-ゆずぽんず-

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私は生まれながらにして、決して裕福とは言えない生活を送ってきた。母子家庭で父がおらず、親戚もほとんど疎遠していたことから、母は女手一つで頑張って私たち兄弟を育ててくれた。五人兄弟の私たちの育児は毎日が戦争のようだっただろう、長子の長女と次子の長男には5歳ほど歳の差がある。長男と次男の間にも三歳ほどの歳の差があり、次男と三男でいる私、そして次女で末っ子の妹は二歳の歳の差がある。これは、純粋に兄弟全員の生活スタイルや行動がバラバラであるから、母は小学生の長女や長男を送り出したあとは、残る兄弟を保育所へ連れていく。末っ子の妹がまだまだ幼いうちは、保育所へ預ける時間が違うため、一度帰宅してからまた保育所へ向かう。そんな目まぐるしい朝を過ごして
、母は仕事へ向かっていた。


実家は鉄筋コンクリート四階建ての市営住宅で、その二号館の四階角部屋に住んでいた。間取りは2Kだったと記憶しているが、6人で住んでいれば広いとは言えないような部屋だった。玄関から見て右手にトイレ、正面にアコーディオンカーテンで仕切っている六畳の和室。玄関左手に向くとほんの気持ち程度の廊下、そして廊下の先左手にキッチン。そして、キッチンの奥にお風呂場があり、廊下右手にもう一部屋の六畳の和室がある。このふたつの六畳の和室は真ん中の襖で仕切られているが普段は半分ほど開け放っていた。どちらの和室にも、なぜだか大量の衣類がハンガーに吊るされていたが最後まで誰も着用しなかった。家の中は日差しが余り入らないため、いつも暗くジメッとしていた。家族が大所帯ということもあり、基本的にものが溢れていることもそう感じさせる原因だったのだろう。
私が高学年に上がった頃、芸予地震に見舞われた。あれば私が交通事故に遭った翌日か翌々日だった。足をトラックに轢かれて怪我をおっていた私は学校を休んでいた。朝一番で病院に行き、医師に状態を確認してもらってから帰宅してすぐのこと。母がインスタントラーメンを作ってくれたので食べようと思った正にその瞬間。ズドンと響くような揺れがあり、そのあとは激しく左右に揺れ、食器棚は倒れ!タンスやその上に置いていた仏壇も床に転がっていた。揺れが納まった時にはあまりの恐怖と突然の事で鼓動が跳ねていたが、ふと足元を見るとラーメンどんぶりが転がっており、熱いスープや麺が包帯を巻いた右足を染めていた。アドレナリンが出ていなのか熱さや痛みを感じることは無かった。ただただ冷静に状況把握に務めていたように思う。玄関に行き、靴を履いて私の靴を手に持った母が私に靴を履かせるとおんぶをして外に出た。外に出て階段を降りると、住民のみんなも集まって恐怖の瞬間について話をしていた。私は住宅の外観を眺めながら、もう住めなくなるのかもしれないと考えていた。住宅の外観は酷く損壊していた。コンクリートが剥離し、所々に亀裂が生じていた。
私の交通事故、そして地震と不幸が相次いだが、その後は平穏が戻っていた。半年ほど経過した頃、市役所から立ち退きとそれに伴う新築の市営住宅への入居の優先権が与えられた。入居自体は決定していたが、部屋割りはくじ引きであったと母が話していたのを覚えている。私たち家族皆で、先の芸予地震などの経験もあり入居するなら一階になればいいなと話し合っていた。抽選の結果一階の角部屋に決まり、みんなで喜んだ。その後、小学生の長男以下の私たちが学校にいる間、母と中学生の姉の二人で転居先の下見に行っていたらしく、私たちが帰宅すると誰もおらず鍵も閉まっていた。帰ってきた母たちに不満を口にしながら、私たちも行きたいと駄々を捏ねた。どうせ引っ越すんだからと怒られたが諦めきれなく、次に家財道具などのレイアウトの確認に行く機会があると言うので連れて行って貰うことになった。
家族みんなで日産のバネットに乗り込んで転居式の市営住宅に向かった。これまで住んできたところから徒歩30分ほど、山手へ登ることになったが周りは山や田畑に囲まれておりとても静かで長閑な環境だった。小学校へは一時間ほど歩くことになるが、それでも新築の市営住宅にワクワクしていた。3LDKで、六畳の和室がふたつ。五帖の洋間がひとつ。リビングとダイニングは併せて十二帖。脱衣所には洗濯機と洗面台があり、その奥には広いお風呂場がある。私たち男兄弟が過ごすことになる和室は日差しがあまり入らないため暗かったが広い押し入れがあったり、これまでの部屋のように余計なものがないこともあり快適さを感じていた。廊下には狭いが収納がひとつあり、その横にトイレ。脱衣所にも床下収納が少しあった。
母と妹が共に過ごすことになるもうひとつの和室は、一間の窓があり日差しが降り注いでいた。姉は五帖の洋室をひとりで使うことになったようだが、ここも薄暗かった。しかし、家全体は明るく広々としており期待に胸が高鳴ったのを今でもよく覚えている。
引越してからは、学校への道のりが長かったが帰宅後は遊ぶ場所に困らなかった。山や川、小さな池やダムのようなところもあり、釣りや虫捕りで駆け回っていた。しかし、この時からだろうか少しづつ精神的な変化が始まっていた。理由は無いのにやる気や元気が落ち込んでしまう事が増えたのだ。そのタイミングで中学へ上がったが、イジメを苦に親友が転校してしまった。何度も何度も親友を庇った。同級生に理解を求め、担任に救いを求めたが無駄だった。親友を失った私は人間不信に陥り、投稿することが嫌になった。イジメを黙認し、助けを求める声を無視するような下衆な大人が教鞭をとるという違和感に我慢がならなくなった。
家族ぐるみで付き合いのある生徒指導の先生に事の経緯を話し、教室に上がらなくてもいいように、担任に会わなくてもいいようにと都合をつけてもらった。それからは相談室や保健室へ行き、みなが授業をしている間は私も同じ教科を勉強していた。しかし、そこへ担任がやってきて無理やり教室へ行かされたり、意味不明な叱責を受けるなどしたため午後から帰宅。夕方に生徒指導の先生が訪ねてきて、担任教師が余計なことをしたと聞いたと言うので私からも事情を説明した。翌日からは私は私のタイムテーブルで動いて良いということになり、登校時間をずらし、得意な科目に専念して勉強することになった。周囲が何を思い、何を考えているのか目線で察することがあったが無視をした。そんな私を心配して、仲の良かったクラスメートが毎日のように少しでも隙があれば顔を出しに来るようになった。男子女子に限らず、クラスの半分程の同級生がいつも話し相手になってくれた。家庭科でご飯を作った時は持ってきてくれたし、お菓子を作った時は女子が差し入れをしに来てくれた。


そんな生活をしていると自分を卑下し始めてしまうのか、活力がなくなり下を向くことが増えていた。そんな時、カウンセラーの先生が絵を描いてみるといい。ものを作ってみるといいというので取り組んでみた。私が書いた市営住宅の風景図やジェンガで作った神社のような建物を見たカウンセラーの先生は、これを写真撮影して興奮気味にどこかへ出かけてしまった。翌日、コンクルールへ出してみないかと美術部の顧問と私が席を置いている研究部の顧問とカウンセラーの先生が尋ねてきた。結果を言えば断った。気まぐれで書いた画法もめちゃくちゃな絵を評価されることに、恥ずかしさを感じたからだ。しかし、先生たちは諦めなかったのでコンクルールには出さないけど、どこかに飾るのは構わないと伝えるとその日の内に、美術部と研究部に貼りだされた。私の絵を見た部員やクラスメートが絵を描いて欲しいと尋ねてきたが、知識も技術もない私には出来ないと断ったが、気まぐれで描いた時でいいからその絵を提供して欲しいと言われたので以降は満足いくものだけをカウンセラーの先生を通じて提出していた。


私が過ごした生家はものに溢れ狭ぜまとしており、転居した新築の市営住宅も住み始めて2年ほどで狭く感じるようになった。これは単純な話だが、母は片付けや断捨離が出来ない人だからだ。明らかに不要な物も処分をしないし、とりあえずテーブルや床に物を置く。こういう性格の母と、私と姉以外の、そういったことを全く気にしない兄弟たちによって家中にものが溢れるようになったのだ。中学校では、私の所属していた研究部は他のどの部よりも狭かった。私が通っていた相談室はそこそこ広かったが、私が勉強のために借りていた相談室奥の部屋は激狭だった。私の人生、どこにいても環境をどれだけ変えても「狭い部屋 」という空間はついてまわった。だからだろうか、ものすごく広い部屋や空間に対するこだわりが強い。その癖して、広い部屋を借りてもロフトなどの狭い空間が備わった間取りを選んでしまう。そして、寝るのもそういう狭いところだ。相反する行動と気持ちは、きっと私が私自身を守るための潜在的なものなのかもしれない。広い空間で活動していたいのだけど、寝る時などパーソナルな空間は周囲を直ぐに把握出来る状況に置いておきたいのかもしれない。

私にとって「狭い空間」や「狭い部屋」といったものは、私の人格や人間性を形成、維持する上でとても重要なものなのかもしれない。そして、恐らくそれはこれまでの生活や経験から得てきた生き方なのだろう。

6/5/2023, 4:14:24 AM