-ゆずぽんず-

Open App

どれだけの辛苦を経験して、どれほどの努力をして、どれだけの出会いを重ねてきたのか。そして、そこに何を思い、何を感じ、何を得て来たのか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に香るもの、手に触れ肌に触れ、五感で感じるものに何を学んだのか、それが人生において重要な財産となる。

"
昨日、友人と喧嘩をした。些細なことで酷い言葉を投げかけ、投げかけられた。しかし、家路へと歩みを進める程に友人に対する怒りや不満よりも、酷いことを言ってしまったと悔やみ胸が苦しくなる。食事をしている時、入浴している時も布団を被っている時も頭から離れない。怒った表情に隠れて涙を流す友人の顔が心を強く打つ。一人で悶々とする時間が、友人の胸の内を知らしめているようで辛い。「昨日はごめん」とメッセージを打てば心は晴れるのだろうが、本当に気持ちが伝わるだろうか。自分だけ気持ちが楽になるが、メッセージで一言謝られる友人はいい気持ちはしないだろう。明日、目を見て誠心誠意こころを尽くして謝ろう。大切な友人、尊い縁だから。
"

例えば、上記したように些細な日常とも言える友人との喧嘩にもとても意味がある。ただし、お互いが意固地になったり、相手のことなどまるで気にも留めず侮辱したり非難したりするだけでは、意味が無いどころか人生にとって、とても重要なことを放棄していると言える。それは、思考停止した努力も探求も向上心もない堕落しきった人間の成れの果てだ。些細な喧嘩だが、我が身を振り返り反省し、悔やみ、相手の気持ちを想像して次に何をしなければならないのか。何をしたいのかという考えと行動に意味がある。まず、思考した時点で人はひとつ成長している。そして、実際に行動した時に確実に人間として輝きを得ている。
逆もまた然り、相手に酷い言葉を一方的に投げかけられた時、強く腹を立てることもあれば、酷く落ち込むこともある。ではその時、あるいはその後にいかに自分自身を励ましてやれるか、背中を押してやれるか。「なんであんなことを言うんだ」 と悲しむのか、「あの人はなぜあんな言葉を放ったのか、あの人にとってなにが不満だったのか、なにを求めていたのか」 と考えをめぐらしてみるのか。「ふざけたことを抜かしやがって、次会ったら半殺しにしてやる」と相手と同じ土俵に立つのか。どの思考も行動も本人がそれでいいなら、その人にとっては正解だろう。しかし、ひととして考えれば少々残念ではある。確かに相手と同じ立場になってみることも、相手の気持ちを汲んで隣に立とうとすることも意味のあることではある。が、自分のためにはしない方が良い。大切なのは、至極冷静に、そして時に冷淡であること。自分のことを誰よりも自分が律すること、支えることが必要だ。
悪口を浴びた時、「言いたいことは理解した。不満が溜まっていたことに、私にも原因があるなら今後は改めよう。しかし、侮辱するような言い方や、酷い言葉で意志を主張するのは稚拙すぎる」 とあくまでも冷静に、自らのこと、相手のことを考えた上で、無意味で必要のないことへの否定と、これから為さなければならない事を想像したり考えることが肝要である。 「」内の言葉は、発する必要は無い。自分がこのように、一度相手の言葉を飲み込んだ上で至極冷静に処理をする。そして、相手に対して投げかけているようで、自分に対しても諌めるように心の中で整理をすることで、補正ができるようになる。どんなときも客観的に状況把握をする力や、対処することの出来る考える力、想像力や自分自身をコントロールする力が養われるのだ。

あまり意識されてはいないが、自身を律すること、感情のコントロール、或いは他人を動かすためにはこれらのことがとても重要になる。そして、その先に信頼や実績という財産、なにより多くの良縁という宝物を手にすることができるのだ。


私は人生の「終点」とは、誰かに想われ、誰かに敬われ惜しまれながら、静かに、そして安らかに目を閉じて深い深い眠りにつくことだと思っている。その夢の中で、先に旅立った縁深い人々と笑顔で手を取り合うのだ。

8/11/2023, 2:28:18 AM