イメージでは無人島では、浴びるほど本を読んで暮らしたい。
かれこれ27年間、小説を全く読んでいないからだ。
実用書や専門書の類はたくさん読んでいるのだが、仕事などのせいで、落ち着いて小説を読む精神的余裕がない。
そういえば旅行もしていない。こちらも23年ぐらいは遠出さえしていない。
これも同じような理由で精神的余裕がないからだ。
一応、経営者なので、経営が軌道に乗るまでは、お金のかかる遊びや時間のかかる遊びはオアズケ状態なのである。
起業するまでも波乱万丈だったので、普通の人間の生活は していなかった。
だから、無人島生活はある意味、憧れではある。
しかし、何を持っていくかと言われれば困り果ててしまうかもしれない。
もしかしたら何も持っていかないのが一番面白いのだろう。
そもそも現実は厳しい。サバイバルしなければ無人島では生きていけない。
自分の潜在能力が試されるのだ。
急に肌寒くなってきました。
秋は何でもできる季節と言われます。
食欲の秋。読書の秋。スポーツの秋。
私は、週2回だけの軽いジョギングを日課にしてましたが、
坐骨神経痛になってしまい、9月から走っていません。
実をいうと忙しくて半年ほど前から走っていませんでしたが、8月の中頃から走りを再開した途端に怪我をしてしまいました。
ジョギングしていた頃は、体重が一定にキープされていましたが、しなくなった途端に少しずつ体重が上がっていきました。
ストレスも中々発散できずにいつも追い詰められた気分になっていました。
このことからも運動効果の高さがわかります。
神経痛のシビレがなくなったら、少しずつ走り始めたいと思います。
走ることにより、体脂肪と体重が減り、腹筋の割れ方も目立つようになり、努力の効果が目に見えることにより自信がついてくるので、仕事や人生がうまくいっていなくても心がポジティブになれるのです。
まだ秋風が吹いているうちに走り始めたいですね。
大怪我する直前には、必ずイヤな予感がするものだ。
私は高所恐怖症だが、それは何度か高いところから落ちた経験があるからだ。
その時も、高いところに着く前からイヤな予感がしたものだ。
ではなぜ途中で高いところに登るのをやめなかったのか。
それは、まわりの人間から期待されていたからだ。
場の空気を読むと、どうしても拒絶できなかったのだ。
また、自分のキャパシティを超えた要求を押し付けられそうなときも、イヤな予感がする。
その要求を拒絶しないと、大方、後で大変な事態になる。
まとめると、災難が起きるとき、私の予感はよく当たる。
だから、これからは、相手が社長だろうと、大統領だろうと、神様だろうと、イヤな予感を感じたら、私はキッパリ拒絶するだろう。
結局、誰も責任をとってくれないのだから。
50代に突入した今でも、心は30代前半のあの頃と変わらない。
客観的に見るとオジサンなのかもしれない。
しかし、オジサンと言われたことはない。
気を使われているだけなのかもしれないが、人から言われないとオジサンであることを認識しなくなる。
だから勘違いもしてしまうのだ。
見た目がオジサンやオバサンでも、もっというと、オジイサンやオバアサンでも、心は若い時とそう変わらない人も多いのではないかと思ってしまう。
でも、行動は確実に変わる。
私の場合は、20代、30代の頃はかなり無謀なことをした。
危険なこともしたかもしれない。
今は、それはない。
そして、人生の残りが限られていることも認識し始める。
だから、無意味なことをしなくなるし、感情に任せて無謀なこともしなくなる。
しかし、10代、20代に聴いた音楽はよく覚えており、懐かしく輝かしい気分にしてくれる。言わば、青春をイメージし、アクティブな気持ちになる。
それに対して、30代以降に聴いた音楽は思い出せない。
あまり、印象に残ってないからだ。
それはなぜか。感性の違いかもしれない。
明らかに感性が鈍ってきているのが悲しい。
もっと心が躍る体験をしなければ、人生がもったいない。
残りの人生は、あと僅かなのだから。
この孤独からは抜け出せないだろう。
もう諦めている。
どんなに頑張っても無理だと思う。
死ぬまで変わらない。
今までの人生では、孤独から抜け出そうと努力してきた時期もあった。
光のような栄光を得ることができれば、全てうまくいくと考えたり、いつか必ず幸せになれると考えたりしたこともあった。
でも、改めて今日気付かされたのだ。
私は孤独と共に生きる運命なのだと。
誰からも愛されないし、誰も愛さない。
人との縁は限りなく薄い。
まるで霧のように。
ただ、これはビッグチャンスでもある。
人に流されず、冷徹になれるからだ。
実業家としては成功できそうだ。
お金が全てではないのは分かっているが、これからはお金で買える満足を追求しようと思う。
どうせ、孤独のままなのだから。