忙しい、時間がいくらあっても足りない。しかし残業は苦ではないしこの仕事が好きである。
しかし、だ。
このアプリで大好きな文字を綴るという、楽しみを果たすことが出来ないことが何よりも辛い。
お気に入りに登録してくださった皆さん、もしかすれば更新を楽しみにして下さっているかもしれない皆さん、なかなか更新が出来ず恐縮に存じます。
今度のお休みは更新できと思います。拙く稚拙な文章ではありますが、どうか目を通して頂けますと励みになります。
では、今日もお疲れ様でした。
お仕事中の方)これからお仕事の方、これからご予定がある方、お疲れ様です。事故怪我なく一日を終えられますように。ご安全に。
では、私は僅かであれど気持ちよく尊い睡眠を貪りたいと思います。
おやすみなさい。
右も左も、それこそ上も下も分からないような環境に自分を放り込んだことがこんなにも自分自信を苦しめることになるとは思いもしなかった。自分を変えたい、変えなければならない、自立しなければならないとの思いをそのまま行動に移したのは十八歳のこと。
病気で自衛官を続けることが出来なくなった私の中に残ったのは、今後どのようにして生きていこう。何を目標に、どんな夢を描けばいいのだろうおいう虚無感だげだった。そんな時に唯一の肉親である母親が倒れ、私は強くショックを受けた。幸いにして母親の症状は軽く、治療を続けることで快方に向かうだろうとのことだった。しかし母が入院して家からいなくなったとき、何をしていいのか、どうすればいいのか分からなかった。結婚して九州に移った姉に連絡を取ると助けに来てくれたが、このときはとても心強く感じた。この経験を機に自立というものを強く考えるようになった。
ずっと憧れ、夢に見ていた自衛官という目標、夢を叶えた私は空挺部隊に入隊するという次なる目標を掲げ、そのために毎日鍛錬に励んだ。第一空挺団の中隊長視察があり、そのときに入隊希望者選考が行われ、口述試験などを受け、その場で採用の返事と励ましの言葉をかけてもらった。ミリタリー雑誌で見た第一空挺団、私はそこに行くことが出来るんだと嬉しくなったと同時に努力が報われた瞬間だった。母の昏倒と入院は、そんな自衛官の道を絶たれ消失感や虚無感が拭えないまま、ダラダラとすごしていた私に母を失うかもしれないと意識させた大きな出来事だった。
宮城県仙台市で初めて迎えた秋、広島県より肌を刺すような寒さを感じていた。仕事に出れば、悪口や暴力を受ける。社宅に帰れば、仕事のミスなどを理由に、車座に座ったみんなの真ん中で社長から見せしめとケジメに殴られ蹴られた。褒められることが増えてきたと思えば、他のメンバーのミスなどで同じようにケジメを付けさせられる。こんなのはおかしいと同僚に声をかければ、「 飯が食えて、温かい風呂に入れる。タバコを吸えて酒も飲める。布団の中で眠れて 仕事にも行けることの何がおかしい?お前の方が おかしいだろ」と反論され、社長にまで話が届く。夜にまた集められて、みんなの前で「お前は頭がおかしい。病気だ。俺らの悪口を口にして楽しいのか」と叱責され蹴り飛ばされた。
入社して暫くした頃、新しく付き合い始めた会社の応援で人夫で入った現場で元請けの親方や番頭に気に入られた。仕事が薄くても呼んで貰えるようになり、現場に出れば一日中を親方たちと過ごし、夜は酔っ払って寂しくなった親方と長電話をした。他の大きな現場が始まった時、真っ先に会社ではなく私に声が掛かった。社長にその話をすると「よくやった!お前は病気で頭のおかしいやつだと思っていたけど違ったな。悪かった」と手のひらを返されて、背中を押されて新しい現場へ送り出された。
新しい現場は、仙台の某高校の仮校舎建築の現場で割と規模の大きな仕事だった。初日は私と先輩三人の四名で入場して、番頭さん からの指示で手元作業をしていたが、私は番頭さんに個別で声をかけてもらった。「〇〇くん、△△の作業ってできる?」と聞かれ「教えていただければ覚えてみせます」と返事をして、一時間みっちりマンツーマンで教えこんでもらった。そして、「今日中には終わらないと思うけど、明日で終わらせてくれたら大丈夫だから怪我だけしないように安全作業で進めてね」と方を叩かれた。一番仲の良かった先輩に声をかけて、先輩にも仕事を教えながら二人で楽しく作業を進めていった。気がつけば夕方早くに全ての作業を終えていた。番頭さんが進捗を確認しに来た時とても喜んでくれて、とても褒めてくれた。それ以来どんどん本職さんの仕事を教えていただいて、入場から二ヶ月たった頃にはただの応援手元作業員では無くなっていた。番頭さんからの評価が上がったことで、私以下作業員の増員ができるようになったことを電話で社長に伝えると、入社以来初めて優しく 声をかけられ、とてもはしゃぎながら喜んでもらえた。
人員が増えるとこれまでのやり方では管理が行き届かなくなる。社宅に帰った時、社長に呼び出された。「電動工具は何を持っていってる?」と訊かれ、会社のインパクトドライバーなどを持ち込んでいると伝えると点検をしたいから持ってきてくれと言われ、車庫に確認をしに行くがどこにもない。車の中を見てもどこにもない。現場に忘れてきたのだと分かった途端二頭をよぎったのは「ケジメ」だった。社長にことの経緯を全て話すと案の定殴られ!蹴られた。その上で「他の奴らも呼んでこい」と凄む。「僕の責任です。ケジメは僕だけで十分です」と返すと、初めての反論に社長が驚いた顔を見せたあとで「分かった、もういい。すまんかった。ただ示しがつかないからみんなの前でもう一度お前だけ軽く締めるけど手加減するから我慢してくれ」と言われた。
皆の前で蹴り飛ばされながら叱責されるが、本当に手加減してくれていたようで全く痛みはなかった。解散になったあと、「今日はこっちで飯を食っていけ。酒も飲んでいけ」と夕飯をご馳走になった。その日を境に社長が暴力を振るうことが無くなった。
暴力と暴言、恐怖による支配のなかでいつの日か自由に外出して、好きな仕事をして、好きなものを食べて、恋愛をして、ゲームをして。そんな明るい日々を夢見ていた。社長の機嫌が良ければある程度のことが許される。それを知ってからは人一倍、現場で仕事を覚えた。元請けや他協力会社からのお褒めの言葉が社長の耳に届く度に、真っ暗でドブ臭い私の環境に光が刺していくのが手に取るように分かった。間違いや失敗をすれば必要以上の叱責やケジメという暴力を受けたが、褒められることが増えていき、暴力はなくなり叱責も無くなったときにはやっと地上に首が届いたような気がした。
どうしようもなく、あてもない毎日。縋るものも人もない状況で、それを変えられるのは自分自身ただひとりなんだと理解した時、私の真っ暗な世界に光明が差したんだ。
いま、広島県で頑張っている。ただただ必死に生きていると言ったほうが正確か。少額とはいえ借金もあるが、返そうと思えば数ヶ月で返せる額ではある。ただ母の治療費や私自身の治療費などに費用が嵩む。生きている、温かいご飯を食べられる。好きなものを買って好きに行動出来るんだ、今、私は世界一の幸せ者だろう。
人生に迷っている人、なにをどあしていいのか分からなくねっているひと、とにかく路頭に迷っている人。人の数だけ悩みがあるが、悩みを解決する方法も人の数だけある。そして、大抵の事はどうにでもなるし、何とかなるものだ。
そして最後に 、幸せの数も形も大きさも人それぞれだ。生きることに不安を感じた時は、広く目を向けてみるといい、暗がりの中で僅かに光るものが人生を導いてくれるだろう。暗がりの中で見出したものがガラクタだと思っても、そこに光が当たれば輝く宝石だったということは良くあること。大切なのは目を開いて、耳を澄まして、嗅覚を研ぎ澄ますことだ。そして、時に野性的であることだ。
理性を超えるほどの野心は人をどこまでも突き動かす。
三十二年前にこの世に生まれ、この人生の節々で多くのことを経験し学びを得てきた私にはひとつの考えがある。それは私自身を構成する要素の中で主軸となる最たるものだ。幼い頃から沢山のひとたちとの縁に恵まれてきた。その中には寂しい別れも、辛い別れもあった。だが、いつもどんなときも誰かが私の周りにいて親切にしてくれたし、時には頼ってくれることもあった。常に私という人間を必要としてくれていた。酷くからかわれたりもした事も、友人が虐められているのを見過ごすことが出来ず庇った時には同じように酷い扱いを受けたこともあった。しかし、いまこうして生きている私を、私自身はとても誇りに思う。強く褒めたたえてやりたいとさえ思っている。悩んだ時、挫けた時も違う視点で物事を考えられてきた。そこで新たな道筋を立てて歩みを続けてきたのだ。これを褒めずしてどうしようか。
大切な人を失ったことを理解できず、大人になった今でも実感がわかない。実はまだどこかで笑顔を見せているのではないだろうかと思ってしまうことがあるが、それは私が現実から目を背けているのか、あの日あの時のまま心の時間が止まってしまっているからだろうか。しかし、それでも私は前を向いて踏ん張って胸を張って生きてきた。どんな艱難辛苦のなかにあろうとも、目まぐるしい環境変化があろうとも、人間関係を幾度となくリセットしようとも私は私を変わらず支えてきたのだ。
こうして自分自身を支えられてきたのも、愛してこられたのも私が私を尊く想っているからだろう。
私という人間は、世界に一つだけの存在だからだろう。
今まさに道に迷っている私だが、歩が止まることはない。生きていればどうにでもなる。どうとでもなるのだ。どこに転げようと、落ちようと、起き上がることも這い上がることも大義ではあれど不可能では無いのだから。
どれだけの辛苦を経験して、どれほどの努力をして、どれだけの出会いを重ねてきたのか。そして、そこに何を思い、何を感じ、何を得て来たのか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に香るもの、手に触れ肌に触れ、五感で感じるものに何を学んだのか、それが人生において重要な財産となる。
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昨日、友人と喧嘩をした。些細なことで酷い言葉を投げかけ、投げかけられた。しかし、家路へと歩みを進める程に友人に対する怒りや不満よりも、酷いことを言ってしまったと悔やみ胸が苦しくなる。食事をしている時、入浴している時も布団を被っている時も頭から離れない。怒った表情に隠れて涙を流す友人の顔が心を強く打つ。一人で悶々とする時間が、友人の胸の内を知らしめているようで辛い。「昨日はごめん」とメッセージを打てば心は晴れるのだろうが、本当に気持ちが伝わるだろうか。自分だけ気持ちが楽になるが、メッセージで一言謝られる友人はいい気持ちはしないだろう。明日、目を見て誠心誠意こころを尽くして謝ろう。大切な友人、尊い縁だから。
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例えば、上記したように些細な日常とも言える友人との喧嘩にもとても意味がある。ただし、お互いが意固地になったり、相手のことなどまるで気にも留めず侮辱したり非難したりするだけでは、意味が無いどころか人生にとって、とても重要なことを放棄していると言える。それは、思考停止した努力も探求も向上心もない堕落しきった人間の成れの果てだ。些細な喧嘩だが、我が身を振り返り反省し、悔やみ、相手の気持ちを想像して次に何をしなければならないのか。何をしたいのかという考えと行動に意味がある。まず、思考した時点で人はひとつ成長している。そして、実際に行動した時に確実に人間として輝きを得ている。
逆もまた然り、相手に酷い言葉を一方的に投げかけられた時、強く腹を立てることもあれば、酷く落ち込むこともある。ではその時、あるいはその後にいかに自分自身を励ましてやれるか、背中を押してやれるか。「なんであんなことを言うんだ」 と悲しむのか、「あの人はなぜあんな言葉を放ったのか、あの人にとってなにが不満だったのか、なにを求めていたのか」 と考えをめぐらしてみるのか。「ふざけたことを抜かしやがって、次会ったら半殺しにしてやる」と相手と同じ土俵に立つのか。どの思考も行動も本人がそれでいいなら、その人にとっては正解だろう。しかし、ひととして考えれば少々残念ではある。確かに相手と同じ立場になってみることも、相手の気持ちを汲んで隣に立とうとすることも意味のあることではある。が、自分のためにはしない方が良い。大切なのは、至極冷静に、そして時に冷淡であること。自分のことを誰よりも自分が律すること、支えることが必要だ。
悪口を浴びた時、「言いたいことは理解した。不満が溜まっていたことに、私にも原因があるなら今後は改めよう。しかし、侮辱するような言い方や、酷い言葉で意志を主張するのは稚拙すぎる」 とあくまでも冷静に、自らのこと、相手のことを考えた上で、無意味で必要のないことへの否定と、これから為さなければならない事を想像したり考えることが肝要である。 「」内の言葉は、発する必要は無い。自分がこのように、一度相手の言葉を飲み込んだ上で至極冷静に処理をする。そして、相手に対して投げかけているようで、自分に対しても諌めるように心の中で整理をすることで、補正ができるようになる。どんなときも客観的に状況把握をする力や、対処することの出来る考える力、想像力や自分自身をコントロールする力が養われるのだ。
あまり意識されてはいないが、自身を律すること、感情のコントロール、或いは他人を動かすためにはこれらのことがとても重要になる。そして、その先に信頼や実績という財産、なにより多くの良縁という宝物を手にすることができるのだ。
私は人生の「終点」とは、誰かに想われ、誰かに敬われ惜しまれながら、静かに、そして安らかに目を閉じて深い深い眠りにつくことだと思っている。その夢の中で、先に旅立った縁深い人々と笑顔で手を取り合うのだ。
これはダメだ。酷い痛みと、行動を制限されるストレスに頭がおかしくなりそうになっている。冷やそうが温めようが、ありとあらゆる手段を用いても改善する気配が一向に見られないのも、またストレスだ。
一昨晩の夜、仕事を終えて家に帰ったのはもう遅い時間。シャワーを浴びて、翌日のお弁当を用意して、床に敷いたエアマットの上に腰を下ろした。試験へ向けて勉強中の教材を手に取り、内容を読み込む。気がつけば朝だった。時計を見やれば 「7/29 土曜日 4:25」の文字が見える。そうか、昨晩は気絶するように寝落ちしたのかもしれないと重い体を起こそうしたその時、乳頭筋から僧帽筋上部にかけて強い痛みを感じた。「寝違えたのか」、その時はそう思っただけだったが、時間が経つにつれてこの痛みが私を現実に引きずり込んでいく。二度寝など出来なかった。毎朝この時間に起きるというのに、休日まで早起きをせねばならないとは。私は休日には、六時に起きると決めている。流石に四時半では 早すぎるからだ。それにもかかわらず、この寝違えのせいで朝早くから苦痛に身を置くことになってしまったのだ。
いま、こうしてこんなことを口にしているあいだも、痛みが私を襲う。接骨院や整体、あらゆる文明の利器を用いた治療法などに頼る事が 懸命であったのかもしれないが、私にはそんな金銭的余裕がない。毎月、実家に相当な額を仕送りしている。私の小遣いは月に1万円も無い 。そんな私には、治療に赴くという事ができないのだ。冷凍庫から保冷剤を取りだしてタオルにくるんで患部を冷やす、そんなことくらいしか出来ない。もちろん、痛みはまるで 軽くもならない。明日からまた仕事だと言うのにどうすればいいのだ。現場監督のみであるから、職人さんのように動くことはそう多くは無いが、全く作業的なことをしないかと言えばそうでもない。盆前までにやらなければならないことがある。
なのに...
ということで、執筆出来ません。
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