-ゆずぽんず-

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3/13/2023, 11:10:22 AM

「ずっと隣で」


後日に執筆するため、お題を残しておきます。


只今絶賛連勤中の為、
余裕がないために書けません!
ごめんあそばせ!

3/9/2023, 9:19:57 AM

「富」や「名声」などというのは誰もが昔から掴もうとしてきたものだが、これというのは言うほど大それたものでは無い。「富」とは莫大な資産のことを指すのだろう。「名声」とは誰にでも広く名が伝わることを指すのだろう。しかしだ、このどちらも現代社会においてはなかなか違和感のある響きだ。

その日その日を食いつなぐため、ただひたすらに仕事に励むひともあれば、パチンコなどの遊戯や競馬などの勝負事を楽しむために働くひともいる。かと思えば、老後や万に一つの病気や怪我に備えて貯蓄をする人もいる。資産形成をすることで財産を残すもひともあれば、子や孫の先長い未来のために備えるひともいる。起業して大きく成長させて、大きな財産を獲得することもあれば運がいいか、宝くじや勝負事で大きな金を掴むこともある。いずれにしてもそれは滅多なことではない。誰にでも可能性はあるが、その可能性の先にある運や縁を掴むことが出来るかどうかで結果は左右される。片や、背負わされた借金で困窮することもあれば、自堕落な結果として空に困ることもある。
昨今の物価高止まりや低賃金などで、稼ぐことも財産を蓄えることも難易度が上がったと感じる者は少なくはないだろう。賃上げ政策などは、蓋を開けてみれば企業努力という中々に難しく首を締め上げることで却って経済を不安定化させている。この時世にあって、節約や倹約こそすれ、貯蓄を継続していくのは難儀だ。子育てをしている世帯を始め、毎月途方もない資財を費やす環境下で家族を守るのが精一杯という状況のひとも多いだろう。私の母は肝臓癌を患い、治療に伴う出費が大きい。その負担は兄弟などで持ち合うが、私の兄弟はまともに働いていない為に私だけが毎月のように金策に頭を悩ませている。
冒頭に述べたことだが、「富と名声」はだいそれたことでは無いということについて。これは、この時制にあってほとんどの国民が食うに必死だ。だからその日その日で生きられるだけの金を左傾でいるだけで素晴らしいし、とてもありがたいことなのだ。病気や事故で、働きたくても働けない人達もできる限りのことで生きている。辛いことや身体的な要因から働きたくても働けない人たち。それでも、どうして生きようと模索をしている。片や、健康で何ら不自由の無い体をもっていても怠けて動かない人間もいる。守るべき家族や大切な人がいて、自分のことだけを考えて怠けて現実から目を背ける人間もいる。
今というのは、正に生きていく事が実に難儀だ。今日一日を無事に過ごし、ご飯を食べて暖かい布団で眠ることが出来れば、これぞこの苦境の中にあって「富」と言えるのではないだろうか。大金があれば困ることは無いだろう、苦しむこともないだろう。使い方や人や財産との付き合い方で、その価値観や環境というのは確かに変わる。しかし、平々凡々とした生活を崩さなければその大金で頭を悩ませることもないだろう。しかし、現代において目の前の今日明日を生きる金が何よりもの富と言えるのではないだろうか。

では、「名声」とはなんだろうか。これは歌手や俳優、スポーツ選手や作家や画家といった著名な人間のそれを指すのだろう。顔と名前が頭に浮かび一致し、それは不特定多数で、世代によらず国によらず多様な人や場所で知られる存在。しかし、これらも誰にでも同じように可能性はある。勝敗や未来というのは同じように開けている。開けては居るが、運や縁、環境や状況で掴めるかどうか道は別れる。
しかしながら、これも「富」同様だろう。SNSが明るい時代である現在の世の中では、様々なフィールドやツールが存在している。【YouTube】や【Instagram】、【Twitter】や【TikTok】など様々な環境が一個人が個人という「商品」を世界に発信できる。例えば、Twitterでは、私の相互フォロワー様のなかに絵師をされている方がいる。この方は最初はフォロワー数も二桁程度で、「いいね」の数もわずかだった。それが、二年経った今ではフォロワー数も「いいね」の数も万を超える。毎月のように何件も依頼を受けては活動している。親しくしていただいているが、気がついた時には雲の上の人になっていた。
様々な特技や趣味、あるいはスタイルなどで如何に自分という「個」を商材として扱えるか。そして、売り出していくか。もともと素晴らしい記述や才能の持ち主は昔から多くいたが、それを表に出すことが中々に難しかった。それが今では、「SNS」という宣伝ツールで発信をすることができる。もちろん、誰にでも様々なものを発信することは出来るが、結局のところは熱意や努力。探究心や向上心といった人一倍の気概が重要であることは言うまでもない。つまるところ「名声」というのは、実はそんなに遠い存在ではない。身近なことでいえば、勤務先で「仕事が出来る人」や「センスある」などの評判というのもひとつの名声だと言える。これが他の職場や環境などで吹聴されることで、知らぬところで自分自身の価値が高くなっている。私自身もそう感じているが、これをどう捉えるか次第だ。そんなものではダメなのだ! と否定して投げやるのか伸ばすのか、気持ち次第で財産にするも捨てるもできる。


しかしながら、そんな「金や呼ぶ声」よりも重要なものかがある。自分自身を思いやり、労い褒めたたえる心。誰かを想い、慈しむ心。ざっくり言えば愛情というものが人間には重要なのだ。愛する人おらずとも、自分が自分を案じてやる、想ってやることくらいできるだろう。否、出来なければならない。それをないがしろにした時、自らが自らの価値を捨て、苦しめ打ちのめすことになる。
長ったらしくここまで言葉を並べてきたが、まずは自分を思いやり支えてやらねばならない。そして、今日をという日に感謝をして一日を無駄に、蔑ろにしないよう生きるのだ。そうすることで、人生に価値が生まれ、自らもそこに価値や財産を見出すことが出来るのだ。

3/7/2023, 11:08:43 AM

二十一歳の時分、共通の友人の紹介で知り合った相手と毎日毎晩連絡を取りあっていた。朝起きて挨拶のトークを送ると、返事が返ってくる。連絡を取りあって間もない頃というのは、お互いにぎこちなく何処か緊張しているのか遠慮しているのかよそよそしかった。次第に打ち解けていったことで、挨拶からたわいもない話をする仲になった。

まだ交際はしていなかった私たちも、その辺のカップルのようにお互いを想い合っていた。どちらも告白をするでもなく、ただただ行為を寄せていることを直接伝えては嬉しい気持ちになっていた。直接会うことは基本的にはなかったが、親しくなっていったことで、会いたいと思う気持ちが芽生えた。
五月半ばだっただろうか、シェアハウスをしていた私は二十二時を回った頃にアパートを出た。近所のミニストップに立ち寄って酒と夕飯を買って、アパート近くの植え込みの縁に腰掛けてスマホをポケットから取り出した。電話帳をスクロールして、いつもの連絡先をタップすればコール音が聞こえてくる。「もしもし」と嬉しそうな声が耳に心地よい。酒のプルタブを上げて小気味よい音を立てながら、その声に答えて大きくひと口流し込む。なんてことの無い会話を続けているうちにさらに夜が深くなっていく。パトロール中の警察官の職務質問に答えた後に、また話を再開する。すると今度の八月に実家に泊まりに来ないかとの誘いを受けるが、相手はなにも気にしていない素振り。お盆休みに泊まりに来て欲しいというが、実の所は両親や親戚にも「共通の友人の紹介で知り合った恋人が泊まりに来る」と吹聴していたのだという。そして、家族や親戚は歓迎しているというのだから驚きを隠せない。
何も気にすることなく、遊びに来て欲しいと嬉しそうに話す相手に勝手なことをしてくれるなと憤りを感じながら、やっと会えるのだなと胸が高鳴るのを感じた。

執筆中、お待ちくださいませ。
...執筆中だったのを忘れていた。はて?これは一体なにを書こうと思ったのやら。

3/5/2023, 10:55:21 AM

たまにはボヤいておこうか。


愛されたいな...


先日の話を更新致しましたので、目を通して頂けましたら幸いです。


生活の中にはルーティンというものが存在する。これは、意識的に取り入れているものや無意識のうちにしているものがある。難しく考えずとも、朝起きてからのことを思い出してみれば自分のルーティンというものが分かる。私の場合は、四時半に起床して五時半に設定をしている目覚まし時計のアラームスイッチを解除する。そして、すぐに起き上がり薄い毛布と掛布団を畳む。最後に敷布団を畳んで揚げ床にすれば、次いで服を着替えて靴下を履く。トイレを済ませ、十分から十五分かけて歯を磨き口を濯いだら、クリーナーを使って舌をケアする。そして予洗いを行って、洗顔ネットに高保湿ポーションと石鹸を付けて泡立てる。洗顔は日によって洗顔フォームを使う時や、石鹸も二種類を使い分けている。顔をしっかりと濯いだならば、優しくタオルドライを済ませて美容液と化粧水で保湿をする。乳液を馴染ませた後で、収れん化粧水を軽くパッティングする。次にミルク系の乳液でさらに水分を与えたならば、アロエクリームとヴァセリンのクリームで包み込めばスキンケアは終了だ。タオルハンカチを用意して、好きな香水をワンプッシュ吹きかけて畳んだなら、そっとポケットに差し込んで準備完了だ。もちろん、この間にケトルのスイッチも押してあるからお湯が湧いている。松茸のお吸い物が大好物な私は、二日に一度はこのお吸い物を頂く。そして、汁茶碗にお吸い物を用意して納豆や焼き魚を並べる。ご飯茶碗に山盛りの白ご飯を装えば朝食の出来上がり。食べる時は白ご飯は三杯いただく。私は昼休憩を取らないので、昼は食べないということであるから朝のうちに確り食べておくのだ。砂糖を抜いたストロベリーティーで一息ついて、車の鍵をベルトループに固縛したならば出発だ。起きがけから一時間でこの動きをしているのだが、これを崩してしまった日には一日中気持ちが悪い。なにかを忘れているような、ミスをしてしまっているような嫌な胸騒ぎが収まらないのである。
休みの日には、このルーティンを敢えて崩している。というのも、休みの日にまでこれをしていると今度は疲れてしまうからだ。メリハリがなくなってしまうと言えば、理解しやすいだろう。仕事は仕事で、休みは休みといったハッキリと区別をつけなければ本当の意味で身体は休まらない。気分が変わらないのだから、疲れは抜けない。しかし、休みの日だからとダラダラはしない。いつもより一時間遅めに起きて、スキンケアまでは一緒だがその後は違う。大量に作って起きたいおかずの下準備を済ませ、一度休憩がてらYouTubeを観たりこのアプリで皆様の投稿を読んで楽しむ。そして、また調理を開始するのだが、終わるのは大体は十四時くらいだ。揚げ物などでは特に時間がかかる。なんせ、クリームコロッケを作る時は六十個ほどつくるのだから時間がかかって仕方がない。ソースを作って冷やして固め、それを成型して衣をつけていく。揚げ鍋に油を用意したなら、適温まで上げる。そこからひたすら揚げ作業だ。他の料理の時も大体このような状況だが、おでん作りは二日かかる。なんせ出汁を取ったり、下茹でしたりで一日では足りないのだ。
料理をしない日は、釣りに出かけるか仕掛けを作る。妹や母の自転車のメンテナンスをしたり、家中の掃除をしたりお昼寝をしたりもする。お昼寝を共にしてくれて、、私のことを愛してくれる人が居れば募集していますのでいつでもお声がけくださいませ。冗談はさておき、これが休日のルーティンになるだろうか。仕事の日とは違う動きを意識的に取り入れることで、気分転換をして体の中の空気を入れ替えるのだ。また、勉強をするというのもとても有意義な日常のアクセントになる。私は「そろばん」のアプリゲームをしたり、数学や国語のアプリも楽しんでいる。文節や文法を学び直したりすることも、この冴えない文章力の助けとなっているからであるが純粋に勉強が楽しいこともこうしたアプリを使う理由だ。今年からは国家資格取得に向けた勉強などの取り組みにも励まなければならないし、仕事も変わる為に全てのルーティンを見直さなければならない。しかし、こうした変化というのは実はとても重要なことである。ガラッと生活のスタイルや、細かい動きというものを意識的に大きく帰ることで、考える力や想像力などあらゆる人間力を高めることができる。もちろん、日々繰り返してきたことをねじ曲げるというのは簡単ではないし抵抗があるだろう。ならばねじ曲げるのではなく、置換するのだ。意識を変えてしまえば造作もなく、こうしたことが出来てしまう。そしてその瞬間から、見えるものが変わってくるのを感じるのだ。
寝る時間や起きる時間出社時間などに合わせるのではなく、自分のスタイルとして設定をすることでもルーティンを見直すことは出来る。家を出るのが何時だからと、逆算して起床時間を決めるのではなく端から個別で考えるのだ。起きて何をしたいのか、どれくらいゆっくりしたいのかというのも重要だ。しかし、それ以上に重要なのは起きている時間。つまり活動時間内でどれだけ多くのことができるのか、タスクをこなせるのかだ。ただ毎日をむざむざと惰性で生きていては、なんの発見も経験もない。自分から飛び込んでいかなければ、発展も成長もない。だからこそ、ストイックになる必要なないが几帳面に生活をするというのは大切なことだ。もちろん、私だって人の子だ。疲れもすれば、だらしなくなりたい時もある。だからそういう時と言うのは、お昼寝して惰眠を貪るのだ。否、普段は出来ぬ心地よい眠りを味わうのだ。これが惜しいようで気持ちがいい。だが、せっかくの休みが惜しいのだという、二律背反が生じているのも事実だ。しかしそれでいいし、むしろそれがいいのだろう。バランスが取れているといえる。そして、これらの緩急というのは定期的に取り入れなければならない。人によっては曜日で生活スタイルに変化をつけるというのも、肌にあっていることもあるかもしれない。月曜日はいついつ起きて、何をするでもいいし、月火水はこうするといったスタイルでもいい。そして、それを定期的に反転させることでも素晴らしい生活になるだろう。

よく、「日常に変化がなくて詰らない」と言っている人や、「毎日おなじことの繰り返しが嫌だ」という人を見かける。しかし、それは甘えでしかないと私は考えている。なぜそのような突き放す言葉を口にしたかと言うと、先にも述べたように毎日の行動というのは自分次第でいくらでも変えられるものだからだ。寝ている時間は誰だって、身体を休めている間な意識がない。何もできやしないのだ。だから、起きている時間というのは自分の意思で変えられる。仕事で追われる人や勉強のために忙殺される人も、一時間といわず一分一秒で考えて見てほしい。そんの些細なことも、意識をしてみればきっかけというものが見つかるはずだ。寝る前の 一瞬でもいいし、起きた瞬間でもいい。食事中でもいいし、仕事中や勉強中。どこかのタイミングで、普段はしない何かを取り入れて見てほしい。すぐに新鮮な気持ちを体験できるかどうかは人それぞれだが、何かが変わるのを感じる時がある。それは違和感であるかもしれないし、ストレスのようなものかもしれない。しかし、それが大事なのだ。普段は感じないことを感じた時点で、成功しているのだから。あとはそれを自発的に取りにいけばいい。感じにいけばいい。そのうち癖になってくる。


たまには新しい自分というものを、探してみてはどうだろうか。思いもよらぬ発見ひらめきに出会えるかもしれない。そんな素敵なこと、試さずにはいられないだろう。

3/2/2023, 10:27:44 AM

人生の岐路に立っている。この先どう転ぶのか、成功するも失敗するも、挫折するもしがみつくも私自身の気持ちと行動しだいだ。不安とストレスで胃が痛むが、これも私が決めたことに過ぎない。



しかし、言えることはただ1つ。



私にとって、これまでの様々な人生経験や職務経験などがこれからの私を育てる大事な財産だということだ。


執筆中。
(後日、更新致します。内容も変わります...)



やってしまった...
書いたものを保存せずにあるリを閉じてしまった....
勤務先の船場枚11時間電話をして失念してしまった...

私は脳みそが空っぽなのだろうか。


また更新します。
が、当初のお題を忘れたので適当なお話を長々と書きたいと思います。次回更新は次の土曜日かも知れません。14連勤になると思いますので、しばらくは更新は難しいものと思います。


皆様に置かれましては、このような未熟者の私に愛想を尽かすことなく、暖かく見守って頂けましたら幸いです。

ほんとうに
ごめんなさい。

日が変わり、また新鮮な想いで文字を入力していくが本日で9連勤だった為にそろそろ疲労で頭がパンクしてしまいそうだ。因みに、予定では14連勤をする。なに、これくらい平気だ。何故ならば、昨年の夏から年末にかけては最高で75連勤をしている。そして、ピンピンしているのだから大したものだ。もちろん、健康面には悪影響があることは間違いないがスイッチが入ってしまうと止められないのだ。ゾーンに入ると言えばいいのだろうか、休みがいらないとさえ感じてくるようになる。今日を無事に終えて明日もまた仕事をするのだと思うが、もしかしたら限界が来て壊れるやもしれない。だが、それがいい。それでいい。私にはちょうどいい。
このアプリを利用し始めたことで、自分では気が付かなかった発見というものが実は多い。例えば、自分が思っていた以上に文章を書くのが好きだということ。そして、長文が苦ではないことや文章を書き続けることがどんどん得意になっているということだ。二千字ほどの文章であればすぐに書き終えることが出来る。しかしながら、課題も見えた。というのも、私の文章は実に読み難いということである。長文であることや、敢えて複雑な表現などを用いることがあるからである。また、国語教育で学ぶ文章の書き方ではないことも要因となっているだろう。しかし、国語教育の文章の書き方と社会一般的な書き方では異なる点が幾つかある。句読点の打ち方や、様々な括弧などの使い方である。基本的にはルールがあり、その上で読み手に正しく伝える為の書き方や表現、句読点の位置を決める。私の文章にもこれらのルールと、拙いセンスを込めている。しかし、これでは読み手には疲れるのかもしれない。

なぜこのようなことを言うのか、それは妹に私の文章を見せたときの反応が良くなかった為である。言えば「段落や改行が少なくて、読み難い」のである。しかし私の段落や改行というのは、簡単に言えば場面の切り替わりや話の広がりの意味がある。話の流れを変えたい時や、話そのものを変える時などには段落がなければならない。これがなければ世界が広がりを見せない。何も無い平地が、ただただそこにあるだけなのだ。しかし、多用しすぎてしまうと文章として破綻してしまう。では、どうすれば読み手が苦労することなく読み進められるだろう。ポエムのような書き方では、私の話には合わない。そもそも書き終えることが出来ないだろう。次に、そうなると長文が更にスケールを増してしまい、スクロールをし続けなければならなくなってしまう。では、詩のような書き方ではどうだろうか。これでは話の腰が折れてしまう。逆に読みずらくなったり、伝えたい事と違が伝わってしまう。違う意味に取られてしまうのではないだろうか。
私が段落や改行をどのような意味で入れているのか、どういったタイミングで用いているのか。それはきっと、私の文章を評価して楽しんで下さっている方であれば恐らく理解頂けていると思う。また、私の文章が好きな方は、恐らく話好きな性格だろう。話好きというのは、話を聞くのが好きであるとか、純粋に話をすることが好きという意味である。私は初対面の人を前にしても、持ち前のコミュニケーション能力を発揮して会話をすることが出来るし、初デートやオフ会などでもリードをすることが出来る。盛り上げ役や相談相手として、頼っていただけることもありがたい。そして、この性格故に作文が得意なのである。私にとって作文は会話をすることとまったく同じ、何不自由なく楽しいことでしかないのだ。だから無駄に長文を書いてしまうのだ。そして、この話を楽しんでくださる方々というのは同じ属性なのだと感じている。仲良くしていただけると、なぞの自信が湧いてくるのだ。

ところで、私の文章を読まれている方々は感じているのではないだろうか。私の話括り方や締め方である、「なのだ」や「であろう」などについてだ。特に「なのだ」はよく用いているが、先に言っておきたい。「ずんだもん」ではない。模倣している訳でもない。「ずんだもん」のことは存じ上げていなかったが、好きな箱のライバー様が真似をしておられたのを観て知ったのだ。これがまた可愛らしい。宮城県に長く住んでいた私にとっては、とても親近感のあるキャラクターである。この「ずんだもん」というものについてご存知ない方は、是非一度調べてみていただければ魅力を知ることができるだろう。「ずんだもん」の話をしていると、ずんだ餅を食べたくなってしまう私なのだが、皆様は食べたことがあるだろうか。未だ経験がない方は、偏見や抵抗感を持たずに食べてみてほしい。病みつきになってしまうだろう。餡子など選択肢から除外されてしまうこと必至である。あまり話をしていては退屈な無駄話が長くなってしまうことは疎か、オチも何もないつまらない話に付き合わせてしまう。この辺でこの話を終わりにしよう。

人には第一印象というものがあるが、これは対人であろうと対物であろうと働くものだ。存在を知る以前に人から聞いた話の内容から、勝手な印象を頭の中で作りこんでしまう。対面した時の見かけや身なりなどの様相だけで、勝手な印象を持ってしまい偏見の目で見てしまう。これは生き物として仕方の無いことであるが、人間というのはそこそこに賢い。賢さゆえのことでもあるのだが、自分から知ろうとすることを忘れないで欲しい。見かけによらないとはいうが、これはその通りである。強面の人間も話をしてみれば、実はとても穏やかで優しい人間だったりする。逆もまたあることだろう。ずんだ餅も見た目が緑でインパクトが強いために、抵抗を感じる。枝豆を餡にした甘味とあって味の想像がつかないからと勝手な想像で美味しくなさそうだと思い込んでしまう。私もそうであったが、人様の家で茶に上がった際に出された茶菓子がずんだ餅であったとき仕方なく食べたのだ。美味かったのだ。豆臭いとか違和感などはまるでなく、そこにあるのは新境地だけだった。何事も、自ら知ろうと歩み寄れば新たな一面を垣間見ることができるのだ。


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