線状降涙帯(せんじょうこうるいたい)
ぽたり、と落ちた雫が手元の紙に吸い込まれた。判読できないほど滲んだ文字に邪魔だな、と微かな苛立ちを覚える。いがいがとした気持ちのまま文字を書き連ねてもそれがどこかに溶けることはなかった。
ぱたぱた、とまた雫が落ちた。手元のブルーブラックが大きな海に姿を変えていく。広がった先に小さな赤を覗かせて、意味を持つ言葉を飲み込んでいく。
「あぁもう!邪魔だなぁ!」
ぐしゃり、と青い海を握りつぶした。感情のままに紙を殴りつけて、破れるのも気にせずぐしゃぐしゃにしわを寄せる。
「邪魔だなぁ、邪魔だなぁ、あぁもう!!じゃまだなぁ!!」
ぼたぼたと降る雫が止められない。状態の言語化が上手くできない。絡まった心の糸が解けない。何か悲しいことがあった訳じゃない。致命的な悩みがある訳でもない。取り立てて怒るようなことだってない。それなのに、雫が、気持ちが止められない。止める術を知らない。
「もういやだ……」
机に突っ伏した時、丸めた紙が指先に触れた。
もう一度身を起こす。
すぅ、と昂っていた気持ちが消えた。
「……何やってるんだろ」
ふは、と乾いた笑い声が口から飛び出した。
「馬鹿らし」
震える言葉と共にぽたぽた、と雫が落ちる。涙はそれで最後だった。
悲しいことや辛いことがあった訳でもない。震えるほどの怒りも燃え上がるような感動も激情もない。ただ唐突に零れ溢れたそれは、さながら通り雨のようだった。
──雨のあがった紙の上、晴れ間はまだ、見えない。
8月31日、午後5時
それは、夏の終わりを描写するには暑すぎる1日だった。アスファルトはゆらゆらと向こうの景色を揺らし、風も吹かない軒先の朝顔はしわくちゃに干上がっていた。冷房の効いた室内と外の温度差はすさまじく、1歩外に出れば頭からどろりと溶けてしまいそうだ。「うだるような暑さ」とはこういうことを言うのだろう。
――暑い。
南に面した大きな窓からはレースカーテンを通して強烈な紫外線が降り注いでいる。目玉焼きくらい焼けるのではないかというほど熱を含んだ床板が今更ながら心配になってきた。
──夏が終わったら、二人で海に行こうね。
ふと、そんな約束を思い出した。それからその日が記録的な猛暑日だったことも。あまりの暑さに嫌になった彼が突然そう言って指切りをせがんだのだ。
彼── あの人は遙か先の約束をするのが好きだった。
彼に会う度、彼の真っ白な指と透き通る声と沢山の約束を紡いだ。春には桜を見よう、いつかコスモス畑にも行ってみたいな。クリスマスには大きなケーキを食べよう、次の夏は庭に向日葵を植えてみよう。夏の終わりには海の家の残り香を感じに行こう。花火とかもいいね。
片手じゃ数えられないくらい、沢山の指切りを交わした。
──だけど、彼は小さな約束ひとつ守れなかった。
そうして呆気なく一枚の写真になった。謝罪も、別れの言葉もなかった。彼はいつのまにか色あせたフレームの中で動かぬ人になっていた。
***
ジ、と窓の外で音がした。いつの間にか日が傾いている。秋に向かう角度を持った夕日が庭木の影を引き伸ばし、ようやく落ち着いた暑さにほっとしたのか蝉が鳴き出した。
──もう少し日が傾いたら買い物に行こう。
彼の好きだった焼き鳥を買って、少しだけ海を見てこよう。時期は少し遅いけどコスモスの種を見繕うのも良い。
この先、動き出した季節の中で彼を思い出すことはきっと減っていく。けれど、あの暑い夏の日と約束はまだもうしばらく忘れられそうになかった。