過去の活動や、或いは言行には改めて思い返してみると当時とは全く違う考えや感情が生まれてくる。何故あの時あんな言葉を投げかけたのだろう、何故あの時あの様なことをしたのだろう。何故、何故と悔やむ心に潰されそうになることもある。人は、生き物は、過去には帰れないし変えられない。思い出として印象を操作してしまうか、悔やまれることも都合よく自己改変してしまうしか出来ないのだ。受け止めて今や、もっと先の未来へ繋げられるかどうかの重要な局面であるにもかかわらず、人はそれに気が付かないで無にしてしまうことも往々にある。見た目が如何にも反社会的な活動をしているような人が、話してみればとても気さくで面倒見が良い。しかし、蓋を開けてみれば反社会的勢力の一員だったという過去があった。しかし、それを知り不安や恐怖ではなく疑問が真っ先に浮かんでくる。何故こんなにも優しくあたたかいのか、人の揉め事を丁寧に仲裁できるのかと。聞けば、過去の自身の言行を恥じたからだという。振り返り、客観的に自己評価した時に悔恨の念や周囲への申し訳なさ、自身への情けなさを抱いたのだという。それまで受けてきた恩を誰に、どのように返せばいいのか分からなかったが、これから出会う人達に親切に丁寧に接していけばいい、恩返しができないならば恩送りをしていけばいいのだと思い至ったのだ。確かに、彼は反社会的勢力の一員だった事や過去の悪事を上書きしてしまうほど、紳士的で情が厚くまっすぐな人間だと改めて思う。
過去や過ごしてきた時間を惜しみ、悔やみ、嘆くことは誰にでも易しいが!これほど無駄なことは無い。そんなことに限りのある時間を割くのは勿体なく、合理性もない。振り返り、立ち返り、触れてみて考えてみて感じてみた時に抱いた気持ちが、今の自分自身の姿だ。そして、それを生かすも殺すも自分次第。浮かび上がって見えてきた素直な自分の心に寄り添うのか、いやいやこれは違うと突き放すのか。その選択が今、そして未来を決定づけてしまうと言っても過言では無い。考えること、感じることは易く、成すことは難い。これまで生きてきた中で無意識のうちに、自分の心や性根に根付いてしまったものが邪魔をするからだ。明日やろうは馬鹿野郎というが、事実として、先送りにしたとき人は実行力を無くす。重い腰をあげようと踏ん張る時、どれだけ意志を固く、歯を食いしばれるか、自分を鼓舞できるか、尻を叩くことができるのかが極めて重要だ。
あんな人のような人生が良かった。あんな風に生きていたい、生きていきたい。あの人はいても輝いていて凄い。羨ましい。妬ましい。
他人に対して様々な気持ちを寄せるのは至極当然の事だが、これほどのたくさんの気持ちや強い気持ち、或いは淡い気持ちを抱いているにもかかわらず何もしないのは何故か。憧れは手に届かない訳では無い。そうなりたい、ありたいと思えるということは、フォーカスはそこに向いているのだ。ならば、具体性を求めて行動に移せばいいだけだ。
羨ましいと思うとき、他人もまた誰かを、それこそ自分のことを羨んでいるかもしれない。羨むということは、自分にない魅力やスキルを相手に見ているからだろう。ならば努力をすればいい。英語が話せるなんて格好いいし、素敵だなと思うのなら学べばいい。肌が綺麗で羨ましいと思うのならば、自ら学びを得て実践していけばいい。
妬みや嫉みなどの気持ちを抱いた時、この気持ちを切り捨てることがとても大切なのだが、ひとはこれを簡単には出来ない。ではどうしたものかと、人はこの点を考えなければ気にも留めない。感情のままに他人を傷つけたり攻撃したりするだろう。怨恨の念とはいつの間にか人を支配し内側から壊していき、人格を大きくねじまげてしまう。故に、もしもこの感情に気がつくことが出来たなら早々に切り捨てなければならない。そして、妬みなどの禍々しいものでは無く、どうすればこんな気持ちを忘れられるのだろう、捨てられるのだろう。何がそうさせているのだろうかという点にフォーカスを向けなければならない。事情は様々でも、根底には自分と他人の境地や環境などの差があったりする。ならば、それらの差を如何にして埋めていくか。或いは別のことに置き換えるかという考えを巡らせていけばいい。但し、ここで最も重要なことは素直に正直になるということだ。見栄を張ることも、背伸びをすることも、例えば自分自身を見下したり卑下することもしてはいけない。鏡に映るありのままの自分に問いかけるように、まっすぐな想いをすくい上げることが大事だ。
6/7/2023, 6:59:04 AM