる。何故見えたり感じたり聞こえたりすることが減ったのか、それは自分自身でよくわかっている。成長していく中で色んなことを、色んなものを知っていったからだ。そして、自分自身で見聞きしたことや感じたことを噛み砕いて解釈して、理解していくからだ。子供の頃に目に映るもの、感じるもの、耳に入るものは何でもそれが当たり前に自然で普通のことだと思っていた。否、それさえも心にはなかった。何も考えずとも自分自身に飛び込んでくる情報は全て疑いもせず、なんら勘ぐることもなく受け入れてきた。
大人になった今、これだけ色んなことを体験してきた私でさえ目の前で起きる事象を!聞こえる声音を、感じるものに対して疑いを持つようになった。故に幼少の頃とは心持ちが変わった為に、体験することが減ったのだろう。
そして、この勘はなにも非科学的な心霊現象などにばかり働いている訳では無い。人間関係には強く作用しているように思う。人の感情の僅かな起伏や、相手の所謂「地雷」といった、触れられたくない部分や踏み込まれたくないパーソナルスペースが何となく感じられる。それが安定した立ち回りを実現しているのか、これまでにどのような仕事や環境であれ、癖のある人や嫌われているような我の強い人や言葉を選ばない人とも親しくなれた。そして、非常に可愛がってもらえたのだ。また、そういう人と親しくなり可愛がられることでその職場や環境に直ぐに順応し、和に入る、馴染むことに時間がかからないのだ。そして、相手もまた誤解や一方的な見方によって置かれていた距離がなくなり、私と同様に周囲に溶け込む。気がつけば皆が笑顔で楽しく、時には本音を言い合える本当の意味で風通しの良い関係になるのだ。
さて、人間関係では苦労がないように思えるここまでの話も、実はそうでは無いことも述べておこう。私は繊細、否「気にしい」な性格で考えても仕方の無いことや意味の無いことを考え込んだり、勘ぐったり、悩んだりしてしまう。そして、自分は相手に何を思われているのだろうか、どのような評価を下されているのだろうかなどと考えてしまうことがあるのだ。
昨年担当した現場では、一人だけ無視できない存在があった。当初こそ毎日苛立ちを募らせては、発散できない鬱憤を溜め込んで胃を痛くしていた。しかし、昨年末ころに考え方や気持ちの捉え方や消化の仕方を少しだけ体得したのか無意識に視界から消し去ることができるようになった。そして、視界だけでなく思考や心からも消すことができるようになった。もちろん、意識しなければ直ぐに気になってしまい腹立たしさなどで頭が沸いてしまいそうであったため、ふと考えそうになった時は意識して無視をするようにしたり別のことを考えるように努力をした。これは今でも変わらず意識的に取り組んでいることではあるが、これを無意識で行えるようになった時に初めて、私はやっと大人になれたのだと感じることだろう。いまはまだまだ子供かな大人への成長段階でしかなく、年長者や社会から見れば「クソガキ」ていどの評価しか得られないだろう。
実際に昨年中は親より歳上である職員から窘められたものだが、これが私を変えさせるには十分な言葉だった。このままではダメだと、重ねてきた歳ではなく、心を成長させなければダメなんだと考えを改めるきっかけとなった。だから私はその職員のことをとても尊敬しているし感謝をしている。仕事において、その職員からたくさんのことを教わったし、相手が知らないことは全部教えるつもりで共有した。だからだろう、とてもいい関係を築けていた。もう二度と仕事を共にすることはないだろうが、彼から与えられたものは無駄にはしない。本人へ本返しをすることは出来ないが、この先たくさんの関わる人々に恩を送ろうと思う。
さて、ここまで書いてきたがこれは本題では無い。このまま語り続けても良かったが、本題を口にする前に文字数が大変なことになりそうなので自重しておく。
本当に描きたかったこと、皆さんに伺いたかったこと。
皆さん、怪談にご興味は御座いますか?
私の体験談にご興味は御座いますか?
一昨年、昨年、一昨日、昨日と確かな時を過ごした。そして時の流れを犇犇(ひしひし)と感じ、巡りゆく四季と季節が織り成す景色や空気を肌で感じた。そうして限られた人生の一時、一刻、一瞬を有意義に、されど時に無意義無意味に過ごしてきた。
私の人生は、思えばとても大義であったし難儀であった。そう思える反面、同世代と比較してみると実に充実していたとも思える。幼い頃から常にたくさんの人が周囲にいて、いつも誰かの暖かい心遣いの中で過ごしてきた。その中にあって、人を思いやる心よ敬い尊ぶ心を養ってきた。しかしながら、成長し、周囲の人間関係や環境が変わる中でそれらの心を忘れ利己的になることもあった。自己中心的な思考でもって、横柄に振る舞うこともあったし、人に対して醜い現行を行うこともあった。それを友人やクラスメート、教師に注意されては肩を落として深く反省することもあった。
親しくなった友人を病気で亡くしたことも、その後に親しくなった友人がいじめを苦に転校を余儀なくされた時も、私は何の力にも慣れず唇を噛み締めたこともあった。それなのにも関わらず、心のどこかではもっと私に頼って欲しかった、相談して欲しかったと恨めしく思った。
私は中学校の卒業をもって、進学ではなく就職をえらび社会に飛び込んだ。型枠大工の職人であった祖母の手伝いから、私の社会人生活は始まった。職人気質で口が悪く、作業指示も満足でない祖母の元で仕事をするのは息が詰まる思いだった。褒められることも無い、一日を通して会話をすることもほとんどない。元請け会社の方から声をかけられることが唯一の人との会話だった。
十七歳で海上自衛隊に入隊した兄に憧れ、自衛隊を志すようになったことで生活も考え方も大きく変わった。日中は仕事を、家に帰れば兄や妹の高校の教科書を借りて勉強に励んだ。私が願書を出す頃、兄が海上自衛隊を退職して陸上自衛隊に入隊すると言った。兄もまた私を担当してくださっていた広報官へ願書を託した。
私と兄は二人揃って、ふたつの入隊試験を受験した。ひとつは一日で筆記と口述試験、身体検査を受けて結果を待つもの。もうひとつは一次試験(筆記)を受けて合格者のみ二次試験へ進むもの。一つ目はふたりとも合格し、もうひとつは私だけが二次試験へと進んだ。秋の合格発表で、兄と私が自衛官になる道が開かれた。そして翌年の春に私と兄は別々の駐屯地へ着隊したのだ。
時折、双方に連絡を取り「今日は○○の訓練をした」だの、「来週は行軍がある」だのと状況を伝えあっては励ましあった。私と兄ではカリキュラムが大きく異なったが、同じ自衛官として、誇りを持ち、尊敬しあって高めあっていた。
病気を患い、周囲から心無い言葉をかけられても後ろ指を刺されても負けてなるかと踏ん張った。歯を食いしばって踏ん張ったが、病気には勝てなかった。退職の日、駐屯地を後にするときは嗚咽を漏らし、涙を堪えることが出来なかった。電車の中で一人号したのをよく覚えている。退職後は仲の良かった同期や班長、仲間たちと連絡を取りあった。「○○は△△の部隊に異動になった」とか、「明日から山篭りいってくる」などと近況報告を受けては嬉しい気持ちと、底に自分がいない気持ちで複雑な気持ちになっていた。
自衛官の志が絶たれ失意の中ではあったものの、祖母や母が病気で入院するなど心の痛むことが続いたことで前に進まなくてはという自分への焦りや気構えが芽生えていた。求人情報に食らいつき、血眼になって住み込みで働けて手に職をつけられる企業を探した。
何度か声のかかった企業の代表者と連絡を取り合った。「もしも合わないなと思えば辞めて帰ってもいい。気構えず気軽な気持ちで飛び込んできて欲しい」、そんな暖かい言葉に後押しされて地元を離れた。これまでも語ってきたが、結論を言えば反社系の会社だった。移り住んだその日に、頭を丸めさせられ人材派遣へ登録させられた。ここまで聞いていた話と違うことが、間髪入れずに立て続くことなどそうはないだろう。
翌日から人材派遣の仕事で様々なところへ赴いたが、このころにもっとも辛かったのは引越し業者だろう。引越し業者への派遣は大きくわけて三つの職種が存在する。倉庫でのピッキングや整理、事務所移転の応援、引越し作業の応援(家電配送なども含まれる)。私は初日から「EVなし、五階建て四階、三人家族」の現場へと配置された。ありがたいことに、「走らなくていい」、「人数でカバーして辛くならないリレーをしよう」、「休憩を挟もう」とリーダー(社員)からの指示があったことだ。結果を言えば辛いことに変わりは無い、自衛隊とはまた違う力仕事である。
こうして様々な引越し、事務所移転の現場へ行く中で離れしたり、テクニックやコツを習得したことで社員の方々と同じような業務を任せて貰うことが増えたころ、今度はニトリの家具配送組立設置の応変へと派遣先が変わった。ニトリ家具の仕事は、重量物がたまにある位で、ゴミの分別や様々な家具の組み立て方を覚えればとても快適な仕事だった。お客様からの「ありがとう」と社員の方や、派遣先の支店長やセンター長からの「仕事が丁寧で早い」というお褒めの言葉も、誰かの為にと思う私にはとても染みたのだ。その後も、様々な派遣の仕事を経験した。そして、その度にそれぞれの仕事の意義や重要性を肌で感じて学んだ。しんどいことも辛いことも、やりがいも楽しさも同じだけ学んだ。
宮城県仙台市、初めて飛び込んだ会社は反社系で、仕事はもっぱら派遣仕事。震災復興事業で東北が活性化したことで派遣仕事から人夫出しへとかわり、私たちの仕事はもっぱら人夫の多能工へと激変した。そして、本業である建築塗装の仕事が爆増したこと、新規事業への参入などで忙しくなり会社の利益も増えたことで会社は様変わりした。社長は着飾るようになり、毎日のように行われていた制裁(ミスへの制裁、リンチ)も無くなった。酒やタバコ、欲しいものはなんでも買い与えられるようになった。
しかし、どれだけ会社が潤っても賃金が私たちに支払われることはついぞなかった。社長は競馬やパチンコにあけくれ、私たちは毎日、朝早くから夜遅くまで働き詰めになるようになっていた。そしてそれは留まることを知らず、私たちは日中は塗装工事、夜間は遊戯台関連工事で睡眠時間すら確保できなくなっていた。
ある時から現場で怪我をすることが増えてきた、睡眠不足や過労による注意力散漫が原因であることは誰にでも理解出来ていた。ところが、私たちには何も出来ない、社長に異を唱えることは半殺しに遭うことを意味する。黙って働くしか無かった、だから労働災害が頻発し、その程度も酷くなっていった。
馬鹿げた会社に見切りをつけて、知人を頼って柄をかわした。暫くは息を潜め、捜索の手が止んだ頃合に知人の仕事を手伝うようになったが、この知人も反社の息がかかっていた。そしてまた知人を頼って環境を変えた。
最後に頼った知人と起業したのは何かの縁だったのだろうか、いいことも悪いことも嫌という程経験した。詐欺の被害に遭ったり、仲間の裏切りに遭ったり。だけども、何よりもビジネスパートナーと意見が合わない、考え方に隔たりがあると感じることが多かっただろうか。このビジネスパートナーと元は反社の人間だった。そして詐欺で服役したことのある人間だった。だからだろう、どれだけカタギで真面目に振舞っていても、中身は人を食い物にしようとする犯罪者そのものだった。当初はそれでも上手くやれていたが、資金繰りが上手くいかなくなった辺りから、詐欺まがいのことを繰り返すようになり不信感と焦燥感により心が離れた。
様々な経験を経て地元に帰ってきた私だが、地元に戻ってもなお心が落ち着いたことは無かった。宮城では生きるためにがむしゃらになっていたし、生きるためには何でもするしか無かった。だからやりたい仕事や自分に向いていることなんて考えたこともなかった。それが自由になったとき、どっと押し寄せてきた。これから何をしようか、なにをすればいいのか。私は何をしたいのか、何が向いているのか。何も分からないことで溢れかえった心の整理がつかぬまま、とりあえず身につけた行動力とフットワークの軽さで、手当たり次第に挑戦してみた。
結論としては、私に向いていたのは現場監督だった 。施工管理技術者として、建設業関わり続けることが何よりも肌に馴染むことが最近になってわかった。だからこそ今になって目標が溢れ、過ごす時間が豊かに感じられるようになった。
来年、再来年。どんな時間を過ごしているだろう、私はどんな生活を送っているのだろう。どんな人間になっているのだろう、何一つイメージがつかないが、それでもはっきりとした目標だけは掲げている。
一年後、私は新たに国家資格を取得しているだろう。そして、スキルアップして収入もアップして人間としても成長して、いまより一歩進んでいるだろう。
一年後、私は予備自衛官補の採用試験を受験するだろう。そして、もう一度国の守人として歩み始めるだろう。
今この時、たしかに時間は流れ続ける。そしてたしかに流れてきた時を振り返り、過去に思いを寄せることは出来る。しかし、これから先のことは誰にも分からない。もしかしたら私は急病で命を落とすやもしれないし、交通事故で大怪我を負うかもしれない。たった一秒先も、誰にも予測しえぬ未来であり、だからこそかけがえのない今がある。
私は不確かで不安だらけの未来にも、たとえささやかで実現できるか分からない目標でさえ希望の光として燦々(さんさん)と輝かせ、意地強く志高く生きていこうと思う。
一年後の姿は、今の写し鏡であるから。
暖かく心地よい陽射しに季節の移ろいを感じ、時おり吹き荒む杪冬の風に身を震わせる。そんな初春も過ぎて、野山を街を淡く彩る薄桃色に目を癒す。
桜吹雪が、ひと足早く吹き抜ける初夏の風とともに私たちの日常を彩る。
執筆中...
昨晩、地震が発生しました。揺れが発生した地域にお住いの皆様、大事はないでしょうか。
私も、就寝したわずか一時間後のことでスマートフォンの鳴動する緊急地震速報で飛び起きた次第でございます。しかし、幸いにして私が暮らしている地域の揺れは小さく、被害は何もありませんでした。震源に近い地域の方、階層の高い建物にお住まいの方の不安は大きかったまのとお察しいたします。また、お怪我などなくご無事であることを心よりお祈り申し上げます。