-ゆずぽんず-

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8/11/2023, 2:28:18 AM

どれだけの辛苦を経験して、どれほどの努力をして、どれだけの出会いを重ねてきたのか。そして、そこに何を思い、何を感じ、何を得て来たのか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に香るもの、手に触れ肌に触れ、五感で感じるものに何を学んだのか、それが人生において重要な財産となる。

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昨日、友人と喧嘩をした。些細なことで酷い言葉を投げかけ、投げかけられた。しかし、家路へと歩みを進める程に友人に対する怒りや不満よりも、酷いことを言ってしまったと悔やみ胸が苦しくなる。食事をしている時、入浴している時も布団を被っている時も頭から離れない。怒った表情に隠れて涙を流す友人の顔が心を強く打つ。一人で悶々とする時間が、友人の胸の内を知らしめているようで辛い。「昨日はごめん」とメッセージを打てば心は晴れるのだろうが、本当に気持ちが伝わるだろうか。自分だけ気持ちが楽になるが、メッセージで一言謝られる友人はいい気持ちはしないだろう。明日、目を見て誠心誠意こころを尽くして謝ろう。大切な友人、尊い縁だから。
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例えば、上記したように些細な日常とも言える友人との喧嘩にもとても意味がある。ただし、お互いが意固地になったり、相手のことなどまるで気にも留めず侮辱したり非難したりするだけでは、意味が無いどころか人生にとって、とても重要なことを放棄していると言える。それは、思考停止した努力も探求も向上心もない堕落しきった人間の成れの果てだ。些細な喧嘩だが、我が身を振り返り反省し、悔やみ、相手の気持ちを想像して次に何をしなければならないのか。何をしたいのかという考えと行動に意味がある。まず、思考した時点で人はひとつ成長している。そして、実際に行動した時に確実に人間として輝きを得ている。
逆もまた然り、相手に酷い言葉を一方的に投げかけられた時、強く腹を立てることもあれば、酷く落ち込むこともある。ではその時、あるいはその後にいかに自分自身を励ましてやれるか、背中を押してやれるか。「なんであんなことを言うんだ」 と悲しむのか、「あの人はなぜあんな言葉を放ったのか、あの人にとってなにが不満だったのか、なにを求めていたのか」 と考えをめぐらしてみるのか。「ふざけたことを抜かしやがって、次会ったら半殺しにしてやる」と相手と同じ土俵に立つのか。どの思考も行動も本人がそれでいいなら、その人にとっては正解だろう。しかし、ひととして考えれば少々残念ではある。確かに相手と同じ立場になってみることも、相手の気持ちを汲んで隣に立とうとすることも意味のあることではある。が、自分のためにはしない方が良い。大切なのは、至極冷静に、そして時に冷淡であること。自分のことを誰よりも自分が律すること、支えることが必要だ。
悪口を浴びた時、「言いたいことは理解した。不満が溜まっていたことに、私にも原因があるなら今後は改めよう。しかし、侮辱するような言い方や、酷い言葉で意志を主張するのは稚拙すぎる」 とあくまでも冷静に、自らのこと、相手のことを考えた上で、無意味で必要のないことへの否定と、これから為さなければならない事を想像したり考えることが肝要である。 「」内の言葉は、発する必要は無い。自分がこのように、一度相手の言葉を飲み込んだ上で至極冷静に処理をする。そして、相手に対して投げかけているようで、自分に対しても諌めるように心の中で整理をすることで、補正ができるようになる。どんなときも客観的に状況把握をする力や、対処することの出来る考える力、想像力や自分自身をコントロールする力が養われるのだ。

あまり意識されてはいないが、自身を律すること、感情のコントロール、或いは他人を動かすためにはこれらのことがとても重要になる。そして、その先に信頼や実績という財産、なにより多くの良縁という宝物を手にすることができるのだ。


私は人生の「終点」とは、誰かに想われ、誰かに敬われ惜しまれながら、静かに、そして安らかに目を閉じて深い深い眠りにつくことだと思っている。その夢の中で、先に旅立った縁深い人々と笑顔で手を取り合うのだ。

7/30/2023, 7:51:59 AM

これはダメだ。酷い痛みと、行動を制限されるストレスに頭がおかしくなりそうになっている。冷やそうが温めようが、ありとあらゆる手段を用いても改善する気配が一向に見られないのも、またストレスだ。

一昨晩の夜、仕事を終えて家に帰ったのはもう遅い時間。シャワーを浴びて、翌日のお弁当を用意して、床に敷いたエアマットの上に腰を下ろした。試験へ向けて勉強中の教材を手に取り、内容を読み込む。気がつけば朝だった。時計を見やれば 「7/29 土曜日 4:25」の文字が見える。そうか、昨晩は気絶するように寝落ちしたのかもしれないと重い体を起こそうしたその時、乳頭筋から僧帽筋上部にかけて強い痛みを感じた。「寝違えたのか」、その時はそう思っただけだったが、時間が経つにつれてこの痛みが私を現実に引きずり込んでいく。二度寝など出来なかった。毎朝この時間に起きるというのに、休日まで早起きをせねばならないとは。私は休日には、六時に起きると決めている。流石に四時半では 早すぎるからだ。それにもかかわらず、この寝違えのせいで朝早くから苦痛に身を置くことになってしまったのだ。


いま、こうしてこんなことを口にしているあいだも、痛みが私を襲う。接骨院や整体、あらゆる文明の利器を用いた治療法などに頼る事が 懸命であったのかもしれないが、私にはそんな金銭的余裕がない。毎月、実家に相当な額を仕送りしている。私の小遣いは月に1万円も無い 。そんな私には、治療に赴くという事ができないのだ。冷凍庫から保冷剤を取りだしてタオルにくるんで患部を冷やす、そんなことくらいしか出来ない。もちろん、痛みはまるで 軽くもならない。明日からまた仕事だと言うのにどうすればいいのだ。現場監督のみであるから、職人さんのように動くことはそう多くは無いが、全く作業的なことをしないかと言えばそうでもない。盆前までにやらなければならないことがある。


なのに...

ということで、執筆出来ません。
お気に入りにご登録いただいている皆様、誠に申し訳ありません。

7/28/2023, 10:57:21 AM

明日明後日はお休み。

ということで、明日明後日の2日間は
当日のお題で、なにか文字を起こせたらいいな...
って思うよ!

7/23/2023, 12:52:12 AM

人は、様々な状況やタイミングで先を見すえ、或いは過去を振り返るものだ。それは近い将来、又は遠い未来をより豊かに、或いはより素晴らしいものとするためでたったりする。遠い目で物事を、その本質を見つめ気づきを得ることで自分なりのきっかけやヒントを得るのだ。今、この有様で良いのか、傍目にみてどのような人間性であろうかなどと過去を客観的、且つ冷静に振り返ることで自らの行いや振る舞い、言行を改めるきっかけを得るのだ。
誰しもが平等に、公平であるように私にも、貴方にも時間は有限で同じように流れている。日本のどこにいようと、アメリカやオーストラリア。インドやアフリカにいようと、一秒一秒が流れていく。川の流れのように静かに、或いは激しく流れ、通り過ぎていく。しかし、川はせき止めることが出来るが時の流れというのはどうにもできないのだ。だからこそ、悔やんだり惜しんだりするのだ。過ぎ行く時の中で、このたったの「一秒」を本気で気にする者はそう多くはない。この貴重な「時」を必死に生きているのは余命幾ばくであるか、スポーツ選手やレーサーや格闘家、或いは将棋の騎士など目の前の対戦相手と自分自身と闘っている者達、戦火に怯え暮らす者達、或いは常に努力精進し、這いつくばって疲労困憊した体に鞭打って、震える足で立ち上がろうとする者くらいだろう。こう語る私も、この言葉を並べている時まで刻まれていく一秒というほんの一瞬の時を、気にかけたことはない。この生を頂いて、無邪気に過ごした幼かった頃も、友人を救おうと奮闘した時も、私自身が人間不信に陥り人生を悲観した時も。自衛官として歩んでいくはずだった道が絶たれた時も、ひとり故郷を離れて宮城の街に移り住んだ時も、詐欺に遭い従業員に給料が払えなくなって、自分もご飯が食べられなくなったときも。生まれて初めて恋人ができた時、愛を育んだ時、喧嘩した時、別れた時。そのどんなときも、無情にも過ぎ行く時間を意識したことは無い。
なのに、ひとは過去を振り返る時というのは、より色濃く鮮明に思い浮かべようと意識をする。あの時はどうだっただろう、あの人の顔は、機嫌は、空の色は、何時頃だっただろう。遠い過去であればあるほどに、その過ぎ去った時の影を必死に追いかけ、掴もうとする。たくさんの記憶が、思い出がつまった引き出しを見つけようとするのに、それがなかなか見つけられない。この広い記憶の空間に数え切れないほどの引き出しが積み重なっている。そして、今こうしている間にも一つ、また一つと増えている。漠然とした記憶を辿ると、その記憶に繋がる影が果てしなく遠いところから伸びている。手に取り伝って行けば、無数に積み上がった数え切れない程の時間の欠片に(引き出し)たどり着く。その一つ一つには、名前も時期もなにも書いていない。逸る気持ちを抑え、力の限り引き出しを抜き取れば、セピア色に褪せたあの頃が目の前に広がる。しかし、探せど探せど、もう一度目に焼き付けたい記憶は見つからない。手探りで手当たり次第に、もどかしさや苛立ちさを募らせても見つからない。
ふと、手を止め諦めの吐息を漏らし足元を見遣れば細くか弱く伸びる光の糸。なんだろうと優しく指を当てなぞるように追いかける。そこには眩く光を放ち、懐かしい香りを纏った宝箱がひとつ。そっと近づいて、光が溢れ出す蓋を持ち上げれば胸が熱くなるのを感じる。込み上げてくるものを必死に抑え、覗き込めば探しに探した宝物が広がっていた。両手で掬いあげて、真っ暗な天に放てば、あの頃の時が動き出す。あの時の景色、あの人の笑顔、あの時感じたもの全てが優しく静かに流れ出す。音の無い少し傷ついた映画のテープを再生しているように、ところどころ霞んだり、ぼやけたり、穴が空いていたりするけれど、確かにこの目で見た景色、過ごした時間が、色を変えて目の前に映し出されている。


さて、今まさに流れる一秒を気にする者はいない。しかし、もう一度やり直すことの出来る能力など誰にもなく、すぎた時を巻き戻る術もまた誰にもない。だからこそ、すぎた時間を振り返る時、ほんの僅かな記憶に縋る他ないのだ。この僅かな記憶こそ、まるで気にも留めなかった、たったの「一秒」なのだ。その積み重ねが思い出であり、記憶である。今過ごしていると、何分、何時間、何日と意識こそすれ「何秒後に」などを本気で気にする人はそうはいない。何故ならば、私たちの生活とはこの時の積み重ねであり、それを見る時には「何日」や「何時間」といった大きな単位でしか見ないからだ。そうでは無い人も居るだろう、しかし多くの人はいちいち小さいことを気にしない。ところが、過去を振り返る時には稀もがより鮮明に思い出そうと、この時の散りばめられた欠片を必死でかき集めるのだ。遠にすぎてしまったかけがえのない「時間」、「記憶」、「思い出」、或いは自分自身の生きてきた「証」であったり、「実績 」を大きく手を伸ばして、力いっぱいに手のひらを広げて抱きしめる。そして、忘れていた大切な記憶を真新しい思い出として、引き出しではなく今度は宝箱にしまい込む。そして、思い出した記憶、客観的に見つめた自分の振る舞いや言葉の一つ一つを反省して、今また流れる時間に身を委ねるのだ。より良い今日、明日、将来、未来を歩むために。


私は、過去に戻れるならばと何度強く願っただろう。動機は様々だが、一貫して言えることは、現在未来を大きく変えることができるきっかけとなり得ることだ。だから、戻れるならば保育所の頃に戻りたい。

ただ、神様に無理を言おう。
この記憶、平凡ではあるがこの頭脳と思考性だけは持っていかせて欲しい。でなければ、戻る意味など皆無なのだ。

7/21/2023, 1:57:49 PM

心の余裕と時間の余裕が欲しいです、神様。


明日明後日はお休みになりましたので、今度こそ執筆したく存じます。

どうぞ、首という首を伸ばせるだけ伸ばして、
生暖かく見守って頂けますと幸いに存じます。


では、寝ます。

お腹減りました。

でも、寝ます。

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