私は子供の頃か四十五歳前後でこの世を去る、そうした漠然としたものが胸の中にある。それは私が子供ながらにして、人生を悲観したからでも生きることを放棄したからでもない。何故か分からないが、そのようなものを感じていた。
私は十八歳の頃に親元を離れ、遠く仙台に移り住んだ。親元を離れたいとか、地元から逃げ出したいとか、そういった理由ではなく自立するためだ。しかし、私を待ち受けていたのは過酷な環境だった。もともと極道に関わっていた人間が営む会社で、仕事でミスをすれざ帰社後に皆の前で落とし前を付けさせられた。毎日のように私や同僚の誰かが殴られ蹴られ激しく責め立てられた。給料など貰えず、全てが現物支給で、本業の仕事がない時は派遣の仕事に行かされた。引越しや家具配送組み立て、家電配送設置に交通量調査も経験した。引越しや家具配送組み立ての企業には入社しないかとお声も頂くほど勤務していた。同世代の人間が仙台の街で楽しく遊んでいるのを見ては、羨ましさと恨めしさを募らせた。
そんな環境の中で、順応していくには自分を捨てることが必要だった。今までの自分を捨てて、無理やり新しい自分になる必要があった為、もがき続けた。結果として、驚くほど自分を変えることが出来た。だが、大切な何かも同時に失ってしまったように思うのだ。その後は退職できる環境では無いため、知人を頼って高飛びをした。ところが、こうした因果というのは付きまとうもので、この知人も極道絡みだったのだ。シャブ漬けで危険極まりない人間だった。普段は優しく、シャブが効いている間は仏のようだった。しかし、切れ目は人間性が豹変した。いつ何があるか分からない状況の中で、また知人を頼ることになった。その知人もまた極道絡みの人間だった。結局、他力本願で自分で何もしようとしないでことに臨めば因果は巡って来るものなのだと痛感した。
結局のところ、自分の時間を過ごすことが出来ないうちに若い時間は流れていってしまったのだ。いまは地元にいるが、当時の暮らしとはギャップが大きい為に未だに順応できているのか分からない時があると感じる。そして、何をしたいのかもハッキリ見えてこない。ただ、将来のことを考えたり昔から挑戦したかったことなどを思い浮かべてみて何となく求めていることがわかった気がした。私は転職を機に四月から新たな一歩を踏み出すが、これは模索してきた中で見つけた答えに近いものなのかもしれない。だからこそ、動いてみようと思ったのだ。不安が大きく、それでいて期待や希望も膨らんでいる。どうしようもなく途方に暮れてしまいそうな時を過ごしてきたが、それが無駄ではなかったと自分のために証明することも今度の転職の目的のひとつだ。人生というのは、タイミング(機会や時期)というのがとても大切だ。逃してしまえば二度と訪れないかもしれない。いやはや、後々になってもう一度訪れるやもしれない。これが分からないからこそ、何時でも自分を動かしてやれる状態を作っていなければならない。どんな厳しい状況にあろうとも、何とかしようと思えばどうとでもなるものだ。為せば成るのだ。その思いを強く持って、いつでも自分を活かせるように、高められるように準備しておかなければならない。否、その方が断然いい。これは実践してみれば強く実感するだろう。私はそうであったが、ひとによるところは大きい。しかし、何も意識をしないだむざむざと一日一日を惰性で過ごしていては無駄の極みであろう。ほんの少しの意識が、自分自身の財産に繋がる、財産とは人間性そのものだ。
私は、何となく感じている四十五歳前後での人生の幕引きをいつも考えている。残りわずかとも思えるし、まだ十分とも思える。しかし、いずれにしたってひとは最期を迎える。その時に何を成し遂げてきたかが、重要であると考えている。最期の時がどんな状況なのかは分からない、ベッドや布団の上で人生を回想するのかもしれない。もしかしたら事故や急病などで、そんな暇なくこの肉体に別れを告げるかもしれない。だが、きっとその後で人生というタイトルの長いようで短いドキュメンタリー映画を観ながら公開するかもしれないし、よく頑張ったと自分で自分を褒めるかもしれない。この世を去る時には、この世の全てと決別をすることになる。あの世に金は持っていけやしないし、趣味の釣りで愛用している釣竿も置いていかなければならない。だが、過ごしてきた人生の記憶は持っていくことが出来る。むしろ、それくらいしか持っていけないのだ。だから重要なのだ。尊いのだ。
つまるところ、この世を去る時になって自分の人生を悲観することなく「大したもんだ」と自画自賛することが出来れば人生のハッピーエンドと言えるだろう。
もう少し、あと少しの辛抱なのだ。
大好きな文字書きが出来ず悶々としていたが、その憂いも心痛もあと幾日と待てば全て晴れるのだ。
先月の下旬から十五連勤を二度繰り返したが、それも今日で終わった。明日は所用の為に、恐らくは時間が取れないだろう。しかし、明後日より執筆の時間くらいは確保できるだろう。
ひとは生まれながらにして、自分にしかないものを得ている。それは身体的なものであったり、自信を取り巻く環境的要素であったりと様々だ。しかし、多くのひとはその事実を自覚しないまま過ごしている。そして、私もまたそのひとりだった。例えば、生まれながらにして学習能力が驚く程に高いなどの特殊な能力が備わっているひと。例えば、とても愛くるしく誰からも愛される顔立ちのひと。例えば頭の回転が早く、想像力や観察力に長けているひと。もちろん、多くの人がこれといった特技や能力などなく平凡に育っていく。否、自分にしかないものを自覚しないままに自ら平々凡々と暮らしているのだ。
私は母子家庭に生まれた。正確に言えば、極道の父と昔はレディースをしていた血の気の多い母の元に生まれた。母は子供の頃はやんちゃをしていたが、社会に出てから変わったという。父のことはよく分からない。なぜ母が極道の父と出会い、結婚をしたのかは分からない。母が父について多くを語らないからだ。そんな父は私が三歳の時に不摂生が祟り、急逝した。以前の記事でも触れたが、私の父は長男である兄だけを特に可愛がっていた。私たち他の兄弟というのは、長男と同じように可愛がられた記憶がほぼないのだ。そんな中にあって、父が居なくなっても私たち幼い子供にとって悲しみもなく現実に変化を感じることは無かった。母は父がいてもいなくても苦労していた。私たちを保育所に預けると、仕事に出かけていた。夜の九時ころに迎えに来ては、先生や所長にお礼と挨拶をした家に帰り、夕飯を支度して私たちの面倒に追われる。今思えば、あのころの母には自分の時間などなく休む暇さえ無かったのだ。朝早くに起床して、私たち五人の子供に朝食を作る。起こして身支度をさせて、食事を与え、片付けをして私たちを保育所に届ける。小学生の長女や長男は歩いて登校。子供たちを見送ると、その足で母は仕事へ。と言っても、私が まだ幼稚園で言うところの年中のころは母は車を持っていなかったので自転車で活動していた。さぞ大変だったであろう。仕事を終えると、疲れきった身体に鞭打って私たちを迎えに来る。年長の頃、いつものように迎えに来た母が大きな車に乗って現れた時は兄弟みな大はしゃぎだった。そう、車種は確かに日産のバネットワゴンだ。あと時のことは今でも鮮明に覚えている。
私は生まれた時から視力が低く、分厚い眼鏡をかけていなければものをハッキリと見ることが出来なかった。昔の校長先生のような四角いメガネだ。レンズは牛乳瓶の底のように分厚いため、とても重く見栄えも悪かった。だが、これをかけていなければ周りの子達と同じように過ごすことができなかった。当時の目医者には、一生をかけてメガネが手放せないだろうと言われていたという。左目は調節性内斜視といって、ものを見る際にピントを合わせようとすると左目だけ極度の寄り目になる。右目が頼りとなる為に左目の視力は極端に低く、メガネはこうした症状の矯正の目的もあった。周囲にバカにされることは無かったが、度々嫌になっては大泣きをしていた。小学生の頃には、なぜこんな目を持って生まれてきたのかと塞ぎ込んだこともあった。身長は低く、体も弱い。幼く中性的な見た目から、女の子に間違われたり、幼稚園児と勘違いをされることもあった。地元の祭りでわんぱく相撲に出場した際は、女の子として紹介されて恥をかいたこともあった。
同級生や周囲の子は、新作のゲームが発売されればすぐに持ち寄って遊んでいた。遊ぶ時は、皆お菓子やジュースを親に持たされていた。私たち兄弟にはそんなものはなかった。角砂糖をポッケに入れて遊びに行ったり、野草をとっておやつ代わりに食べたりしていた。クリスマスには貰ったものを自慢している友達を羨んだりもした。みんなにあって、私に、私たち兄弟家族にはないものを意識し始めてからは他人と比較をすることが癖になっていた。そんなことをしては憂鬱になったり、全てにやるせなさを感じたりして涙を流すこともあった。しかし、友達や周囲のひとたちはあたたかく、そして優しかった。持ち寄ったお菓子やジュースを分けてくれて、角砂糖を美味しいと言って食べてくれた。ゲームやおもちゃも貸してくれたし、どんなときも仲間外れにしないで一緒にいてくれた。そんな温もりが私の心を救ってくれていた。そして、感謝というものを子供ながらに身につけることが出来ていた。
可愛らしい泣きぼくろも笑窪もないけれど、私には他人を思いやる素直な心と敬う心がある。父はいないし裕福ではなかったけど、母や姉、兄弟がいつもいた。喧嘩ばかりするけれど仲良く遊び回った兄弟がいた。いつも笑顔で話しかけてくれて、お菓子を分けてくれる近所のおばちゃん達がいた。どんなときも和に引き入れてくれる友達がいた。幼い見た目から、たくさんの「かわいい」を貰った。年齢制限のブレゼントををいつも手にしていた。父の存在を望んだところで叶うことは無いが、父がいない環境で家族の絆を固くすることが出来た。裕福でないためにプレゼントなどは余りもらえなかったが、たくさんの愛に恵まれた。
ないものをねだればキリがなく、憂鬱と気分も下がる。しかし、今あるものや既に得てきたものなどに目を向けてみれば考え方や物事の見え方は大きく変わる。本当に必要なこと、不必要なものが目に見えてわかるようになる。感謝や敬いの心に気付くことが出来るようになる。物事を強請るというのは、実に簡単で誰にでもできる。しかし、いま目の前にあるものの価値を見いだし生かすも殺すも自分次第だ。そして、それは強請る以上に難しいのだ。なぜならそこに気づくことが出来ないからだ。灯台下暗しというが、身近なところでもそうなのだ。ひとは今ある環境に目を向けることをしないし、なかなか簡単にできないのだ。隣の畑は青々と見えるが、そこばかりが気になってしまってしまう。だが、悶々としたり気が落ち込んでしまったときこそ自分自身のことに目を向けてみるといい。ただ俯瞰するのではなく、成り立ちや結果といったものや在り方というものを深堀してみることで気がつけなかった物事が、鮮明に見えて来るようになる。
ひとは今あるものの価値を見出せないでいる時ほど、他人に影響されやすく、必要でないものさえも欲しくなるのだ。
何かを 強請る時、なにかがよく見える時こそ思い出して欲しい、自分や身の回りにある価値を。私はそこに気づくことが出来たとき、自分を好きになった。愛することが出来た。そして受け入れて、ありのままの自分を磨くことが出来ている。
今も忘れることの出来ない人がいる。そのひとは私にとってかけがえのない存在だった。いや、そう気づいたのは彼と笑顔を交わすことが出来なくなってからだ。毎日のようにたわいない事で面白おかしく笑いあって、じゃれあっていた。イタズラをしたり、イタズラにイタズラで返されては互いに考えつく限りを尽くしていた。喧嘩も一度くらいはしただろうか。遊んでいる時に些細なことで口喧嘩をして、彼と別れ家路につく。途中で、酷いことを言ってしまった。悲しませただろうか、傷付いただろうか、泣かせてしまっていないかと胸が張り裂けそうになった。家に帰ってから後悔をして、反省をした。翌日の教室でどちらが謝るのが早いか、「昨日はごめんね。また遊ぼ」と声を掛け合った。いつものように彼の家まで、テレビ番組の話やアニメの話に盛り上がり笑い合いながら歩いた。
彼の家では、彼や彼のお兄ちゃんやその友達とゲームをしたりアニメを見たりして遊んだ。おやつを食べながらみんなで楽しい時間を過ごした。トイレに立った彼を驚かせたくて、トイレのドアを思いっきり開いくと最初は慌てていた彼も顔を真っ赤にして怒っていた。謝ると恥ずかしそうに「もう!だめだよ!」と許してくれた。学年の中でも小さい私よりも、さらに小柄な彼はいつも優しくて笑顔だった。そして、そんな彼の周りにも笑顔が満ち満ちていた。お日様の様な、春になると世界を彩るさくらや梅、菜の花のように私たちにとって彼はかけがえのない存在だった。
夏休み明けの初登校日の教室、彼の机の上の花瓶。担任の先生が涙をこらえて告げた、彼とのお別れの言葉。セミの騒がしい合唱が、開け放っている窓から生暖かい風と共に流れ込んで彼の机で静かに開いている花弁をそっと揺らした。彼がさようならと言っているような気がした。当時は命の終わりなど分からなかった。そういうことに知恵がついたのはまだだいぶあとの事だった。彼を失ってすぐは実感などなかったし、悲しみもなかった。ただ、彼が旅立つ前に具合を悪くしていたことを知った時に綴った手紙を渡しそびれたこと。「大好きだよ。これからもなかよえしようね。早く元気になってね」などと思いを込めた手紙を届けられなかったことが悔しくて仕方がなかった。もしもあの時、家に届けていれば。ポストが見つけられなくて、玄関の扉に挟もうとして躊躇をした。もしも、挟んでいれば。彼に届いていたら、彼は最期を前にして私の気持ちを受け取ってくれていたかもしれない。彼を失ったことよりも、大好きな彼に最後に会うことが出来なかった寂しさや、彼の寂しさを思って後悔した。
彼が天国に旅立って、命というものを理解したのは随分と年月が経ったあとの事だった。そして、今一番彼のことを想っている。こうして思い出して想いを綴っている今、涙が溢れて文字を入力できない。画面がぼやけて、文字が見えない。涙が画面を濡らして正常に入力できない。彼を思い出して、寂しくて悔しくて胸が張り裂けなくらい苦しくて書き進められない。
命の重みや尊さ、切なさや儚さを理解した時、私は初めて彼の死を理解出来たような気がした。そして、漠然としていた彼との別れを強く鮮明に自覚した。もう会う事はできず、直接お話することも笑い合うことも出来ないと悟った。そして、彼への自分の思いを知った。大好きだったんだ。
彼は私にとって特別で、かけがえのないたった1人の大好きな人だった。
連勤と休憩を取らない生活を続け、ワークアウトを疎かにしていたことで筋力が低下している。やっとの休みで久しぶりにホームワークで胸トレと背中トレをしたが、明らかに胸の筋肉や筋力、神経系が衰えていることを感じた。扱える重量が著しく低下している。背中は衰えを感じないが、胸は生活の中で使うことがほとんどない部位だからか驚くほど貧弱になっていた。先般、早上がりができた事で久しぶりに腕トレをしたのだが腕の衰えはまるで感じなかった。
食事についても、手を抜いており、酒も沢山飲んで来たことで自慢の腹にも要らぬ脂肪が乗ってしまった。ただでさえ身長が低い私だ、筋肉が着いていることでずんぐりむっくりしているのに脂肪のせいでだらしない身体に見える。もちろん、私の体を面白がって触った人間は筋肉量や腹筋の硬さに驚き、褒めてくれるが端からみれば肉だるまだ。しかし、長い連勤生活も終わりだ。4月から転職して新たな仕事に就くことになり、土日休みで時間もしっかりと取れるようになる。これを機に、ホームワークに加えて24時間ジムでのワークアウトも取り入れ、マクロ計算をした食事制限で再び自慢の体を取り戻そう。割と中性的な顔立ちで、ムッキムキのゴリゴリな身体というのは実にギャップ萌えを狙えるのではないだろうか。私の理想は、すれ違った時に「すげぇや。あの人デカいな」と思って貰えるような身体になる事だ。人目見た時に、素敵だと思えるような身体になることだ。よりでかく美しく、それでいて萌える身体になることなのだ。
なぜ、そんなに鍛えるのか。そんなに筋肉筋肉と叫ぶのか。
だって、バカみたいじゃないか。
平均身長に届かず、骨も太くはないこの体躯。一度の人生、追い込むのも、磨くのも、愛するのも愛でるのも自分が一番にできることなのだから。
さて、私はどのようなトレーニングを取り入れているのかについて触れておきたい。私は三分割法で週に六回、つまり部位辺り週に二回のトレーニングをしている。レップ数やセット数は狙いによって帰ることはあるが、レスト(インターバル)は基本的には二分をベースにしている。こちらもメソッドで変更をすることはもちろんある。ジャイアントセットで追い込む時は3分程度の休息をとるが、スーパーセットやトライセットでは二分程度だ。通常セットだが、ジャーマンボリュームなどの長時間高負荷を与える時はもう少し休むこともある。例えば、今日は胸トレと背中トレの日だ。朝一発目から既にワークアウトをしたので、今はリラックスタイムを満喫している。話を戻そう。まずは、簡単に今日のワークアウトを書き出してみよう。
1 BP/BOR(H / L) 1のみ 6~10reps 6set
2 IP /HDL 各種S SET rest2min
3 DR/SS 6~10reps 3set
以上が本日行ったメニューであるが、気力があれば夕方にダブルスプリットを行おうと考えている。とはいえ、ボリューミーなワークアウトをしたので夕方に行うとしても、30分程度のボリュームになるだろう。さらに欲を言えば、先般の腕トレでは4日間も酷い筋肉痛が長引いたことでワークアウトスケジュールがずれ込んだので、胸背中のダブルスプリットの後に腕トレをしたいと思っている。ワークアウトドリンクは、マルトデキストリンがないので、アクエリアスを元にBCAAとEAA、クレアチンをシェイクして摂取している。グルタミンやシトルリンマレートも欲しいところだが、今は切らしてしまっている。食事については4月からは今般購入した圧力調理器に低温調理機能も付いているということで、コンフィや鶏ハムなどを取り入れていこうと計画している。さらに飽きのこない様なレシピも考えていかなければならない。マクロだけでなく、栄養素を意識した食事作りと、休息と運動をバランスよく計画してメリハリを効かせたワークアウトを心がけていこうと思う。
因みに、私のこれまでの記事を読んで読者の皆様は私の年齢を想像したことがあるかもしれない。いや、無いかもしれない。想像にお任せしたいところであるが、まだまだ若い方だと勝手に思い込んでいる。結婚をするには程よい頃合かやや遅いか。しかし恋愛はしたいお年頃でもある。こんな私に興味を持ってくれた方はぜひ私のことを愛して欲しい。男女ともに歓迎だ。なにぶん惚れやすい性格、正確には懐きやすい性格であるため男女問わず優しさに触れるとかなり懐く。一途でやや独占欲が強い寂しがり屋の筋肉バカだ。こんな私でよければ貰って欲しい。料理も家事もできて、筋トレもできる。実に素晴らしい物件だ。
さて、冗談はさておこう。いま、もしも悩みを抱えている方がいるなら一度忘れてみてほしい。もちろん、簡単なことではないだろう。であれば、私の記事をぜひ読んで見てほしい。すると、いま抱える悩みやストレスなどバカバカしく思えるかもしれない。少しでも心が軽くなるかもしれない。私はそう願っているし、そうあることを望んでいる。
だってバカみたいではないか。一度きりの人生のわずかな時間の中でさえ、辛く悲しく苦しい思いをするなんて、そんな寂しいことはない。今回の記事で、私が皆様にとってどうでもいい筋トレの話題を盛り込んだのは、くだらない話に一人で盛り上がっている私の姿を見せるためだ。いい歳こいて独身の男が筋肉について興奮気味に語るのだ。こんなに下らなくておかしいことは無いだろう。私は、このアプリではただただ意味無く文字を連ねることを避けている。伝えたいこと、感じて欲しいこと。届けたいこと、意識して欲しいことを考えている。どうすればこの思いが届くだろう。どうすれば想像してもらえるだろうということを考えながら、ひたすらに文字を綴っている。そして、ときにはこんな馬鹿みたいなことを書いてみたりもする。それでいい、人生なんてそんなものでいいのだ。
これを読んで、「あぁ、なんかバカみたい」
と思って貰えたら本望だ。