-ゆずぽんず-

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出会いと別れは誰にも等しく訪れる。幼少から沢山の出会いを経験して人は成長していくのだけれど、例えば幼稚園や保育所から小学校へと進学をする時に別れも経験することになる。そして小学校ではより多くの出会いがあるが、転校という別れもまた初めて知ることになる。中学への進学も高校や大学への進学においても同じように別れを経て、新たな出会いが訪れる。
もちろん、この出会いと別れが誰にも寂しいものであったりかなしいものであることは決してない。馬の合わない人や嫌いな人、悪口や陰口を吹聴する人や誰かをいじめる人。自分をいじめてくる人や、それを見て見ぬふりをする人。自分にとって様々な要因のもとに目の前からいなくなっていくことが、何よりもの心の救いである人も少なくは無い。
逆に、とても信頼をしていたりまるで家族兄弟かのように息が合う友人がいる。或いは恋心を寄せていた憧れの人がいる、交際している人がいる。そんな折に互いに環境が変わることで訪れる別れに、酷く悲しむことも塞ぎ込むこともあるだろう。別れが誰にでも訪れるものであれど、一喜一憂する要因はまさに十人十色。

私は保育所で育った、笑顔が溢れ活発で元気みなぎる環境で駆け回り、時に喧嘩をして泣かせたり泣いたり。今思い返しても鮮明に蘇り、あの頃に戻れたらと恋しくなることがあるほどに人生の中で最も濃密だったように感じられる時分だ。皆さんも街で見かけたことがおると思うが、保育所(保育園)はよくお散歩をする。年少者は乳母車(小さな子どもを乗せて押す為のカート。おさんぽ車とも)に乗って、しっかり歩いたり走ったりできる年頃では先生の見守るなか元気に自然と触れ合う。あの時見た光景も感じた風も匂いも音も全てが懐かしく愛おしく、はっきりと記憶に残っている。
園庭を駆け回ったこと、竹馬で遊んだこと、メンコ(牛乳瓶の紙蓋)で遊んだこと。給食を残して先生に叱られたこと、友達を叩いて泣かせて叱られて自分まで悲しくなって泣いたこと。みんなで裏山に登って鉄塔の足元でどこまでも見える街並みに感動したこと、道中で摘んで食べた木いちごや山ぶどうが美味しかったこと。数え切れないほどのたくさんの思い出がある。同い年の友達とは兄弟のようにいつも楽しく笑い合った。
卒園式を思い出しても鮮明に蘇らないのは、涙のせいだ。卒園式を控えたころ、先生たちと練習をした。先生がお母さんやお父さんに宛てた手紙の書き方を教えてくれたり、証書の受け取り方や挨拶の仕方を教えてくれた。あと数日でいつもとは違う「さようなら」と「ありがとうございました」の挨拶を言わなければならない、友達に「さようなら」を言わなければならないのに当日までまるで実感が持てなかった。
別れが迫る中、遊んでいる時に泣き出す子もいれば、お迎えの時になって帰りたくないと泣く子もいた。私は五人兄妹の四番目の三男。兄妹は皆、この保育所で育った。父は私三歳の頃に他界した為、母女手一つで必死になって育ててくれていた。だから夕方になると先生たちと一緒に友達のお迎えを持って、「またあしたね」と帰宅を見送った。そのあとは職員室で夜九時まで先生や園長と折り紙をしたりお菓子を食べたりしながら母の迎えを待った。こんな毎日を年少の頃から送っていたからこそ実感が持てなかったのかもしれない。私にとって先生たちも家族そのものだったし、保育所が家のようにあたたかい居場所だったから。
卒園式では、恐らく誰もが知っている「きみとぼくのららら」、「ともだちになるために」、「おもいでのアルバム」を歌った。歌ったつもりではいる、でもきっと声すら出ていなかったかもしれない。歌を歌う前にお母さんやお父さんへ感謝の手紙を読んだ辺りで、今日、この日この時が終わるともう皆と離れ離れになって会えなくなるんだ。もう保育所に居られなくなるんだと自覚して涙か溢れてきた。泣くまいと堪えたものの、嗚咽が止まらない。みんな涙を零しながら、嗚咽しながら必死に歌を歌った。これまでどんなときも一緒に過ごしてきた兄弟のように絆で結ばれた友達と別れることになる、みんなそんな思いでいた。卒園式には母、長女と長男が来てくれていた。でも涙で視界がぼやけてどこにいるのかよく分からなかった。さっきまでそこにいたのに溢れて止まることの無い涙が、寂しいかなしい現実をぼやけさせていた。それがさらに涙を呼んだ。
証書を貰って園長から「何時でも遊びに来てください。ここは皆さんの二つ目のお家です。もうひとつの家族です」そう声をかけられてまた泣いた。そのあとは家族全員で母の運転する車で帰宅くした。その後、保育所の友達のうち、四人だけが同じ小学校へ進学した。そのうち二人とはいつも一緒に遊んだが、もう二人は同じクラスになることがなく遊ぶことがなくなっていった。六年生になって、いつも遅んでいた友達と、同窓会をしよう言う話になって保育所へ飛び込んだ。居なくなった先生が二人ほどいたけれど、残った先生はみんな優しく迎えてくれた。そして、もう一度みんなで集まりたい、遊びたい、たくさん話をしたいと想いを伝えると園長が全て任せなさいと背中を押してくれた。
小学校を卒業して中学校へ進学してひと月ほど経った頃、友達から保育所の同窓会を開催するという連絡を受けた。当日をまだまだかと首を長くして待っていたあのころの記憶もまたしっかりと残っている。始まって間もない中学校生活の不安などどこへやら、同窓会のことだけが頭の中を駆け回っていたのだ。
同窓会にはほぼ全員が集まった。みんなで抱き合って、みんなではしゃいで語り合って遊んだ。お菓子やジュースを保育所が用意してくれており、保育所も体育館も全て貸切にしてくれた為、幼かったあの頃のように園庭年甲斐もなく遊んだ。色んな種類のジュースを混ぜて「闇ジュース」を作って園長に飲ませてみたり、お菓子の美味しい食べ合わせを試してみたりもした。体育館で記憶を頼りに和太鼓を叩いて演奏してみたり、裏山に登って様変わりしたけどどこか懐かしい街並みを眺めてみたりもした。
再び訪れた別れの時間がとても寂しかった。次はもう会えないかもしれない、こうして集まれないかもしれない。もう、保育所で集まることも語り合うこともできないかもしれない、そんな考えが胸を強く打って涙が溢れようとしていた。友達の「また会えたら会おう」の一言で、涙をぐっとこらえて笑顔で「じゃあね、また!」と手を振って別れた。


その後は同じ中学に進学していた友達も転校したり、私が引きこもったりしたこともあって全ての縁が切れてしまった。もうどこで何をしているのかも分からないし、全員の名前を思い出すことなどできない。一人二人を思い出してやっとだろうか。保育所で出会い、たくさんの思い出を作ってくれたみんなに会うことはもう叶わないだろう。でも、人との繋がりや縁、絆や尊ぶ心は彼らと過ごした時間に養われた大切な宝物だ。これはこれまで一度たりとも無駄にすることなく、一瞬も手放すことなく生きてきた。だから大人になった今も良い園に恵まれ、よい知己に恵まれるのだろう。人を思いやる心、人の気持ちに寄り添うことで感じる大切な心をくれたみんなのことは、たとえ名前がわからなくなってしまったって思い出や存在までは忘れはしない。


小学校では病気で友人を失くした。宮城で過ごしている時は、仕事でお世話になった方を病気で失くした。宮城で出会ってきた人たちとも、私が広島に帰ったことで別れてしまった。そして、縁も絶ってしまった。
たくさんの別れの上に、私の心の中には「一期一会」という言葉と考え方が強く根付いていった。もう二度と会えないかもしれないから、今この時を大切にしようと思うようになった。だからだろ、宮城で恵まれた只一人の友人は今でも年に数回連絡を取り合う。そして、その時は六時間から八時間も語り合ってしまうのだ。


様々な別れ、辛い別れや実感の湧かない突然の別れ。出会いの数だけ、別れがあるがその一つ一つはどんな関係性だったかで意味も心も変わってくる。だけれど、他彼の数だけたった一度の縁に意識するようになる。


必ずしも訪れるものから、次に訪れる縁を尊び、大切にできる心を養うことはとても意味のあることであり、それは別れてきた人々への、ひとつの「恩送り」なのかもしれない。

5/20/2024, 12:56:25 AM