放課後のカーテンは自由に波打つ。日中は生徒の邪魔だからと、まとめられるか窓を閉じられ静かに佇むだけだから、心なしか今の方が楽しそうだった。
「あっ、兄貴!」
嬉しそうに彼が外を覗く。
グラウンドで上級生が駆け回っていて、そのうちの一人は彼の兄だ。人気者兄弟はどこにいても目につく。
でも今はお兄さんのこと置いといてね。
「やらないなら帰るよ」
「えー!?待て、待て!やるからさ」
校内中に友達がいるのに、勉強を教えてほしいと昨日の放課後に懇願された。
私は今、君が頼んだから残ってるんだけど、と言外に伝えれば、慌てて雑にカーテンを揺らして戻ってくる。
彼は前の席の椅子にまたがりペンケースを取り出して「よろしくお願いします」と殊勝に頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします」
まずは参考書、ですらない。授業の振り返りも先の話。彼の場合は第一に一年時の学習内容を確かめることからだった。
「──というわけで、この公式に見覚えはある?」
「ねェ!」
「そんな気はしておりました」
「面目ねェ、です」
行儀悪く鉛筆を唇の上に乗せて変な顔をしている。難しいことを考えている顔だ。
予想の範疇であるので私は用意していた小さい冊子を手渡した。
「一年の時使ってたワーク。答え書き込んでないから使って」
「ありがとう!」
嬉しそうに受け取る姿に、もや、と心に妙な気持ちが落ちる。
私はこんなふうに君のお手伝いをするけど、それって私じゃなくていいよね。
君は人気者で、お兄さんもいて、賢い人の伝手は山ほどいる。教師とだって仲が良い。
黒髪が風に吹かれて差した陽から逃れるように影を揺らすこの瞬間を、私だけが見てていいの。
「ねえ」
公式をひとつふたつ指示してやってようやく大問が3割自力で解けたとき、結局私は聞いてしまった。
「一昨日の告白、もしかしてわかってない?」
ぱちり、ぱち、ぱち。
丁寧に三度まばたきをしてから彼はにっこり笑う。
「告白ってあれだろ?俺が好きってやつ」
「そう。わかってたんだ」
「モチロン」
じゃあどうしてこうやって勉強会をするの。きっと避けられると思っていたのに。
重ねて聞きたくても、再びワークに視線を落とした彼には聞けなかった。自分から早く取り組むよう声をかけた手前、中断させるのは気が引ける。
そもそも昨日了承したのが間違いだったかもしれない。あの時はどういう意味かわからなくて引き受けたけど。
胸中に惑いを抱えても埒があかないのにいつまでも考える私の悪い癖だ。君の友達にそんな子はいなさそうだなァ……。
そういったどんよりした気持ちから現実に引き戻すのは、相変わらず彼の快活な声だった。
「できた!できたぞ!」
急に眼前にワークを掲げられる。あまりに近すぎて顔に黒鉛がつくかと思った。
「……答えと合わせるね」
目の前で、合ってると信じて疑わずにあぐらをかいた足ごと揺れて楽しみにしているので、単位を間違えているのは少しおまけしておく。
それで補修テストで数点落としたって知らない。なんでだ!って、また私に聞きにくればいい。
「うん、できてる」
「よし!終わり!」
「え?」
乱暴につかんだ鉛筆をケースに、ケースを机の中に突っ込んで勢いよく立ち上がる彼を目を丸くして見上げた。
「終わりって、時間はかかったけど全然やってないよ」
「いーんだよ。お前と帰りたかっただけだし」
「は、あ?」
何もわからないような顔で見下ろしてくるけれど、私の方だって負けじと何もわからなかった。
「お前が言ってたんだろ。恋人ができても一緒に帰るのは恥ずかしいって。もう誰もいねェし、いいだろ?」
外からお兄さんたちの声は聞こえない。カーテンだけが騒がしくわめいている。
「あと賢いやつがよくて、勉強するやつがいいってのも言ってた。だから、マァ、チョットダケド、やった」
最後は尻すぼみになる真相に、それって一年の時の話じゃない?覚えてたの?だとか、もうそんなことは言えなかった。
黙って顔を覆って俯く。風が止んで下校予告のアナウンスが鳴っても正面をまともに見れなくて、馬鹿らしくなってくる。
やがて深呼吸を三回。それからそうっと指の隙間から覗いたら、彼は椅子に座り直して私を見つめていた。
目が合って、一秒。何も言えない私に仕方なさそうに。
「勉強しなくていいなら最後までいよーぜ」
と言って綺麗に笑うものだから、たまらず私は話題を逸らすことになる。
悪いけどまだ勉強に逃げさせてよ。
「さっきの、本当はマイナス1点だから……」
やわらかい机。やわらかい椅子の足についたまるいボール。
「これなぁに」
「たぶん、こう、音が鳴らないようにするやつだよ」
セラちゃんが立ち上がって椅子をひきずった。悲鳴をあげるようなこともなく布がこすれる音がする。
「す、すごい!先生がやったの?かしこーい!」
「たぶん、たぶんね。たぶんだよ?」
「すごいねぇ!」
「たぶんだからね」
間違えるのが怖くて『たぶんねロボット』になっている。
わかったよ、もう。それよりも。
「あのさ、じゃあさ!ユリのツノにもこれしたらいいよね!」
自分のツノは珍しい形をしている。背中の真ん中の骨からびーんと伸びていて、寝返りもできないからハンモックで寝ているのだ。降りる時は先生に抱きかかえてもらわなきゃ降りられない。怖くて。
今だって背中が空いた服しか着られないから外で遊べなくて退屈。おまけに寒がりで冬は教室から出たくなかった。
「そしたら先っちょ尖ってても引っかけたりしないよ。やすりがけは、じいんとするから嫌いだし!」
「うん、いいね」
セラちゃんはロボットからツノノコに戻って笑う。それから、もそ、もそ、と自分の頭をかきわけてツノを見せてくれた。
「セラのこれもね、ユリちゃんのと違うけどね、ツンツンしてて嫌だから同じのしよ」
ずい、と押し出してきたのを押し戻す。
セラちゃんのツノは頭から生えてるけど面白い形なのだ。2組のオオガキくんは鬼のツノみたいに立派なので、いつもズルいって口を曲げている。
先生たちはツノを大事にしなさいって言うけど、ツノノコのツノは牛や羊のツノより早く成長するし、お手入れも必要で面倒なのだ。なければいいのに!ってみんな言う。
「職員室行こー!」
一緒によーいどんしたのに置いて行かれた。
普段はのんびりさんのくせに足はすごく速い。ユリからすればそれもなんだか可愛いしかっこよくてズルいと思うんだけど。
こういうの隣の芝生は青いって言うらしい。つまり、友達のツノは羨ましいってこと。
先に着いたセラちゃんが説明していたみたいで、遅れて部屋に入ると先生が真っ先に答えてくれた。
「先生はちょっと、反対だなぁ」
「えー!なんで!」
先生が言うには。成長の過程とやらがわかりにくいらしい。
ツノは先が一番新しいので、それを隠すのは反対って言っていた。
「それに、よく考えてみて」
難しい顔をして見せてから一度奥に戻って、腕に板を抱えて戻ってくる。姿見という大きい鏡だった。
セラちゃんの肩を押して姿見に写し、白衣の大きなポケットからボールを二つ取り出す。
先生のポケットってなんでもあるんだなぁ。
「ほら、どう思う?」
セラちゃんの頭に二つ、ボールをあてる。
すぐにセラちゃんが返事をした。
「だっさい!」
そんな!
「そんなことない!ないよ!野球のボールがダサいんじゃん!ちっちゃいボールで、たとえば、クマ!クマの耳みたいに塗ったら可愛いよ!」
先生の手からボールをむしり取った。こんなボール、ユリだって嫌だよ。
でも一緒に盛り上がった友人にもう熱はないみたいで、振り返って怒ったようにイーッ!と綺麗な歯並びを披露する。
「クマ好きじゃない!」
そんなぁ。
傘を差し出すあなたを見た。
「よかったの?」
「え?……ああ、僕は近いし。遠出するやつが濡れたら大変だろ」
慈善、というよりは美徳を目指す人だ。「優しい人になりたい」だったか、いつか言っていた言葉を思い出す。
そう褒めたら笑ってくれるだろうか。
カニ歩きで一歩近づいて目だけで見上げる。
「優しいね」
すると、いっときこちらを見つめてそれから嬉しそうに鼻の下をこすった。
宿舎までは相当歩くのに相合傘とやらを申し出すには折り畳みは心許ない。ので、また一歩近づいて袖を引いた。
「よければ、一緒に踊りませんか」
「お、おどる?」
「そう、踊る」
そういう曲があったのを思い出して。先んじて歌うように告げて、袖から今度はするりと手を攫った。
「僕は踊るとか得意じゃないんだ。ボックスステップくらいで」
「いいじゃんそれで。行こう」
「いいのか」
「いいの、いいの」
向き合って反対の手も取る。
「濡れて踊ろう」
「それは、絶対に風邪を引く!やめよう!」
ふざけて背中側に倒れ込もうとしたのを支えてくれる、優しい人。握ったままの両手で支えるので拘束したまま抱きしめられてるみたいで。
通りすがりの生徒が口笛を吹いた気がする。
どう?私たち、お似合いかな?
「雨の中じゃないと曲からズレるもの」
「それは恋愛ソング?」
「うん、まあ」
すでに近い距離をさらに引き寄せられる。
「僕としては、僕らはじゅうぶん恋人だと思うんだが。完全に真似をしないと安心しないか?」
前髪がさらりと私に落ちて、額をくすぐる。
今回くらいは譲ってあげてもいいくらい、そういうところが好きだった。
『出席します』着る服も覚悟もなく特別な人は思い出へと
前夜祭隣の君に「 」おめでとうすら震えるの情けない友
ドレスごと飾ってマネキンのふりをして祝えたらハレ、別れの日
知らない笑顔と言葉のムービーに自分だけの存在はない
20年近く前から知っている『幼馴染』が馴染みすぎたの
それで良いと決めた自分を裏切って欲張ればよかった最後まで
切り分けたケーキと昔の砂のしろどちらが良いか分かり切ってる
友情は終わらないけど恋情の捨てどきは今、苦しいから今
花の降る道を歩いて幸せになってください、とくべつなひと
ひとつ、晒された首元から束をさらった。
艶々とした髪だ。広葉樹をくぐり抜けた強い陽に照らされているから、反射してキラキラしている。
これが深夜になると夜空に溶けて散らばるのがたまらない。
自分、夜行性なので。夜に紛れるのが、好きなので。
「センパイ、三つ編みほどけてる」
返事はない。木漏れ日が器用に目元を避けて安眠を与えていた。すやすや、ふわふわ、眠りこけているこの人が、情けない顔をしたのを思い出す。
呪われた薬品を被ったとか、曰く付きの骨董品を触っただとか。曖昧な噂を人伝に聞いて、「そんなバカみたいなことある?ま、あんたなら大丈夫でしょ」ってからかいに来たはずだった。
いっとき喋れないだけでなんて顔してるんすか、と笑い飛ばせたらよかったのに。
額に落ちた一本をどけてやる。するとセンパイは微かに眉根を寄せた。
「聞こえてるんすか?」
瞼は上がらない。
あのとき、この人が「何も言わない方がお似合いだろうよ」と、書き記して見せなければよかったのに。
手のひらからこぼれるまま、三つ編みを辿った。根元のほうはまだ形を保っていたけど、毛先は混ざって境目もない。パラパラと戻る先を知らない毛髪は直さないと不格好だ。
直してやってもいい。けど、それならば頼まれたい。
センパイがやれと言うから三つ編みが得意になったんだ。
意味も生き方も知らなかったけど、センパイの言葉でここまでついてきたんだ。
ただ寄り集まっても烏合の衆。独りになればみんな同じだと言ったのはあんたでしょ。
「早く起きてくださいよ」
あんたでもバカみたいなこと考えるんすねェ、って精一杯笑ってやる。
それから今夜は夜食を食べに出よう。美味しいもので腹を満たし、苦しいすべてが闇に溶けて、消えて、ただの一人になって。
あんたを縛るなにもかもがなくなってしまえ。
「いま起きねェと、昼飯なくなりますよ!」
いよいよ、手を出して体を揺すった。すると先ほどよりも眉間に皺が寄り、まつ毛が震える。唸るような声はなくとも、その口が小さく煩いと呟いた気がして、意気込んだ。
さあ、目を開けて。がんじがらめの夢想より、俺とくらい現実と理想を見てよ、センパイ。