-ゆずぽんず-

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7/13/2023, 12:15:23 PM

日曜日に執筆致します。

ここのところ残業続き、休日出勤と多忙でなかなかアプリを開くことが出来ていませんでした。

お気に入りに登録くださった皆様、どうかあたたかく見守っていただけますと幸いです。


よし、寝よう...

6/7/2023, 6:59:04 AM

過去の活動や、或いは言行には改めて思い返してみると当時とは全く違う考えや感情が生まれてくる。何故あの時あんな言葉を投げかけたのだろう、何故あの時あの様なことをしたのだろう。何故、何故と悔やむ心に潰されそうになることもある。人は、生き物は、過去には帰れないし変えられない。思い出として印象を操作してしまうか、悔やまれることも都合よく自己改変してしまうしか出来ないのだ。受け止めて今や、もっと先の未来へ繋げられるかどうかの重要な局面であるにもかかわらず、人はそれに気が付かないで無にしてしまうことも往々にある。見た目が如何にも反社会的な活動をしているような人が、話してみればとても気さくで面倒見が良い。しかし、蓋を開けてみれば反社会的勢力の一員だったという過去があった。しかし、それを知り不安や恐怖ではなく疑問が真っ先に浮かんでくる。何故こんなにも優しくあたたかいのか、人の揉め事を丁寧に仲裁できるのかと。聞けば、過去の自身の言行を恥じたからだという。振り返り、客観的に自己評価した時に悔恨の念や周囲への申し訳なさ、自身への情けなさを抱いたのだという。それまで受けてきた恩を誰に、どのように返せばいいのか分からなかったが、これから出会う人達に親切に丁寧に接していけばいい、恩返しができないならば恩送りをしていけばいいのだと思い至ったのだ。確かに、彼は反社会的勢力の一員だった事や過去の悪事を上書きしてしまうほど、紳士的で情が厚くまっすぐな人間だと改めて思う。
過去や過ごしてきた時間を惜しみ、悔やみ、嘆くことは誰にでも易しいが!これほど無駄なことは無い。そんなことに限りのある時間を割くのは勿体なく、合理性もない。振り返り、立ち返り、触れてみて考えてみて感じてみた時に抱いた気持ちが、今の自分自身の姿だ。そして、それを生かすも殺すも自分次第。浮かび上がって見えてきた素直な自分の心に寄り添うのか、いやいやこれは違うと突き放すのか。その選択が今、そして未来を決定づけてしまうと言っても過言では無い。考えること、感じることは易く、成すことは難い。これまで生きてきた中で無意識のうちに、自分の心や性根に根付いてしまったものが邪魔をするからだ。明日やろうは馬鹿野郎というが、事実として、先送りにしたとき人は実行力を無くす。重い腰をあげようと踏ん張る時、どれだけ意志を固く、歯を食いしばれるか、自分を鼓舞できるか、尻を叩くことができるのかが極めて重要だ。

あんな人のような人生が良かった。あんな風に生きていたい、生きていきたい。あの人はいても輝いていて凄い。羨ましい。妬ましい。
他人に対して様々な気持ちを寄せるのは至極当然の事だが、これほどのたくさんの気持ちや強い気持ち、或いは淡い気持ちを抱いているにもかかわらず何もしないのは何故か。憧れは手に届かない訳では無い。そうなりたい、ありたいと思えるということは、フォーカスはそこに向いているのだ。ならば、具体性を求めて行動に移せばいいだけだ。
羨ましいと思うとき、他人もまた誰かを、それこそ自分のことを羨んでいるかもしれない。羨むということは、自分にない魅力やスキルを相手に見ているからだろう。ならば努力をすればいい。英語が話せるなんて格好いいし、素敵だなと思うのなら学べばいい。肌が綺麗で羨ましいと思うのならば、自ら学びを得て実践していけばいい。
妬みや嫉みなどの気持ちを抱いた時、この気持ちを切り捨てることがとても大切なのだが、ひとはこれを簡単には出来ない。ではどうしたものかと、人はこの点を考えなければ気にも留めない。感情のままに他人を傷つけたり攻撃したりするだろう。怨恨の念とはいつの間にか人を支配し内側から壊していき、人格を大きくねじまげてしまう。故に、もしもこの感情に気がつくことが出来たなら早々に切り捨てなければならない。そして、妬みなどの禍々しいものでは無く、どうすればこんな気持ちを忘れられるのだろう、捨てられるのだろう。何がそうさせているのだろうかという点にフォーカスを向けなければならない。事情は様々でも、根底には自分と他人の境地や環境などの差があったりする。ならば、それらの差を如何にして埋めていくか。或いは別のことに置き換えるかという考えを巡らせていけばいい。但し、ここで最も重要なことは素直に正直になるということだ。見栄を張ることも、背伸びをすることも、例えば自分自身を見下したり卑下することもしてはいけない。鏡に映るありのままの自分に問いかけるように、まっすぐな想いをすくい上げることが大事だ。

6/5/2023, 1:09:45 PM

幼少の頃から、兄、党に長男の背中を追いかけて育ってきた。兄がすることを真似して、兄が発する言葉を真似しては兄に追いつこうとしていた。幼い頃はみな素直で、醜い感情など持ち合わせていなかった為、私がどれだけ兄と一緒に居ようが口を出す者はいなかった。しかし成長していくにつれ、私も兄弟たちも誰もが持つ醜い心を持つようになっていた。


兄(長男)がまだ幼い頃、つもり私がまだ三歳で妹が一歳になろうかと言う頃は、まだ父は健在だった。そんな父は兄だけを特に可愛がっていたそうだが、というのは私たちにはほとんど記憶がなく、母や姉から聞き及んだ話だ。母が私たちの世話におわれる中、父は長男の世話だけを見るだけで他は何もしなかったのだそうだ。そして、姉には冷たく当たっていたのだという。この時、姉は既に小学校へ通っていたのだが、家のことをすべてやらされ、姉が貯めていた駄賃もパチンコに浪費していたと聞く。姉の目の前で、冬季の貯金箱を叩き割って小銭を握りしめて家を出て言った時のショックは大きく、それまで耐えていた姉も遂に限界を迎えた。姉は母に言って、暫くの間は祖母の家で暮らしていたのだそうだ。そういう経緯から、成長するにつれ次男や妹に至るまでま長男に冷たく接するようになった。母や姉は端から毛嫌いをするようになっていたので、私が小学校に上がる頃には喧嘩が絶えなかった。次男や妹も、兄が一緒に遊ぼうとすると追い返したりものを投げつけたりしていた。
冒頭に触れたように、私は長男に憧れていた。いつも強く、優しく、どんなときも味方でいてくれた。そんな私も、偶に喧嘩をすることはあった。これは兄(長男)を嫌ってのことではなく、純粋に兄を連れていくと友達が嫌がるからだった。私が小学一年生の時、兄は小学四年生だったが、既に暴力沙汰を起こすような素行であった。学校の中で、兄や兄の友達(悪友)は恐怖でしか無かったし毛嫌いされていた。気に入らないことがあれば!相手が下級生だろうが女子だろうが、気にせず手を挙げていた。そんな素行の悪い兄を連れていけば友達はみな怖がって私を遠ざけるのだ。それが悔しく、悲しく、腹立たしかったから兄を追い出そうとしたのだ。 結局、友達はみな解散してしまい、私はひとりとぼとぼと帰宅をした。帰宅した私は包丁を手に兄を待った。兄のことが嫌いだった訳では無いが、その時は感情が高ぶってしまって暴走してしまったのだ。
何度殴られようが、喧嘩をしようが兄と私は気がつけば仲直りをしており、兄や兄の同級生と遊ぶ毎日をおくっていた。もちろん、私が友達と遊ぶ時には来ないでくれと口うるさく言っていたので兄も我慢してくれていた。そうやって育っていく中で、私と兄の関係は変わらず続いていた。ところが、他の兄弟や母はより一層、兄を嫌っていた。兄だけが除け者にされ、兄だけが冷たくあしらわれ、兄だけが我慢を強いられていた。甘えることも許されず、家族の温もりを感じられず、いつも孤独の中にいた。だからだろ、兄はどんどん不良へと進んでいったのだ。
中学を卒業した兄は、地元で有名な暴走族のメンバーと関わるようになった。中には暴力団の関係者もいた。私も兄に誘われて、兄や不良仲間とカラオケに行ったり遊んだりした。この時私は中学三年生だった。大人を、人を、誰も信用出来なくなっていた時、子供の時のように兄の背中が格好よく見えた。兄だけは私の話を聞いてくれた。私を励ましてくれた。私の手を取ってくれた。しかし、そんな兄が疎ましく思える時もあった。それは、母や次男に金をしつこく催促するからだ。遊ぶ金欲しさに、暴力で奪い取ったり、母と大喧嘩をして暴れたりと平穏が脅かされた時だ。この時ばかりは、兄貴や家族そのものを疎ましく思った。なぜ私はこの家族のもとに生まれてきたのか。神も仏もこの世には存在しないのだと、世の中を、人生を強く恨んだ。
しかし、素行の悪さの結果、兄が犯罪に手を染め逮捕され鑑別所に入った時も、少年院に入った時も兄の更生を強く望み強く願った。そして、そのためにできることを考えたのだ。家族の意識を変える必要があると。姉は既に嫁いでおり不在だったが、残る兄弟を何とか変える必要があった。そのために兄が入所している間に手紙のやり取りをしたり、兄の出所を祝おうとみんなで計画をしたりした。しかし、出所からひと月程しか継続できなかった。まず、母が元通りの接し方を始め、それに反発した兄に対して兄弟が加勢し始めたのだ。これ個繰り返しで、私は全てを恨み 、全てを憎んだ。もう、何も出来ない。変えられないのだと自分を悔やんだ。


だから、全員まとめて殺めてしまおうと思った。そして私もこの価値のない人生を終えようと思った。


思いとどまったのは、そんな中でも兄(長男)は変わらず私に優しく接してくれた。私を可愛がってくれた。私を 頼ってくれた からだ。
いま、兄がどこでどんな暮らしをしているのか知る由もない。母が疎遠にしたからだ。だが、必ず 何かしらの方法で 兄との 縁を取り戻すと私は 誓ったのだ 。あの日の自分に 。家族を終わらせ、自らの 命を終わらせようとしたことは、私の誰にも言えない深く思い 罪の記憶である。

6/5/2023, 4:14:24 AM

私は生まれながらにして、決して裕福とは言えない生活を送ってきた。母子家庭で父がおらず、親戚もほとんど疎遠していたことから、母は女手一つで頑張って私たち兄弟を育ててくれた。五人兄弟の私たちの育児は毎日が戦争のようだっただろう、長子の長女と次子の長男には5歳ほど歳の差がある。長男と次男の間にも三歳ほどの歳の差があり、次男と三男でいる私、そして次女で末っ子の妹は二歳の歳の差がある。これは、純粋に兄弟全員の生活スタイルや行動がバラバラであるから、母は小学生の長女や長男を送り出したあとは、残る兄弟を保育所へ連れていく。末っ子の妹がまだまだ幼いうちは、保育所へ預ける時間が違うため、一度帰宅してからまた保育所へ向かう。そんな目まぐるしい朝を過ごして
、母は仕事へ向かっていた。


実家は鉄筋コンクリート四階建ての市営住宅で、その二号館の四階角部屋に住んでいた。間取りは2Kだったと記憶しているが、6人で住んでいれば広いとは言えないような部屋だった。玄関から見て右手にトイレ、正面にアコーディオンカーテンで仕切っている六畳の和室。玄関左手に向くとほんの気持ち程度の廊下、そして廊下の先左手にキッチン。そして、キッチンの奥にお風呂場があり、廊下右手にもう一部屋の六畳の和室がある。このふたつの六畳の和室は真ん中の襖で仕切られているが普段は半分ほど開け放っていた。どちらの和室にも、なぜだか大量の衣類がハンガーに吊るされていたが最後まで誰も着用しなかった。家の中は日差しが余り入らないため、いつも暗くジメッとしていた。家族が大所帯ということもあり、基本的にものが溢れていることもそう感じさせる原因だったのだろう。
私が高学年に上がった頃、芸予地震に見舞われた。あれば私が交通事故に遭った翌日か翌々日だった。足をトラックに轢かれて怪我をおっていた私は学校を休んでいた。朝一番で病院に行き、医師に状態を確認してもらってから帰宅してすぐのこと。母がインスタントラーメンを作ってくれたので食べようと思った正にその瞬間。ズドンと響くような揺れがあり、そのあとは激しく左右に揺れ、食器棚は倒れ!タンスやその上に置いていた仏壇も床に転がっていた。揺れが納まった時にはあまりの恐怖と突然の事で鼓動が跳ねていたが、ふと足元を見るとラーメンどんぶりが転がっており、熱いスープや麺が包帯を巻いた右足を染めていた。アドレナリンが出ていなのか熱さや痛みを感じることは無かった。ただただ冷静に状況把握に務めていたように思う。玄関に行き、靴を履いて私の靴を手に持った母が私に靴を履かせるとおんぶをして外に出た。外に出て階段を降りると、住民のみんなも集まって恐怖の瞬間について話をしていた。私は住宅の外観を眺めながら、もう住めなくなるのかもしれないと考えていた。住宅の外観は酷く損壊していた。コンクリートが剥離し、所々に亀裂が生じていた。
私の交通事故、そして地震と不幸が相次いだが、その後は平穏が戻っていた。半年ほど経過した頃、市役所から立ち退きとそれに伴う新築の市営住宅への入居の優先権が与えられた。入居自体は決定していたが、部屋割りはくじ引きであったと母が話していたのを覚えている。私たち家族皆で、先の芸予地震などの経験もあり入居するなら一階になればいいなと話し合っていた。抽選の結果一階の角部屋に決まり、みんなで喜んだ。その後、小学生の長男以下の私たちが学校にいる間、母と中学生の姉の二人で転居先の下見に行っていたらしく、私たちが帰宅すると誰もおらず鍵も閉まっていた。帰ってきた母たちに不満を口にしながら、私たちも行きたいと駄々を捏ねた。どうせ引っ越すんだからと怒られたが諦めきれなく、次に家財道具などのレイアウトの確認に行く機会があると言うので連れて行って貰うことになった。
家族みんなで日産のバネットに乗り込んで転居式の市営住宅に向かった。これまで住んできたところから徒歩30分ほど、山手へ登ることになったが周りは山や田畑に囲まれておりとても静かで長閑な環境だった。小学校へは一時間ほど歩くことになるが、それでも新築の市営住宅にワクワクしていた。3LDKで、六畳の和室がふたつ。五帖の洋間がひとつ。リビングとダイニングは併せて十二帖。脱衣所には洗濯機と洗面台があり、その奥には広いお風呂場がある。私たち男兄弟が過ごすことになる和室は日差しがあまり入らないため暗かったが広い押し入れがあったり、これまでの部屋のように余計なものがないこともあり快適さを感じていた。廊下には狭いが収納がひとつあり、その横にトイレ。脱衣所にも床下収納が少しあった。
母と妹が共に過ごすことになるもうひとつの和室は、一間の窓があり日差しが降り注いでいた。姉は五帖の洋室をひとりで使うことになったようだが、ここも薄暗かった。しかし、家全体は明るく広々としており期待に胸が高鳴ったのを今でもよく覚えている。
引越してからは、学校への道のりが長かったが帰宅後は遊ぶ場所に困らなかった。山や川、小さな池やダムのようなところもあり、釣りや虫捕りで駆け回っていた。しかし、この時からだろうか少しづつ精神的な変化が始まっていた。理由は無いのにやる気や元気が落ち込んでしまう事が増えたのだ。そのタイミングで中学へ上がったが、イジメを苦に親友が転校してしまった。何度も何度も親友を庇った。同級生に理解を求め、担任に救いを求めたが無駄だった。親友を失った私は人間不信に陥り、投稿することが嫌になった。イジメを黙認し、助けを求める声を無視するような下衆な大人が教鞭をとるという違和感に我慢がならなくなった。
家族ぐるみで付き合いのある生徒指導の先生に事の経緯を話し、教室に上がらなくてもいいように、担任に会わなくてもいいようにと都合をつけてもらった。それからは相談室や保健室へ行き、みなが授業をしている間は私も同じ教科を勉強していた。しかし、そこへ担任がやってきて無理やり教室へ行かされたり、意味不明な叱責を受けるなどしたため午後から帰宅。夕方に生徒指導の先生が訪ねてきて、担任教師が余計なことをしたと聞いたと言うので私からも事情を説明した。翌日からは私は私のタイムテーブルで動いて良いということになり、登校時間をずらし、得意な科目に専念して勉強することになった。周囲が何を思い、何を考えているのか目線で察することがあったが無視をした。そんな私を心配して、仲の良かったクラスメートが毎日のように少しでも隙があれば顔を出しに来るようになった。男子女子に限らず、クラスの半分程の同級生がいつも話し相手になってくれた。家庭科でご飯を作った時は持ってきてくれたし、お菓子を作った時は女子が差し入れをしに来てくれた。


そんな生活をしていると自分を卑下し始めてしまうのか、活力がなくなり下を向くことが増えていた。そんな時、カウンセラーの先生が絵を描いてみるといい。ものを作ってみるといいというので取り組んでみた。私が書いた市営住宅の風景図やジェンガで作った神社のような建物を見たカウンセラーの先生は、これを写真撮影して興奮気味にどこかへ出かけてしまった。翌日、コンクルールへ出してみないかと美術部の顧問と私が席を置いている研究部の顧問とカウンセラーの先生が尋ねてきた。結果を言えば断った。気まぐれで書いた画法もめちゃくちゃな絵を評価されることに、恥ずかしさを感じたからだ。しかし、先生たちは諦めなかったのでコンクルールには出さないけど、どこかに飾るのは構わないと伝えるとその日の内に、美術部と研究部に貼りだされた。私の絵を見た部員やクラスメートが絵を描いて欲しいと尋ねてきたが、知識も技術もない私には出来ないと断ったが、気まぐれで描いた時でいいからその絵を提供して欲しいと言われたので以降は満足いくものだけをカウンセラーの先生を通じて提出していた。


私が過ごした生家はものに溢れ狭ぜまとしており、転居した新築の市営住宅も住み始めて2年ほどで狭く感じるようになった。これは単純な話だが、母は片付けや断捨離が出来ない人だからだ。明らかに不要な物も処分をしないし、とりあえずテーブルや床に物を置く。こういう性格の母と、私と姉以外の、そういったことを全く気にしない兄弟たちによって家中にものが溢れるようになったのだ。中学校では、私の所属していた研究部は他のどの部よりも狭かった。私が通っていた相談室はそこそこ広かったが、私が勉強のために借りていた相談室奥の部屋は激狭だった。私の人生、どこにいても環境をどれだけ変えても「狭い部屋 」という空間はついてまわった。だからだろうか、ものすごく広い部屋や空間に対するこだわりが強い。その癖して、広い部屋を借りてもロフトなどの狭い空間が備わった間取りを選んでしまう。そして、寝るのもそういう狭いところだ。相反する行動と気持ちは、きっと私が私自身を守るための潜在的なものなのかもしれない。広い空間で活動していたいのだけど、寝る時などパーソナルな空間は周囲を直ぐに把握出来る状況に置いておきたいのかもしれない。

私にとって「狭い空間」や「狭い部屋」といったものは、私の人格や人間性を形成、維持する上でとても重要なものなのかもしれない。そして、恐らくそれはこれまでの生活や経験から得てきた生き方なのだろう。

5/23/2023, 1:06:05 PM

「逃れられない呪縛」


時間のある時に投稿したく思いますので、メモを残しておきます。ん?この間のものも書いている途中では無いか。テーマも覚えていないので、なにか思いついたことを描きます。


私の投稿ばよんでける人がいるかどうか分からないですが、もし楽しみにされている方がいたらば、待っててけらい。すぐに書くはんでな!

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