わたしの友人は、わたしの保護者には内緒で作った友人であるが、幼い頃にお母様を亡くしておられた。
残されたお父様は家事が出来ない人。
まだコンビニもない時代。
お惣菜もスーパーにそんなに置いていない頃。
きっと、友人は食生活に苦労されていたのだと思う。
わたしはそんな事情も知らず、趣味で作った拙いお菓子を学校に持ち込んで、その友人に振る舞っていた。
それが後々、友人にとって、心の灯りになっていたことが判明する。
わたしにとっては、なんてことない、気まぐれな親切だった。でも友人には、かけがえのない手作りの味になっていたのだ。
それを高校で再会した後聞いて、わたしが友人の心の灯りを知らずに灯し続けていたことに驚いたし、嬉しくも思ったのであった。
【消えない灯り】
きらめく街並み、という言葉で思い浮かぶのは、イルミネーションではなく、「ラブホテル」である。
以前住んでいた家の近くに、クリスマス近くになると家を電飾する知人がいた。そこで少しの間、ちょっとお世話になったのだが、その知人はラブラドール・レトリバーを飼っていた。犬の名前はラブ。
で、当然のように犬小屋も電飾される。それを知人は「ラブホテル」と呼んでいたのである。
実話である。
クリスマスが近づくにつれて「ラブホテル」も電飾、つまり、きらめきを増していく。肝心のラブがどう感じていたかは誰も知らない。
【きらめく街並み】
わたしの養母も実親も、人付き合い禁止の方針だった。友人禁止、部活禁止、バイト禁止、家から出るのも禁止。許されたのは習い事と塾と病院だけ。
そんな中、わたしは同級生の友人をこっそり作り、彼女を仲介して、文通友達を増やしていた。当時は雑誌などに文通募集のコーナーがあり、住所氏名が公開されていたからだ。
わたしの名前は苗字がキラキラで、名前も嫌いだったので、高一の頃には一般的に見える筆名を使っていた。今でも郵便局にその名を登録して郵便を受け取っている。
文通は親や保護者には秘密だった。でも、あの経験があったから、全く人と付き合う手段が分からない大人にはならずに済んだと思う。今でも口頭では言葉が碌に出ないが、文章ならコミュニケーション可能ではあるからだ。まあ、罵倒されて育ったので、言い回しが無意識にきつい部分はどうにかしたいが。
【秘密の手紙】
実家には掘り炬燵があった。小さなわたしには格好の遊び場で、炬燵をつけていない時にも潜っては秘密基地のつもりでひとり遊んでいた。友達はいなかった。人付き合いを禁じられていたから。
冬が来ると、畳の一部を開けて、そこに掘り炬燵を組む。そばにはヒーターと、箱で貰ったみかんがぎっしり。
本を読んだり勉強したり、炬燵でぬくぬくしながら過ごした思い出だ。
なお、酔った父に本気フォームでみかんを顔めがけて投げつけられて、みかんがわたしの顔で破裂し、わたしは痛くて、みかんの汁が目に入ってしみて、わんわん泣いたことも覚えている。
父はふざけたつもりだったと思う。何も怒られる理由がわたしになかったと記憶している。
【冬の足音】
わたしの母方の親族は概ねカトリック教徒であった。
クリスマスは朝ミサに行って、昼間に集まり、ターキーの丸焼きをグレイヴィソースゼリーをつけて頂き、お手製のショートケーキを頂き、習い事の成果を発表し、映画クリスマスキャロルを鑑賞し、プレゼントを貰って解散という流れだった。
ターキーの丸焼きは詰め物が美味しくて大好きだった。(傷んだ食べ物ではなかったし)
今でもクリスマスはチキンよりターキー派だ。もう、売っているお店は無いらしいけど。
贈り物は事前に子供たちの希望を聞いてデパートで買い揃えて隠しておく。でも、買い物の時、祖母と母が従姉の希望品について色々言っていたのを聞いてしまった。「色気づいちゃってまあ」とかその類。従姉が頼んだのは髪を巻くカーラーだった。
「いつまでも子どもらしくいて欲しいのにねえ」
そんな言葉を聞いてしまったわたしは、欲しくも無いぬいぐるみをねだった。すると祖母と母は満足げだった。「あなたは変わらないわね」と安堵したように言った。本当は違うものが欲しかった。言えなかった。
【贈り物の中身】