さよならを言う前に、メールを一通送る。
一見、何の変哲もなく、飾り気もない言葉。
その言葉の裏に隠した本当の心を
貴方は見つけてくれるかしら?
時津風が、波止場の小舟を揺らした。
真艫を受けた小舟は、風に誘われるがまま大河の入口へと向かう。
大河の入口までもう間近という時、小舟が止まった。
小舟の先に繋げられた舫綱がミシミシと鈍い音を立て、岸から離すまいとしている。
その光景にどうしようかと迷いながらも、劣化でささくれ立つそれを取り敢えず握ってみる。
舟と風の重さがのった綱が、ギリギリと手に食い込んでいく。
痛みに顔を顰めていると
「もうその網は使い物にならんぜ」
いつの間にか現れた金の妖が、側で笑っている。
妖の長い金の鬣が風に煽られ、周囲に金色を撒き散らす。
「良い風じゃねえか。今なら舟に間に合う。この風にのりゃあ遠くへ行けるだろうよ」
金の妖はそう言うと、緩慢な動作で空を仰いだ。
妖に釣られて空を仰ぎ見ると、どこまでも澄んだ青空が広がっている。
天気上々、吹き抜ける風、良好。
金の妖の言う通り、今が乗り時なのだろう。
そんな事を思いつつ空を見上げ、風に身を任せていると、体の内側が澄んでいくような感覚がする。
「乗りてぇ風ってのはコレじゃねえのか?」
金の妖が笑いながら問いかけてくる。
ああ、どこまでも見透かす妖め。
「…乗りてえ風に、遅れたヤツは」
ポツリと呟くと、
「間抜けってんだ」
金の妖が言葉を引き継ぎ、ニヤリと笑った。
妖が笑むのと同時に、手の中の綱を杭から引き千切る。チクチクと痛む綱を握りしめ、綱の先にある小舟へと向かった。
踝が浸かるほどの浅瀬を小走りで駆ける。
パシャパシャと軽やかな音は次第に消え、重たい水の塊が太ももを叩き、終には腰の高さまで迫る水が行く手を阻む。
前へ進もうとする体を押し留めようとせんばかりに、波のような水が体を襲ってくる。
手から綱が離れ、絶対絶命と思った瞬間。
伸ばした手が小舟の縁を捉えた。
水を含んで重い体を持ち上げ、舟に雪崩込む。
息を整える暇もなく、舟の端へと向かう。
舟の先には、岸を恋しむかのように綱が風に揺れて、川面を叩いている。
濡れ鼠となっていることも忘れて、無我夢中で小舟からソレを取り外した。
もう役に立たないソレは、所々が解れて見窄らしい。河へ向かって思いっきりソレを投げ捨てると、ポチャンと軽い音がした。
劣化した綱は、暫く川面をくるくると漂っていたが、河の渦に巻き込まれ、姿を消していった。
その光景にほっと息をつき前を向くと、
「じゃあな、行ってきやがれ」
金の妖の声が、背後から響いた。
一人を乗せた小舟が、大河へ向かって進んでいく。
天気上々、気分快晴。
前途不明なれど、迷いなし。
吹き抜ける風に、小舟は大河の流れに乗ったのだった。
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空模様
鏡を見ると
鏡の向こうに、世界が広がっているのではないかと想像してしまう。
虚像の自分が住まう、無数の平行世界──パラレルワールドが広がっているのではないかと。
パラレルワールドの世界では、様々なルートが存在している。
これから起こり得る未来だって、もしかしたらそこには存在しているのかもしれない。
だから、鏡の向こう側へ
「こちらのルートは、玉石混交なれど笑顔あり。小さな幸せに満ちているよ」
そう、微笑みながら報告する。
私の笑みにつられた鏡の向こうの私(虚像)が、笑みを返してくる。
パラレルを行く私の元にも、きっと笑顔が届いたのだろう。
パラレルの世界は、時空さえも軽やかに超える。
今が幸せであるならば、それは過去や未来、どこかしらで答えとして現れてくる。
ほら、
現に今だって──
ココでこうして貴方に出会えている。
この奇跡こそが、答えだ。
いつまでも捨てられないもの…。
そうさなぁ、やっぱ『過去』かなぁ。
でも、まぁ。
過去は現在、思い出へと変容している最中だ。
良いアーカイブになってくれれば、幸いである。
実物で捨てられないものは、学生時代に書いた物語たち。
中学生の時に書いた人生初の物語は、ノート1冊を使いきった。
ノートに書いたものをパソコンで入力するという初体験もこの時にしている。
キーボード操作が苦手で、凄く時間がかかったのを覚えている。今となってはあり得ないことだが、手書きの方が早かったと思う。
ノートは引っ越しの時に手放してしまったが、印刷したものをまだ残している。…恥ずかしくて読めないが。
高校時代は、文章を書く部活に入っていた為、いくつか作品が残っている。
短編が、2段組構成の3ページで2つ。
中編は、2段組構成の17ページが1つ。
長編は、序章1段組構成の7ページ。
前編&中編、2段組構成の49ページ。
そして、後編は、
家族からの理解が得られず未完となった。
当時は、家にパソコンが1台しかなかった。
その為、長時間パソコンを占領する私は、使用許可がおりなくなってしまった。
当初計画していたエンディングや、シリーズ化の空想も空想のままで終わってしまった。
今思えば、もう少し上手くやればよかったとも思うのだが…。
夢中になると時間を忘れるタイプの為、遅かれ早かれこうなるのは運命だったのだと思う。
パソコンを使わせてもらえなくなってからは、手書きで部誌に参加するようになる。
その為、詩のような散文が数ページ残るばかりだ。
そういった苦い思い出も残っているものなのに、当時の文章を読むと楽しんで書いていた記憶が蘇ってくる。
生き生きとした文章が、それをよく物語っている。
故に手放すことが出来ない。
創作環境に縛られなくなった今、当時の思いが少しでも晴れれば良いとこっそり思っているのだが、文章の技巧などを過去に置き去りにしてきてしまったのだから…。
まったく…なんと言ったら良いのだか。
まだ自身の中で判然としていないが、1日も休まずここを続けられているのは、当時の思いが慰められているから──なのかもしれない。
何かが1つでも違えば、私はココにはいない。
運命とは、本当に面白いものだとしみじみ思う。
夜の海に潮騒が響いている。
海岸の岩場には、ランプによって生まれた2つの影が伸びている。
その影の一人、山高帽を被った男は何かを思い出したのか、唐突に口を開いた。
「そういえば、灰色のアレからクレームが入ってるぞ」
「クレームなの!?…紺じゃなくて灰色の方ね。何だって?」
「『あの言葉をホームシックの言葉みたいに扱うとかマジ無い』だそうだ」
あの言葉とはちょっと前に書いた「帰る場所があるから遠くに行けるんだ」という言葉のことだろう。
「あれは…。だって、話すと長いから」
お家で迎えてくれる人がいる喜びって意味だけでも良いかなぁと。
時間の都合上カットしたのだが、どうやらそれが気に入らなかったらしい。
「『色々気づいたことがあっての言葉なのだから、しっかり説明して』、『ダブルミーニングなの!』だそうだ」
…ダブルミーニングって、そう大したものでもないし、長いからカットしたのに。
「書いてあげるべき?」
「…ご自由に」
仕方ない。
過去の言い分を叶えておこう。
以下は、過去から書けと言われたものである。
冗長注意の看板を立てかけておくので悪しからず。
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一人散歩をしていると、「あれは何だろう?」と興味のアンテナがピンっと立つ事がある。
そうなると──本来の散歩の目的とは異なる横道にソレたとしても──その気になるものを一先ずの目的地にしてしまう。
目的地に向かって歩いていく時、頭の中は「知りたい」気持ちと知らない道を歩く興奮に満ちている。
その気持ちに答えるように、景色も呼応し、それまで不鮮明だった目的地が鮮明になって見えてくる。
「ああ、〇〇だったんだ」と答えを得た脳みそは、例え対象物がガッカリなものであっても「知らないものを知ることが出来た」という喜びを得る。
そこで、満足して戻れば良いのだが、そこから更に興味のあるモノを見つけて、同じ事を繰り返してしまう。
はたと気づいた時には、本来の道から離れ随分遠くまで歩いてしまっていたりするのだから、興味とはげに恐ろしい。
興味があるから目的地になって、そこで満足を得たら、また興味あるものへ向かっていく。
この構造は、人生における「夢」の設定とどこか似ていると、今も変わらず思っている。…本筋へ戻ろう。
随分遠くという感覚は、実は、もと来た道を戻る時に実感するものであったりする。
ひたすら目的地に向かって歩いている時は、ただ目の前の事に夢中である為、自身の総距離など眼中にない。
何故こんなに後先考えず歩いてしまったんだろうと後悔するのは、いつも戻りの時だ。
そこで当時の私は思った。
もし、地図も標識もない世界で、家も持たず一度通った道も戻らないという旅をしたら──。
ひたすら前へ前へと向かう旅だ。
目に映る景色が変わる時になって初めて、それまでの道と異なることを知るのだろう。
地図や標識がなければ、どれほどの距離を歩いているのかもわからず、遠いや近いという判断もないのかもしれない。蓄積される疲労からは「歩いた」という事実のみを実感するのだろう。
本来、遠いという言葉は、二つのものが空間的、時間的に、また心理的に離れているさまをさす。
当時の私は、基点という留め針があって初めて、遠いや近いは定義されると思っていた。
過去の発想にもう少し耳を傾けてみよう。
基点の部分には、色々当てはめることが出来る。当時の私は「帰る場所」を基点とした。
帰る場所があるから、遠いところがある。
基点があるから、そこから距離の離れたところは、遠いところと定義される。
基点が存在しなければ、遠いところは存在しない。
「帰る場所があるから遠いところへ行ける」
上記に隠れていた言葉を開示すると、
──帰る場所があって、遠いところに興味があるからこそ、そこへ行ける──
基点があり、遠いところが定義されたところで行こうという意思がない限りそこへは行けない。
興味があるからこそ、遠いところへ行けるが、そもそもの基点がなければ、遠いところは存在しない。
故に、基点があるからこそ、遠いところへ行ける。
子供なりに哲学をしていたのだと、当時の私は言う。
大人になった私から当時の私へ、定義云々は脇において、一つアドバイスを贈ろう。
基点の「帰る場所」を「命」に変えてみると、より滋味のある言葉になると思われる。
「命があるから、遠い場所に行ける」
さらに言葉の枷を外すなら
「命があるから、どこにでも行ける」
想像の羽は、無尽蔵。
果てない興味が尽きるまで、
その命が続く限りまで、
何処までも歩いていきなさい。
「遠い」も「近い」も無く、
貴方は自由だ。
文章を書き終えほっと息をつくと、
「ちゃんと色々考えていたんだよ」と誇らしげに胸を張るかつての自分が見えたような気がした。