「ココロオドル」
皆さんこんにちは、昨日「今晩、投稿します」声高らかに宣言した私ですが、失念して寝てしまいました。
そして、たったいま投稿致しました。
相も変わらず訳の分からない駄文で長文なために、、執筆中はラグが酷く難儀しました。その為、誤字脱字などあるかもしれません。
どうか一読して頂けますと幸いです。
束の間の休息
十代の頃から建設業種において職人として汗を流し、時に挫け時に迷いながらも技能を磨き技術を向上させるべく精進してきた。十五歳の時には一人親方をしていた祖母の手伝いで型枠大工の仕事に打ち込み、手伝いが終わればそれがきっかけで別の会社へ飛び込んだ。山の中にある土場に乗り合わせて集まれば、夏なら陰へ逃げ込み、冬ならドラム缶で木くずを燃やして暖を取り談笑した。私の親方は当時で七十代、私のことを孫のように可愛がってくれ優しくし接してくれたが仕事ではとても厳しかった。
十九歳を目前にひとり宮城県の会社へ住み込みの職人として就職したが、所謂「反社」にいた人たちが営んでいる会社だった。仕事で下手を打てば帰社して、車座で座る従業員の目の前で苛烈な制裁を加えられた。他の従業員に殴られた時、痛みを訴えれば馬鹿にされ、罵られて人格を否定された。
逃げればどれだけ楽だったろうと考えたことも度々あるが、それができる状態ではなかった。常に監視をされていた、銭のひとつも持たなかった。逃げ出した先で路頭に迷うことになるのは容易に想像が着くほか、元反社の面子が揃っていることもあって情報網ら広い。かつて逃げ出した従業員は県外に居ても見つけ出されて連れ戻されている。連れ戻された従業員への制裁はない、というのも洗脳するために社長や幹部が優しく温かく寄り添うからだ。
辛く息苦しい日々からやっとの思いで逃げ出すも、ひと月もたたずして連れ戻される。だが、逃げ出した先で待っていたのは寝る家も暖かい風呂も布団も、美味しい食事もない現実。働くことも出来ず、銭も持たない着の身着のままでの生活など容易ではない。そんな時にさも心配したと言わんばかりの出迎えで、涙ながらに身を案じたのだと言われればぐっとくるものだ。そして、お前が必要なのだ、お前の仕事は素晴らしく他の者の見本となるものだとおだてられれば、そうなのかと信じてしまう。
会社について、社宅の居間で静かに冷静に、されど情を誘い、刷り込むように声をかければ洗脳された金の成る木ができあがる。そんな人間を見ていれば逃げようなどとは思えなかった。
私にも洗脳しようと企てが何度もあったが、私は自分の信じたことしか信じない性分だ。終に洗脳は出来ぬかと悟った社長や幹部は、私への接し方を変えた。つまりアプローチを大きく変えたのだ。否、従業員の中でとりわけ問題を抱えていた人間を追放した頃から優しく丸くなった。単にストレスが軽減されたことで心に余裕が出来たのか、震災後の復興事業で売上が爆増したことでゆとりが出来たのかもしれない。 何れにせよ私は洗脳されることはなく、仕事の先々で交友関係を広く作って抜け出すことに成功した。
その後は過去にも執筆したように、絵を描いてくれた人が元は反社の人間で現在進行形でシャブ中だった。またある人は元反社で詐欺師で現在も反社と繋がりのある人だったりと、どこまでも黒い影は私に付きまとった。だが、これは私が全てを他人に転嫁し、依存し、頼って来た結果である。悪の道を行く者やその道を歩いてきた者からすれば、私はさぞ美味しいそうに見えるモだったろう。
それらを断ち切るのは本当に大義なことだったが、それも自分自身で蒔いた種。最後は相当に危ない橋を渡ったが、繋がりを断ち切り地元へ帰ることができた。地元へ帰ることが出来たのはいいものの、私は人生の路頭に迷うこととなった。人の人生の自然なながれは、中学校を卒業して進学か就職。或いは高校や大学を卒業して就職、または専門的なことを学べる道へ進学。吟味して飛び込んだ会社でキャリアを積んだり、スキルを身につけたりする。転職だってすることもあるだろう、その時には少しでも収入向上や待遇の向上、或いはより自分にとって好都合な会社を模索する。そうして自分の信じた人生観と思い描く将来像へと歩んでいく。
しかし、私にはそれらの機会がなかった。被害者振るつもりは毛頭ない、将来について、人生について深く考えもせずふらりふらりと気の向くままに動いてきた私が作り上げた末路だ。私には何ができて、何ができないのか。何をしたくて何がしたくないのか。何が好きで、何が苦手で嫌いなのか、得手不得手さえ分からなかった。自分のことを省みて、客観的に多角的に自分自身という人間を観察することすらせず、のらりくらりと時間を無駄にしてきた。だから、自由になった瞬間から私の本当の人生が始まったのだ。
たくさんの仕事を経験した。まずは、人の役に立ちたい、誰からも頼られるヒーローのような人間になりたいと思って商業施設で施設警備員として働いた。入社して新任研修を終えて、私の地元の商業施設へ配置された。そしてひと月後には重要なポストでの勤務を任して貰えるようになり、店幹部の方や設備員のかたやセンター長にも仕事や姿勢を評価して貰えるように。センター長には休みの度に飲みに誘って貰えるようになっていた。
巡回中のお客様対応や、店舗やテナントの事案対応も周囲からの評価は高くやり甲斐を強く感じていた。もちろん、目立つ立場ではあるし事故た事案では直ぐに駆けつけるのが警備員である以上、恨まれることや難癖を付けられることもあった。不良なんてのは優しく話をすれば「○○さん」なんて呼んで懐いてくれることが多く困らなかったが、酔っ払いやネジの飛んだ人の対応には骨が折れた。
仕事の中で強いストレスを受けることはあまり無かったし、巡回時は基本的にはひとり。親しいお客様ややんちゃな若い子や、テナントのスタッフの方々との触れ合いもあり充実していた。ただ一つ、同僚に対して思うところが吐き出せばキリがないほどであった。事故や事案があれば、最寄りの隊員が駆けつけて対しなければならないが、無線を無視したり他の隊に押し付けたりと散々であった。もちろん、そのような対応が苦手な隊員に対しては教育指導やフォローアップも行っていた。どうしても難しいならほかの隊員で対応を代わるが、その代わりに巡回を引き受けたりその他の対応を行うよう指示をしている。それを行わずして不満を口にして、自分自身の仕事を全うせず責任を放棄する隊員に腹が立つ日々を送っていた。
得意なことを活かしてくれればそれでいい、書類作成が難しいと思うならば、苦手だと感じたならば
得意としている私か副隊長へ正確に引き継いでくれればそれでいい。だが、事故事案については時系列やお客様情報など記録するものが多く、事細かに記録したものを併せて引き継ぎを受けなければ作成できず、警備隊の信頼が揺らぐことになる。事実、それらの不備でなんども店幹部やセンター長から適切に指導や再教育を行うよう何度も指摘されている。
ところが、「もう年寄りだから」「若くないから」などと屁理屈を垂れては真面目に聞かないのだ。本社へ相談し、一週間ほど再研修に来てもらったがお手上げだった。そんなことが続くものだから、ほかの職を探しながら勤務を続けていた。
その後は別業種の職人になって楽しく過ごしていたらいいものの、仕事がなくなって解雇。また別の仕事に行けば、求人情報や面接や職場見学などの時に受けた説明と違ったりと散々であった。
そして現在は現場監督として様々な現場へ赴いているが、会社として無難であれど現場単位では滅茶苦茶だったりする。私は出向して応援に入っているのだが、例えば今の現場では過去のトラウマを呼び覚ますようなパワーハラスメントを受けている。会社へは相談したが、何も変わらないならこの会社とはお別れだと思い始めている。
そして、いま私の胸の中でふつふつと湧いている感情、思い描いている働き方がある。それは、この現場を最後としてもっと自分を大切にできる仕事に転職しようということだ。知っている人は多いと思うが、現場監督は残業が多いが、ここについては気にならない。問題はプライベートな時間が限られるということ、趣味に没頭する時間があまりないこと。これまで転職の度に年収を増やしてきたし、現在の職も毎年しっかりと昇給するため目に見えて年収が増えていく。しかし、自分の時間、何かに浸れる時間は大きく減った。
将来の目標や、、小さな夢はあるけれど肩肘張らずありのままの自分を活かせる働き方というのが健康で健全な生き方なのかもしれない。収入は激減するが、たった一度の人生、限られた時間はたくさん使うことが出来る。
釣り、レザークラフト、パラコードクラフト、料理
趣味の数だけ時間が必要だ。働きながらも趣味を満喫できるのならば、人生において束の間の休息と言えるのではないだろうか。
世間体、常識、色々なことがのしかかってくる人生を如何に心軽く歩いていくか。
その選択も、道のりも、歩き方も
自分の思うままに決めていいのだ。
人は生きてさえいれば、
どうとでもなる。
なるようにしか、
ならないのだ。
人生ってそんなものなんだ。
大好きな恋人とすごく毎日はとても刺激的で、仕事におわれる私には何よりもの癒しだった。ため息を吐きながらアパートの共用階段をのそりのそりと踏みしめていく。玄関の鍵を開けると合鍵を渡していた恋人が、私に連絡なくサプライズで訪ねてきていた。どれだけ嬉しかっただろう、距離離れた恋人には会いたくてもなかなか会えなかった。込み上げてくる想い、溢れてくる愛おしさからいつまでも抱きしめて離れなかった。
私の恋人は強い香りを嫌うから、タバコを吸う私に対して臭いからではなく身体に悪いからやめようといつも声をかける。そして、外での職人仕事だからとてもよく汗をかく私は「AXE」のスプレーを愛用していたことにも触れる。汗の臭いの正しいケアはシャワーの後や、細めな着替えや汗の拭き取りだよと教えてくれた。そんな恋人は自身も身体や汗のケアを良くしていた。だから香りものは一切使わなかった。
落ち着いていて大人な振る舞いをしていた恋人を初めて見た時、私は同い年くらいだと思っていた。だから声をかけてアプローチを続けた。そして告白をする前に一線を超えてしまったが、告白した時に五歳も年下だと知った。だけれども、歳を知っても恋人を子供っぽいなと思うことはなかった。口にする言葉や考え方、人への接し方や態度は見習わなければと思うほど確りしていた。甘えたいときには全力で甘えてくれる姿に、愛されていること信頼されていることを感じて満たされていた。同じように私も甘えたい時は全力で甘えていた。恥も外聞もプライドもない、ただ恋人に全てをさらけ出していた。
恋人は少し高いヘアケア商品を愛用していた。訊けば頭皮に負担をかける成分が使われておらず、そして香りも優しく自然と馴染むから選んだのだという。この商品は恋人の匂いそのものだった。もちろんスキンケアやボディケアにもこだわっていた恋人は、微香性の柔らかな香りを纏うクリームをいつも塗っていた。全身から香る恋人の香りに包まれる瞬間はいつも幸せで、どこか心から安心できた。気がつけば私も恋人に倣ってケアを始めていた。その香りに「この匂い優しくて、あなたに合っていて好き」と頬を寄せてくる恋人が堪らなく愛らしかった。
私の不甲斐なさから恋人に別れを告げられてしまったけれど、数年の後に結婚をしたと聞いたけれど、私はいつまでもあなたの幸せだけを願っています。
そして今、香水に詳しい年長者からの施しを受けて、私に合う香水をほんの少しだけつけている。そう、目立たず場を乱さない程度に。
あなたと過ごした日々の甘い記憶は、この香水を嗅ぐ度、フレッシュでウッディな香り共に別れを告げる。
このアプリを始めたのは、2023年の1月。もともと文章を認めることが好きで、得意だった私になにかできることはなないだろうかと思案する日々。そんな時に広告でこのアプリの存在を知った。毎日更新されるお題に沿って、あるいは関係なく、ここの好きなように思いを文字にする。スタイルも構成も、文章のルールなんてどうでも良い。書きたいように書きたいだけ文字を連ねていく。
アプリの利用を開始してからというもの、投稿する度に百名近い方がお気に入りに登録してくださいました。私の文章はとにかく長く、拙さも目立つでしょう。それでもたくさんの方がそうして応援をしてくださいました。これは本当に嬉しく、心から励みになりました。もしも、このアプリにコメント投稿機能などがあれば、心無い言葉が突き刺さることもあったと思いますし、否定されることで書くこと、投稿することに恐怖が生じたことでしょう。そのような機能はなく、ただ「お気に入り」というシステムだけで応援するという仕組みのおかげで書き続けてくることができました。
アプリを制作、運営して下さる方が私にこのような貴重な出会いと固い縁を与えてくださったのだと思って感謝の念に堪えません。もしもこのアプリがなければ、日常生活でこれほどまでに文字を書くことも、文章を書くこともありませんでした。語彙力こそ人並みですが、この国語力を捨てることは私にはできませんでした。生かす環境などないなかでの生活においてこの出会いはまさに一期一会。
そして応援して下さる皆様。皆様との出会いも偶然にして必然、このアプリとアプリとの出会いがなければかなわぬものでした。どれほどの利用者様がいるのか分からない中で始めたこのアプリも、気がつけば一年を超えていました。お気に入りに登録して応援してくださる方も増え続け、私に勇気と活力と自信を与え続けて下さっています。どれほどの気持ちを込めて感謝しても足りないほどです。
私の作品は事実を元に、私の経験や人生をありのままに綴っております。しかしその構成から
「どんな人が書いてんだべ」
「どんな人なんだいか」
「堅物なのかや」
「何時の時代の人なんだずや」
と気になる方も多いと思いますし、
「話なげぇ割りに、拙ねぇだっきゃ」
「もっと分かりやすく書いてけねわ」
とお思いの方もおられるかもしれません。ですが、非常に申し訳なく思いながらもお伝えしたいことがございます。
ほかのスタイルで書けないの!
そうなんです、妹にも「小説とか書けるんじゃね? 」と言われたことがあるのですが、それは難しいんです。書いて書けないことは無いとは思います、ですがきっと長編になりますし、アプリの限界を迎えそうなんですね。
「だば、小説投稿サイトで書いたらいいんでねえのわ」
コメントが怖いんです。きっと直ぐに辞めてしまいます。目の前で面と向かって言われる分にはいいのです、反論も出来ますし、何がどうダメでどこをどのように改善したら良いのかディスカッションに持ち込みますから。ですが、インターネット上では心無い言葉が飛び交います。心か疲れちゃいます。
ですので、もし宜しければ今後も変わらず生暖かく見守って頂けましたらとても嬉しいのです。
引き続き応援を賜りたくお願いを申し上げます。また、未熟な点はこれからも自身を省みて見つめ直しながら、改善を続け精進して参ります。どうかこれからも私と皆さんでこのアプリを楽しんでいけましたら幸いです。
私には特別に言葉にはできない。
言葉はいらない、ただ皆さんに日頃の感謝をお伝えしたかった。
艱難辛苦の人の生を歩んできたが、振り返れば苦しかったことや耐え忍んだこと以上に眩い記憶が蘇り溢れ出す。
朝から夜遅くまで保育所で過ごす毎日は、友達に囲まれて寂しさなどなくワクワクやドキドキでいっぱいだった。
保育所には一歳のころから通っており、上の兄弟四人が既に入所していたことや保母さんの中には友達の母親がいたこともあり、それはまるで家族のような環境だった。朝早くに母に連れられて保育所に着くや否や、友達とたわいないことで話を弾ませ、庭で駆け回る。春は穏やかな日差しの下、竹馬や缶蹴り、缶下駄ではしゃいだ。庭に設けられた、浮標をロープで吊るしただけのブランコで揺られ続け、飽きたらまた他の遊びを繰り返す。
夏は幼児の膝丈ほどに水が張られたビニールプールで涼み、身体が冷えるとやはり駆け回った。喉が乾いた時には給食室へ走り、美味しい麦茶を二、三杯いっきに飲み干した。蝉の合唱に、蝉の居場所を探しまわる。見つけた時には皆で木登りに挑戦して、捕まえた時には興味津々に観察をした。今ほ
ど身を焦がすほどの日差しなどなく、ただただ一年のうちで一番あたたかい季節を汗を流して満喫していた。
秋はどこかものさみしくもの悲しさを肌で感じる季節、幼い私も例外ではなく母親がそばにいないことに寂しさを感じていた。今でこそ秋という季節が曖昧だが、当時は秋という季節を肌や心で感じる事ができた。朝は寒さを感じながら母の手を握り保育所へ歩いた。
「お母さん、今日は何時にお迎えに来くるの」
と母に甘えると少し困ったような顔で
「早めに帰ってくるから、先生やお友達と遊んで待っていてね」
と頭を優しく撫でられる。この季節になると保育所では、ほかの保育所との交流会が頻繁に行われていた。幼い私たちにとって、他所の保育所を訪ねることやそこの子どもたちと顔を合わせることはいつもドキドキする一大行事だった。しかし、それらの行事や新しい出会いが胸の内を埋めつくしていく寂しさを取り除いてくれていた。それでも、夕方になれば次々と友達の方が先に帰っていく。保母さんの息子さんだった友達は、保母さんのお仕事終わりに一緒に帰っていくから私たち兄弟と一番仲が良かった。それでも、やはり私たち兄弟だけが残り所長や保母さんとお話をしたり遊んだりしながら母の迎えを待っていた。二十一時になって母が迎えに来ると、抱きついて「お母さん」と甘えては歩き難さに困る母をよそに抱きついたままきたくする。
冬は一面白く染まる庭に心が踊った。私の地元は今でこそ積雪などしないが、当時は雪だるまを作ったりソリで滑ったりできるほど雪が降っていた。冷たく悴んだ指先に息を吹きかけては手を揉み込む。手をすり合わせポッケに差し込んで温まってはまた雪で遊び、綺麗な雪玉を作っては友達どうし自慢しあった。身体が芯から冷えた頃、給食室では温かいお茶を沸かしている。私たちが集まればプラスチックのカップに温かいお茶が注がれ、モクモクと白い湯気が立ち上っていた。母があんでくれた手袋やマフラーでポカポカする身体も雪遊びで冷えてしまうけれど、温かいお茶を飲んでは身体を温めてはまた雪にはしゃぐ。
保育所生活の中で私が唯一として好きになれなかったことがある。お昼寝の時間は、賑やかだった保育所が静まり返り、どこか寂しさを覚えたのは言うまでもない。だけれど、私にとって何よりも恐ろしいのは「おねしょ』だった。毎日、寝る前の水分を控えてもトイレに行ってもおねしょをする。幸いにも叱る保母さんはおらず、泣きべそをかく私を「大丈夫」と慰めて励ましてくれていた。それでも、私の布団だけ庭に干されるとは幼い私にも羞恥心を掻き立てるには十分だった。「またおねしょしちゃったの?」と純粋無垢に訊いてくる友達の声が耳にも胸にも痛かった。それでも保育所生活が嫌いにならなかったのは、あたたかいみんながいたからだろう。意地悪もない、嫌がらせもない、悪口もない。ただただのびのびと過ごさせてくれる環境、失敗をしても叱らず慰め励ましてくれる環境が幸せだったからだろう。
こんな小さな頃の思い出話をしたのは、子供の頃から度々懐かしい夢をみるからだ。いまは無くなって更地になってしまった、幼い日々を過ごした市営住宅のこと。たくさんの思い出が詰まってはいるが、あの市営住宅は幼い頃から人には見えないもの見える私にとって恐怖そのものだった。私たちが住んでいた二号館は四階建ての四階の部屋で、いつも通るのが嫌だったのは三階から四階にかけての階段や踊り場だった。恐怖や思い出の両方がバランスよく両立しているから、共存しているからこそ強く記憶に根付いているのかもしれない。
夢の中では、今まさに小さなコンクリートの橋を渡って市営住宅の団地に入るところだ。夢の中で「あぁ、あの階段を登るのか。怖いんだよな」思いながら、一歩一歩あゆみを続ける。昼間でも薄暗く湿度を帯びている階段を四階まで駆け上がると玄関を勢いよく開け放つ。玄関から見えるのは生まれた時から小学五年生の途中まで過ごした当時のままの部屋だ。土間で靴を脱ぎ、中をまわると暖かな日差しに照らされた部屋が二つ。懐かしさと寂しさが込み上げてきて涙が止まらない。ベタンダ側の部屋は母と姉と妹が寝ていた。その部屋の台所側の部屋角に置かれたテレビ台とブラウン管テレビ。壁際には母の黒い机とデスクチェアが存在感強く佇んでいた。床を見れば、畳の上に引かれ鋲で留られところどころ破けている茣蓙。そして、三人の布団が敷かれている。
反対の部屋は、兄二人と私が寝ていた部屋。玄関側の部屋角には五段の引き出し収納の大きな箪笥と、その上に置かれた仏壇。この仏壇は私の父のものだ。玄関との間仕切りにはアコーディオンカーテンが掛けられている。反対の壁側は襖と、鴨居に掛けられたたくさんの衣類。床は、こちらは畳が見えており私が寝ている所はおねしょのせいで変色していた。私の横の布団はすぐ上の兄の布団、その隣に長男の布団。いつも喧嘩したり笑ったり泣いたり、たくさんの思い出が詰まったこの家は今は無い。
暖かい日差しに眩く照らされた家の中は、当時の自分たちが今もまだ暮らしているかのように生き生きとしている。台所には折り畳み式の円卓があるが、普段は半分しか開かない。椅子は全て円卓の真ん中にある収納の中、食事をする時だけ取り出していた。キッチン左手に大きな冷蔵庫、そして年季の入ったキッチンと給湯器。この給湯器は私が四年生の頃に壊れたんだったか、しばらくの間は母と姉がコンロで沸かしたお湯を水で適温にしてから湯船に張っていた。お風呂はと言うとコンクリートの壁のせいで湿気が逃げず、ジメジメしていた。ある時、どこから侵入したのかフタホシテントウが大量繁殖していた。部屋の中にやたらと黒地に赤ふたつの見慣れぬ虫がいるなと思って家族みんなで不思議がっていたら、お風呂に大量にいるのを姉がみつけてパニックになっていた。駆除をしたのは母だが、やはり母は強しというようにこれだけの子を育てていれば肝が据わってくるのだろうか。
遡れば凡そ三歳ころまで記憶を辿ることができるが、ここまで遠い記憶を思い出せるのは兄弟では私だけだという。他の兄弟は思い出せても保育所の年長さんころまで、つまり五歳ころまでだという。そして、いくつの頃か分からない記憶もあるが、母からスプーンで食事を与えられている記憶や、ひらがなのドリルのようなものを書いている記憶もある。そして、私が三歳のころに他界した父の記憶もある。顔こそ思い出せないがたった一度だけ肩車をしてもらった時の記憶だ。
私がここまで鮮明に当時のことを思い出せるのは、きっと夢のなかで当時の記憶を辿るからだろう。私は夢の中で、音や声、会話、匂いや触れた感触、空気など感じることがある。夢を見た時にそれらを強く感じたときは数日経って、夢に関連した何かが起きる。それは恐らく夢で見聞きしたことや感じたことを記憶していなければなんてことの無い日常の一コマに過ぎないし、なかなか覚えていることすら難しい。たから記録をとるようにしているのだけれど、大抵の事は記憶から生み出された私の幻想として無視している。
これらの夢は私にとって、意識付けには十分すぎる。だからこそ遠い日を思い出すことが兄弟よりも得意なのかもしれない。しかし、この夢はパタリと見なくなったり忘れた頃に見たりするもので、なんとも気分屋なのだ。ただし、夢が私を追憶の世界へと誘う時、忘れていた大切なものを思い出させてくれたり生きるヒントを与えてくれたりする。とても意味のある尊く貴重なものなのだ。
夢よ、突然の君の訪問が私に生きる意味と道標を与えてくれているのだ。