-ゆずぽんず-

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人生の岐路に立っている。この先どう転ぶのか、成功するも失敗するも、挫折するもしがみつくも私自身の気持ちと行動しだいだ。不安とストレスで胃が痛むが、これも私が決めたことに過ぎない。



しかし、言えることはただ1つ。



私にとって、これまでの様々な人生経験や職務経験などがこれからの私を育てる大事な財産だということだ。


執筆中。
(後日、更新致します。内容も変わります...)



やってしまった...
書いたものを保存せずにあるリを閉じてしまった....
勤務先の船場枚11時間電話をして失念してしまった...

私は脳みそが空っぽなのだろうか。


また更新します。
が、当初のお題を忘れたので適当なお話を長々と書きたいと思います。次回更新は次の土曜日かも知れません。14連勤になると思いますので、しばらくは更新は難しいものと思います。


皆様に置かれましては、このような未熟者の私に愛想を尽かすことなく、暖かく見守って頂けましたら幸いです。

ほんとうに
ごめんなさい。

日が変わり、また新鮮な想いで文字を入力していくが本日で9連勤だった為にそろそろ疲労で頭がパンクしてしまいそうだ。因みに、予定では14連勤をする。なに、これくらい平気だ。何故ならば、昨年の夏から年末にかけては最高で75連勤をしている。そして、ピンピンしているのだから大したものだ。もちろん、健康面には悪影響があることは間違いないがスイッチが入ってしまうと止められないのだ。ゾーンに入ると言えばいいのだろうか、休みがいらないとさえ感じてくるようになる。今日を無事に終えて明日もまた仕事をするのだと思うが、もしかしたら限界が来て壊れるやもしれない。だが、それがいい。それでいい。私にはちょうどいい。
このアプリを利用し始めたことで、自分では気が付かなかった発見というものが実は多い。例えば、自分が思っていた以上に文章を書くのが好きだということ。そして、長文が苦ではないことや文章を書き続けることがどんどん得意になっているということだ。二千字ほどの文章であればすぐに書き終えることが出来る。しかしながら、課題も見えた。というのも、私の文章は実に読み難いということである。長文であることや、敢えて複雑な表現などを用いることがあるからである。また、国語教育で学ぶ文章の書き方ではないことも要因となっているだろう。しかし、国語教育の文章の書き方と社会一般的な書き方では異なる点が幾つかある。句読点の打ち方や、様々な括弧などの使い方である。基本的にはルールがあり、その上で読み手に正しく伝える為の書き方や表現、句読点の位置を決める。私の文章にもこれらのルールと、拙いセンスを込めている。しかし、これでは読み手には疲れるのかもしれない。

なぜこのようなことを言うのか、それは妹に私の文章を見せたときの反応が良くなかった為である。言えば「段落や改行が少なくて、読み難い」のである。しかし私の段落や改行というのは、簡単に言えば場面の切り替わりや話の広がりの意味がある。話の流れを変えたい時や、話そのものを変える時などには段落がなければならない。これがなければ世界が広がりを見せない。何も無い平地が、ただただそこにあるだけなのだ。しかし、多用しすぎてしまうと文章として破綻してしまう。では、どうすれば読み手が苦労することなく読み進められるだろう。ポエムのような書き方では、私の話には合わない。そもそも書き終えることが出来ないだろう。次に、そうなると長文が更にスケールを増してしまい、スクロールをし続けなければならなくなってしまう。では、詩のような書き方ではどうだろうか。これでは話の腰が折れてしまう。逆に読みずらくなったり、伝えたい事と違が伝わってしまう。違う意味に取られてしまうのではないだろうか。
私が段落や改行をどのような意味で入れているのか、どういったタイミングで用いているのか。それはきっと、私の文章を評価して楽しんで下さっている方であれば恐らく理解頂けていると思う。また、私の文章が好きな方は、恐らく話好きな性格だろう。話好きというのは、話を聞くのが好きであるとか、純粋に話をすることが好きという意味である。私は初対面の人を前にしても、持ち前のコミュニケーション能力を発揮して会話をすることが出来るし、初デートやオフ会などでもリードをすることが出来る。盛り上げ役や相談相手として、頼っていただけることもありがたい。そして、この性格故に作文が得意なのである。私にとって作文は会話をすることとまったく同じ、何不自由なく楽しいことでしかないのだ。だから無駄に長文を書いてしまうのだ。そして、この話を楽しんでくださる方々というのは同じ属性なのだと感じている。仲良くしていただけると、なぞの自信が湧いてくるのだ。

ところで、私の文章を読まれている方々は感じているのではないだろうか。私の話括り方や締め方である、「なのだ」や「であろう」などについてだ。特に「なのだ」はよく用いているが、先に言っておきたい。「ずんだもん」ではない。模倣している訳でもない。「ずんだもん」のことは存じ上げていなかったが、好きな箱のライバー様が真似をしておられたのを観て知ったのだ。これがまた可愛らしい。宮城県に長く住んでいた私にとっては、とても親近感のあるキャラクターである。この「ずんだもん」というものについてご存知ない方は、是非一度調べてみていただければ魅力を知ることができるだろう。「ずんだもん」の話をしていると、ずんだ餅を食べたくなってしまう私なのだが、皆様は食べたことがあるだろうか。未だ経験がない方は、偏見や抵抗感を持たずに食べてみてほしい。病みつきになってしまうだろう。餡子など選択肢から除外されてしまうこと必至である。あまり話をしていては退屈な無駄話が長くなってしまうことは疎か、オチも何もないつまらない話に付き合わせてしまう。この辺でこの話を終わりにしよう。

人には第一印象というものがあるが、これは対人であろうと対物であろうと働くものだ。存在を知る以前に人から聞いた話の内容から、勝手な印象を頭の中で作りこんでしまう。対面した時の見かけや身なりなどの様相だけで、勝手な印象を持ってしまい偏見の目で見てしまう。これは生き物として仕方の無いことであるが、人間というのはそこそこに賢い。賢さゆえのことでもあるのだが、自分から知ろうとすることを忘れないで欲しい。見かけによらないとはいうが、これはその通りである。強面の人間も話をしてみれば、実はとても穏やかで優しい人間だったりする。逆もまたあることだろう。ずんだ餅も見た目が緑でインパクトが強いために、抵抗を感じる。枝豆を餡にした甘味とあって味の想像がつかないからと勝手な想像で美味しくなさそうだと思い込んでしまう。私もそうであったが、人様の家で茶に上がった際に出された茶菓子がずんだ餅であったとき仕方なく食べたのだ。美味かったのだ。豆臭いとか違和感などはまるでなく、そこにあるのは新境地だけだった。何事も、自ら知ろうと歩み寄れば新たな一面を垣間見ることができるのだ。


3/2/2023, 10:27:44 AM