もしもタイムマシンがあったなら、私は間違いなく、あの夏の日に行くだろう。
まだ家族がみんなで暮らしていて、誰も何ものでもなかった、あの夏に。
灼熱の太陽のもとで自転車を駆った、あの暑い暑い夏に。
ほんの半年後には、みんな離れ離れになってしまったけど。それでもあの夏だけは、一つになって駆け抜けた。
今なら、どんな未来を選ぶだろう。あの日の私は、今の自分より幸せになっていけるだろうか。
【もしもタイムマシンがあったなら】
「ねえ、お昼何食べる?」
久しぶりのデートなのに、なかなか店が決まらない。業を煮やしたように君が尋ねる。
「今一番欲しいものってなんなのよ?」
「俺?俺はウナギかなあ…いま夏の土用だし。」
「え、土用丑の日ってやつ?」
「違うけど、土用だったらいつ食べても同じだよ。」
「へー、そうなんだ…。」
しまった、つい祖母の受け売りで、生活の知恵袋的なことを口走ってしまった。ずっと祖母に育てられたせいか、俺はどうも暦を気にしてしまう。友達にからかわれるわけだ。
久しぶりのデートで、何を話してるんだ俺は…。ちょっとした自己嫌悪に陥る。
しかし君は、そんなことはまったく気にならない様子で、信号待ちの暑い日差しを避けて、街路樹の陰にスッと身を隠した。涼しげな白い袖なしのブラウスが、愛らしい。
「あなたが食べたいんだったら、付き合うよ。ウナギ。」
「あ、ああ…。ありがとう!」
しまった、でも財布にいくら入っていたっけ?俺は最後の会計を脳内で再生した。確か5000円札はまだあったはず…。でも5000円でうな重2人食べられるお店あるのか?
俺は急に不安になって、ドギマギしながらスマホを取り出した。彼女もそれを見透かすように、木陰の中でスマホを操る。
「あ!なか卯なら、うな丼900円だよ!」
「え、マジ?!」
彼女のスマホを覗き込む。確かに、900円と書いてある。やった、1000円札が3枚残る…。俺はそんなみみっちいことを考えた。
そして、こんな頼りない自分と一緒にいてくれる彼女に感謝した。彼女なら、このままの俺を受け入れてくれるかもしれない。
ずっと2人でいたい…。そんなことを思いながら、信号を渡った。
【今一番欲しいもの】
その日、私はいつものように家を出た。そしてコンビニの前の交差点を右に曲がり、路地を抜けて駅に向かった。
本当に、いつものように。しかし今日は、なんだか様子がおかしい。道を行く人が、みんな私の姿など見えないというように、真っ直ぐに私に向かってくるのだ。
私はかろうじて、右に左に身をかわす。
「武道をやってなかったら、ぶつかってるやん…。」
私はブツブツと文句を言いながら会社に向かい、会社のすぐ手前のコンビニでアイスコーヒーを買って、デスクに座った。
パソコン仕事が中心になってから、同僚とはほとんど会話もしなくなった。私の挨拶に応えてくれる人なんていない。
私がノートパソコンを開けたとき、向かいの山本朋子が、真っ青な顔をして私を見ているのに気づいた。ふだん会話なんてまったくしないのに、珍しいこともあるもんだ。
「どうしたの?」
私は話しかけた。しかし声が聞こえないのか、彼女は口をパクパクさせたままだ。
「岡山さん…。」
彼女は私の名前をかろうじて口にした。
「?」
不思議に思いよく見ると、机の上には白い花を飾った花瓶がある。山本朋子は、手に一万円札の束を持っている。机の上には、何かの名簿があるようだ。
身体を伸ばして名簿を見ると、「岡山さん お香典」と書いてあった。チェックボックスには、社員の半数ほどの名前にチェックが入っている。
「お香典?私の?」
何を言ってるんだ。と私は自分の手を見た。向こうの壁やカーテン、観葉植物が透けて見える。足元を見ると、うっすらと靴の向こうにグレーの床が透けている。
そこで突然思い出した。私は、ゆうべ車に轢かれたのだ。コンビニのドアを出て、急いで家に帰る途中に。電気自動車の気配を消したエンジン音に、全く気づかなかったのだ…
そうだ、私は死んでしまったんだ。そのことに今初めて気付いた。まったく、なんてこった。死んでまで会社に通ってしまうとは!
息子はどうしているだろうか。思うやいなや、フッと身体が、いや意識が移動した。息子は、大学病院の霊安室にいるようだ。
【私の名前】
「今日は何時までに帰ればいいの?」
物憂げにつぶやく視線の先には、ダッシュボードの上の時計がある。
「今日は子どもが早帰りだから、遅くても3時かな。」
「それだけあれば余裕だね。」
彼はそう言いながら、背後から激しく抱きしめた。待ちきれないようにブラウスの隙間から手を入れる。
かすかな罪悪感が頭をよぎった。
【視線の先】
「これが、猪。これは、ウサギ。ほんでこれは、鹿の足跡やな。」
手を繋いで土手の上を歩きながら、父は一つひとつの足跡の主を教えてくれる。これは、私の遠い日の記憶だ。
薄く白い霧の中。土手は集落の端で途切れている。ふだんなら、絶対に足を運ばない寂しい場所だ。
こんなところにわざわざ来る必要があったのだろうか。どうして父は、わざわざこの場所に私を連れてきたのか。
もしかしたら、あれは幻だったのかもしれない。意識のない父の横で、私はそんなことを考える。身体には、いくつかのチューブがつながれている。
私を支えてくれた日灼けした肌が、少ししぼんで見えるのが悲しい。父は、いつの間にこんなに歳を取ったのだろう。
無音の病室に、かすかに蝉の声が響いてくる。それを聞くと、故郷での遠い日の出来事が、まるで夢のように思い出される。
いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。あまり良好とは言えなかった父との関係を埋め合わせるために、仲の良い風景を脳が捏造したのではないか。
そんなことも考えた。しかしその記憶は、私の心にしっかりと根を下ろしている。
【遠い日の記憶】