大怪我する直前には、必ずイヤな予感がするものだ。
私は高所恐怖症だが、それは何度か高いところから落ちた経験があるからだ。
その時も、高いところに着く前からイヤな予感がしたものだ。
ではなぜ途中で高いところに登るのをやめなかったのか。
それは、まわりの人間から期待されていたからだ。
場の空気を読むと、どうしても拒絶できなかったのだ。
また、自分のキャパシティを超えた要求を押し付けられそうなときも、イヤな予感がする。
その要求を拒絶しないと、大方、後で大変な事態になる。
まとめると、災難が起きるとき、私の予感はよく当たる。
だから、これからは、相手が社長だろうと、大統領だろうと、神様だろうと、イヤな予感を感じたら、私はキッパリ拒絶するだろう。
結局、誰も責任をとってくれないのだから。
50代に突入した今でも、心は30代前半のあの頃と変わらない。
客観的に見るとオジサンなのかもしれない。
しかし、オジサンと言われたことはない。
気を使われているだけなのかもしれないが、人から言われないとオジサンであることを認識しなくなる。
だから勘違いもしてしまうのだ。
見た目がオジサンやオバサンでも、もっというと、オジイサンやオバアサンでも、心は若い時とそう変わらない人も多いのではないかと思ってしまう。
でも、行動は確実に変わる。
私の場合は、20代、30代の頃はかなり無謀なことをした。
危険なこともしたかもしれない。
今は、それはない。
そして、人生の残りが限られていることも認識し始める。
だから、無意味なことをしなくなるし、感情に任せて無謀なこともしなくなる。
しかし、10代、20代に聴いた音楽はよく覚えており、懐かしく輝かしい気分にしてくれる。言わば、青春をイメージし、アクティブな気持ちになる。
それに対して、30代以降に聴いた音楽は思い出せない。
あまり、印象に残ってないからだ。
それはなぜか。感性の違いかもしれない。
明らかに感性が鈍ってきているのが悲しい。
もっと心が躍る体験をしなければ、人生がもったいない。
残りの人生は、あと僅かなのだから。
この孤独からは抜け出せないだろう。
もう諦めている。
どんなに頑張っても無理だと思う。
死ぬまで変わらない。
今までの人生では、孤独から抜け出そうと努力してきた時期もあった。
光のような栄光を得ることができれば、全てうまくいくと考えたり、いつか必ず幸せになれると考えたりしたこともあった。
でも、改めて今日気付かされたのだ。
私は孤独と共に生きる運命なのだと。
誰からも愛されないし、誰も愛さない。
人との縁は限りなく薄い。
まるで霧のように。
ただ、これはビッグチャンスでもある。
人に流されず、冷徹になれるからだ。
実業家としては成功できそうだ。
お金が全てではないのは分かっているが、これからはお金で買える満足を追求しようと思う。
どうせ、孤独のままなのだから。
時計の針の音ほど気が散るものはない。
だから私の家の時計には秒針がない。
音だけでなく、時計の存在すら感じたくないからだ。
いや、時の存在すらいらない。
時間がなければ、どんなに自由な人生になるのだろう。
時間があるから追い詰められる。
私は腕時計もしない。
心の底から時間が嫌いなのだ。
世の中の人間は勝手に時間に縛られている。
太陽が出て朝になり、太陽が沈んで夜になる。
それだけで良いではないか。
砂時計さえ必要ない。
愛 = 自己同一視 = 損失も受容 = プラス+マイナス
恋 = 他者(自分にないもの) = 利益のみ = プラス
したがって、
愛 − 恋 = プラス + マイナス − プラス
= マイナス
愛から恋を引いたら、マイナスすなわち損失しか残らないとなりました。