明日明後日はお休み。
ということで、明日明後日の2日間は
当日のお題で、なにか文字を起こせたらいいな...
って思うよ!
人は、様々な状況やタイミングで先を見すえ、或いは過去を振り返るものだ。それは近い将来、又は遠い未来をより豊かに、或いはより素晴らしいものとするためでたったりする。遠い目で物事を、その本質を見つめ気づきを得ることで自分なりのきっかけやヒントを得るのだ。今、この有様で良いのか、傍目にみてどのような人間性であろうかなどと過去を客観的、且つ冷静に振り返ることで自らの行いや振る舞い、言行を改めるきっかけを得るのだ。
誰しもが平等に、公平であるように私にも、貴方にも時間は有限で同じように流れている。日本のどこにいようと、アメリカやオーストラリア。インドやアフリカにいようと、一秒一秒が流れていく。川の流れのように静かに、或いは激しく流れ、通り過ぎていく。しかし、川はせき止めることが出来るが時の流れというのはどうにもできないのだ。だからこそ、悔やんだり惜しんだりするのだ。過ぎ行く時の中で、このたったの「一秒」を本気で気にする者はそう多くはない。この貴重な「時」を必死に生きているのは余命幾ばくであるか、スポーツ選手やレーサーや格闘家、或いは将棋の騎士など目の前の対戦相手と自分自身と闘っている者達、戦火に怯え暮らす者達、或いは常に努力精進し、這いつくばって疲労困憊した体に鞭打って、震える足で立ち上がろうとする者くらいだろう。こう語る私も、この言葉を並べている時まで刻まれていく一秒というほんの一瞬の時を、気にかけたことはない。この生を頂いて、無邪気に過ごした幼かった頃も、友人を救おうと奮闘した時も、私自身が人間不信に陥り人生を悲観した時も。自衛官として歩んでいくはずだった道が絶たれた時も、ひとり故郷を離れて宮城の街に移り住んだ時も、詐欺に遭い従業員に給料が払えなくなって、自分もご飯が食べられなくなったときも。生まれて初めて恋人ができた時、愛を育んだ時、喧嘩した時、別れた時。そのどんなときも、無情にも過ぎ行く時間を意識したことは無い。
なのに、ひとは過去を振り返る時というのは、より色濃く鮮明に思い浮かべようと意識をする。あの時はどうだっただろう、あの人の顔は、機嫌は、空の色は、何時頃だっただろう。遠い過去であればあるほどに、その過ぎ去った時の影を必死に追いかけ、掴もうとする。たくさんの記憶が、思い出がつまった引き出しを見つけようとするのに、それがなかなか見つけられない。この広い記憶の空間に数え切れないほどの引き出しが積み重なっている。そして、今こうしている間にも一つ、また一つと増えている。漠然とした記憶を辿ると、その記憶に繋がる影が果てしなく遠いところから伸びている。手に取り伝って行けば、無数に積み上がった数え切れない程の時間の欠片に(引き出し)たどり着く。その一つ一つには、名前も時期もなにも書いていない。逸る気持ちを抑え、力の限り引き出しを抜き取れば、セピア色に褪せたあの頃が目の前に広がる。しかし、探せど探せど、もう一度目に焼き付けたい記憶は見つからない。手探りで手当たり次第に、もどかしさや苛立ちさを募らせても見つからない。
ふと、手を止め諦めの吐息を漏らし足元を見遣れば細くか弱く伸びる光の糸。なんだろうと優しく指を当てなぞるように追いかける。そこには眩く光を放ち、懐かしい香りを纏った宝箱がひとつ。そっと近づいて、光が溢れ出す蓋を持ち上げれば胸が熱くなるのを感じる。込み上げてくるものを必死に抑え、覗き込めば探しに探した宝物が広がっていた。両手で掬いあげて、真っ暗な天に放てば、あの頃の時が動き出す。あの時の景色、あの人の笑顔、あの時感じたもの全てが優しく静かに流れ出す。音の無い少し傷ついた映画のテープを再生しているように、ところどころ霞んだり、ぼやけたり、穴が空いていたりするけれど、確かにこの目で見た景色、過ごした時間が、色を変えて目の前に映し出されている。
さて、今まさに流れる一秒を気にする者はいない。しかし、もう一度やり直すことの出来る能力など誰にもなく、すぎた時を巻き戻る術もまた誰にもない。だからこそ、すぎた時間を振り返る時、ほんの僅かな記憶に縋る他ないのだ。この僅かな記憶こそ、まるで気にも留めなかった、たったの「一秒」なのだ。その積み重ねが思い出であり、記憶である。今過ごしていると、何分、何時間、何日と意識こそすれ「何秒後に」などを本気で気にする人はそうはいない。何故ならば、私たちの生活とはこの時の積み重ねであり、それを見る時には「何日」や「何時間」といった大きな単位でしか見ないからだ。そうでは無い人も居るだろう、しかし多くの人はいちいち小さいことを気にしない。ところが、過去を振り返る時には稀もがより鮮明に思い出そうと、この時の散りばめられた欠片を必死でかき集めるのだ。遠にすぎてしまったかけがえのない「時間」、「記憶」、「思い出」、或いは自分自身の生きてきた「証」であったり、「実績 」を大きく手を伸ばして、力いっぱいに手のひらを広げて抱きしめる。そして、忘れていた大切な記憶を真新しい思い出として、引き出しではなく今度は宝箱にしまい込む。そして、思い出した記憶、客観的に見つめた自分の振る舞いや言葉の一つ一つを反省して、今また流れる時間に身を委ねるのだ。より良い今日、明日、将来、未来を歩むために。
私は、過去に戻れるならばと何度強く願っただろう。動機は様々だが、一貫して言えることは、現在未来を大きく変えることができるきっかけとなり得ることだ。だから、戻れるならば保育所の頃に戻りたい。
ただ、神様に無理を言おう。
この記憶、平凡ではあるがこの頭脳と思考性だけは持っていかせて欲しい。でなければ、戻る意味など皆無なのだ。
心の余裕と時間の余裕が欲しいです、神様。
明日明後日はお休みになりましたので、今度こそ執筆したく存じます。
どうぞ、首という首を伸ばせるだけ伸ばして、
生暖かく見守って頂けますと幸いに存じます。
では、寝ます。
お腹減りました。
でも、寝ます。
日曜日に執筆致します。
ここのところ残業続き、休日出勤と多忙でなかなかアプリを開くことが出来ていませんでした。
お気に入りに登録くださった皆様、どうかあたたかく見守っていただけますと幸いです。
よし、寝よう...
過去の活動や、或いは言行には改めて思い返してみると当時とは全く違う考えや感情が生まれてくる。何故あの時あんな言葉を投げかけたのだろう、何故あの時あの様なことをしたのだろう。何故、何故と悔やむ心に潰されそうになることもある。人は、生き物は、過去には帰れないし変えられない。思い出として印象を操作してしまうか、悔やまれることも都合よく自己改変してしまうしか出来ないのだ。受け止めて今や、もっと先の未来へ繋げられるかどうかの重要な局面であるにもかかわらず、人はそれに気が付かないで無にしてしまうことも往々にある。見た目が如何にも反社会的な活動をしているような人が、話してみればとても気さくで面倒見が良い。しかし、蓋を開けてみれば反社会的勢力の一員だったという過去があった。しかし、それを知り不安や恐怖ではなく疑問が真っ先に浮かんでくる。何故こんなにも優しくあたたかいのか、人の揉め事を丁寧に仲裁できるのかと。聞けば、過去の自身の言行を恥じたからだという。振り返り、客観的に自己評価した時に悔恨の念や周囲への申し訳なさ、自身への情けなさを抱いたのだという。それまで受けてきた恩を誰に、どのように返せばいいのか分からなかったが、これから出会う人達に親切に丁寧に接していけばいい、恩返しができないならば恩送りをしていけばいいのだと思い至ったのだ。確かに、彼は反社会的勢力の一員だった事や過去の悪事を上書きしてしまうほど、紳士的で情が厚くまっすぐな人間だと改めて思う。
過去や過ごしてきた時間を惜しみ、悔やみ、嘆くことは誰にでも易しいが!これほど無駄なことは無い。そんなことに限りのある時間を割くのは勿体なく、合理性もない。振り返り、立ち返り、触れてみて考えてみて感じてみた時に抱いた気持ちが、今の自分自身の姿だ。そして、それを生かすも殺すも自分次第。浮かび上がって見えてきた素直な自分の心に寄り添うのか、いやいやこれは違うと突き放すのか。その選択が今、そして未来を決定づけてしまうと言っても過言では無い。考えること、感じることは易く、成すことは難い。これまで生きてきた中で無意識のうちに、自分の心や性根に根付いてしまったものが邪魔をするからだ。明日やろうは馬鹿野郎というが、事実として、先送りにしたとき人は実行力を無くす。重い腰をあげようと踏ん張る時、どれだけ意志を固く、歯を食いしばれるか、自分を鼓舞できるか、尻を叩くことができるのかが極めて重要だ。
あんな人のような人生が良かった。あんな風に生きていたい、生きていきたい。あの人はいても輝いていて凄い。羨ましい。妬ましい。
他人に対して様々な気持ちを寄せるのは至極当然の事だが、これほどのたくさんの気持ちや強い気持ち、或いは淡い気持ちを抱いているにもかかわらず何もしないのは何故か。憧れは手に届かない訳では無い。そうなりたい、ありたいと思えるということは、フォーカスはそこに向いているのだ。ならば、具体性を求めて行動に移せばいいだけだ。
羨ましいと思うとき、他人もまた誰かを、それこそ自分のことを羨んでいるかもしれない。羨むということは、自分にない魅力やスキルを相手に見ているからだろう。ならば努力をすればいい。英語が話せるなんて格好いいし、素敵だなと思うのなら学べばいい。肌が綺麗で羨ましいと思うのならば、自ら学びを得て実践していけばいい。
妬みや嫉みなどの気持ちを抱いた時、この気持ちを切り捨てることがとても大切なのだが、ひとはこれを簡単には出来ない。ではどうしたものかと、人はこの点を考えなければ気にも留めない。感情のままに他人を傷つけたり攻撃したりするだろう。怨恨の念とはいつの間にか人を支配し内側から壊していき、人格を大きくねじまげてしまう。故に、もしもこの感情に気がつくことが出来たなら早々に切り捨てなければならない。そして、妬みなどの禍々しいものでは無く、どうすればこんな気持ちを忘れられるのだろう、捨てられるのだろう。何がそうさせているのだろうかという点にフォーカスを向けなければならない。事情は様々でも、根底には自分と他人の境地や環境などの差があったりする。ならば、それらの差を如何にして埋めていくか。或いは別のことに置き換えるかという考えを巡らせていけばいい。但し、ここで最も重要なことは素直に正直になるということだ。見栄を張ることも、背伸びをすることも、例えば自分自身を見下したり卑下することもしてはいけない。鏡に映るありのままの自分に問いかけるように、まっすぐな想いをすくい上げることが大事だ。