過ぎ去った日々
きっと、どこかにチェックポイントがあった。引き返せる場所もきっとあった。曲がり角も、回り道も休憩所も沢山あった。それでも、無視してここまで進んできた。取りこぼした物は多いはずで、だけど何一つ思い出せなかった。
「過去」は振り返らない、と決めたのは随分と幼い時分だった。
「今」が結果論でしかないと言い聞かせるようになったのと同時期だ。
あの頃は多感で、捻くれていて──そのままつまらない人生を歩いている。
近頃は前を見るのも止めてしまった。今は足元の変わらぬ景色を眺めながら長い道を歩いている。
今はまだ過去を振り返る気にも、未来を夢見ようとも思わない。
いつか進み続ける道に意味を見いだせた時──或いは走馬灯で──イッキ気見してやろうと思う。
月夜
夜が紡ぐ言葉が好きだ。
透明で、粒が揃っていて綺麗な順序で並べられたそれをなぞるのが楽しみだった。それはまるで恋のようだった。
──もし、私が月だったら。
ありもしない「もしかしたら」を何度も考えた。或いは星でも良かった。夜と同じ時間を歩めれば透明な言葉に触れられたのに。
ある時、「置き手紙だよ」と添えられた言葉を見つけた。どこか怖がりなその文字はいつもより少し色を含んでいた。たまたま好きだったその色を見て、私宛ならいいなと思った。出来心で宛先を明記せずに返事を編んでみた。出来上がったそれはどうにもたどたどしく、目の荒い文字列は到底贈り物には相応しくない代物だった。
「お返事ありがとう」
もう1枚のメモを見つけた時、この文字を汚してやろうと思った。
幾度目かの置き手紙の横に、夜を汚す光の名を冠したそれを透明な軸を持つ筆記具とともに送り付けた。朝焼けと闇夜の合間に触れる僅かな時間を閉じ込めたような藍で、言葉を紡いで欲しかった。そうしてあわよくば、その色に私を思い出してほしかった。
──私は、あさひだ。
私が起きれば夜は眠りにつくし、夜が広がれば私は眠る。
──夜の書く文字が、誰かの闇を照らしたら素敵でしょう?
そんな言い訳とともに渡した月夜の青が、いつか曙に届けばいいなと思っている。
たまには
「たまにはいいんだよ」
困ったように笑う相手に戸惑いを含んだ声しか返せなかった。
「いいって、何が」
「甘えなよ」
「そう言われても」
広義的な語の意味を図りかねて問い返しても、よく分からない。
「おいで」
「いや、いい。大丈夫だから」
お構いなく、と身を引くと、相手は仕方ないなぁと言い、私の身体を思いきり引き寄せられた。
「わ、わ」
「ほら、力抜いて?」
こうなると、もう力では抜け出せない。諦めて相手の好きなようにさせる。この行動の意図は分からないが、恐らく何らかの感情表現だろう。
「素直になりなよ」
「いつだって素直ですよ」
「うーん、そうだけど」
そうじゃなくてとまた彼が少し笑う。私が何か言う度に相手を困らせているのが分かるから、これ以上は何も言わないことにしよう、と思った。
「ね?たまにはいいでしょ?」
拘束を解いてまた相手が同じ台詞を言う。伺うような声と表情になんだ、あなたも緊張してたのかと理解した。力の抜き方も放り出された手の位置もよく分からなかったけど、確かに悪い気はしなかったから
「そうかもね」
と返しておいた。
大好きな君に
希月市 あけぼの街 7丁目 8番
大好きで大切な君へ
こんにちは。あるいは、おはようございます。
……いや、君は確か夜が好きだったね、だから挨拶は「こんばんは」がいいかな。
最近ね、よく君のことを思い出すんだ。街を歩いている時とか、仕事をしてる時とか、あとは……本屋さんにいる時とか!思い返せば私ってあんまり君のこと知らない気がするの。何色が好きとか、和風と洋風ならどっちがいいとか、信号が点滅したら走る派か待つ派かとか。そういう日常のなんでもない選択のこと。君ならどういう選択をしたかなーってたまに考えちゃうんだよ。
あとね、星空を見ている時も思い出すよ。今日はよく星が見えるな、君も見てるかなーって。月が昇ってきたの見てたかなとか、沈むまで起きてるのかなとか。
手紙を書くのなんて久しぶりだから、どうにもまとまらなくて困るな……。肝心なこと何も書いてないのに、もう二枚目。
あのね、今回筆をとったのは君にありがとうを伝えたかったからなんだ。何かをしてくれてとかそういうありがとうじゃなくて、もっと広義的な「ありがとう」。なんだろう、もう生きててくれてありがと〜!くらいの広ーい意味。別にいつも通り言葉で伝えればいいんだけど、紙とか手紙の方が気持ちって伝わるでしょ?たぶん。……伝わったよね?!伝わってない?じゃもう1回書くね、ありがとう!
さて、三枚目。あ、2枚目の下が空いてるのは許してね。なんとなく区切りたくて……。
君に聞きたいことがいっぱいあります。
それなりに元気ですか。
美味しいご飯が食べられていますか。
暖かい布団で眠れていますか。
空を見る余裕がありますか。
暗い夜道で立ち止まっていませんか。
明かりのない部屋で泣いてはいませんか。
心は息をしていますか。
──君は今、幸せですか。
この手紙を読む君がどうか優しくてあたたかい気持ちでいてくれたらいいなぁと思います。
君への手紙なんて何枚でも書けるけど、読むのも大変だし分厚くなっちゃうのでこの辺にしておくね。
またいつか会ったら、ここに書ききれなかったことをいっぱいお話しよう。
それでは。
夢見街 夢ノ溜リ場 2丁目 9番
忘れられた場所 から愛をこめて。
ゴ ミ 捨 て 場
たった1つの希望
扉の向こうはどこまでも灰色だった。ひび割れて乾いた地面に単調な凹凸が広がっていて、時折吹く風は何にも触れずに通り過ぎていく。
「アルト、ソプラノ。こちらへ」
「はい」
「ん」
男に呼ばれた2人の子供が扉の前に立つ。銀色の髪に黄色い目をした女の子──ソプラノという──は大きな鞄に白いワンピースを、もう1人は──この子がアルトだ──リュックサックを背負ってつばの広い帽子をかぶっている。
「さて。最終局面となったわけだが」
男が偉そうに腕を組んで2人に話し出す。
「君たちにはこれから、この保護地区を出て外へ行ってもらう。そこで──」
「わかってるよ。ぼくたちが、世界が枯れている原因を見つけてくればいい」
「そうだ。尤も、私の言葉を盗ることは感心しないがね」
「プレストが同じことを何回も言うからよ」
「君たち!」
咎めるように男──プレストが一括すれば、アルトとソプラノはしゅんとして姿勢を正した。
「君たちにこんなことをさせるのは心苦しい。だが、2人に適性があったのは我々にとって大変喜ばしいことでもあった」
大袈裟に抑揚をつけながらプレストが続ける。
「本来ならば盛大に送り出してやりたいところだが、生憎人員不足でね。ささやかになってしまったことをお詫びしよう」
地上の生命が枯渇してから30年、開けられることのなかった扉に手がかけられる。
「さぁ、行ってらっしゃい希望たち!」
その言葉と同時に、灰色の世界へ白と黒が足を踏み入れた。
2人の背後で重い扉が閉まる。希望という名のプロジェクトが幕を開けた。
「ねぇ、ソプラノ。ぼくたち、これからどこにいけばいいのかな」
「そうね……ひとまず、羅針盤の指す方に向かいましょ」
小さな二人分の足音が灰色の凹凸にこだまする。
世界再生プロジェクトと称した無謀な冒険は、ここから始まった。