夜の海に潮騒が響いている。
海岸の岩場には、ランプによって生まれた2つの影が伸びている。
その影の一人、山高帽を被った男は何かを思い出したのか、唐突に口を開いた。
「そういえば、灰色のアレからクレームが入ってるぞ」
「クレームなの!?…紺じゃなくて灰色の方ね。何だって?」
「『あの言葉をホームシックの言葉みたいに扱うとかマジ無い』だそうだ」
あの言葉とはちょっと前に書いた「帰る場所があるから遠くに行けるんだ」という言葉のことだろう。
「あれは…。だって、話すと長いから」
お家で迎えてくれる人がいる喜びって意味だけでも良いかなぁと。
時間の都合上カットしたのだが、どうやらそれが気に入らなかったらしい。
「『色々気づいたことがあっての言葉なのだから、しっかり説明して』、『ダブルミーニングなの!』だそうだ」
…ダブルミーニングって、そう大したものでもないし、長いからカットしたのに。
「書いてあげるべき?」
「…ご自由に」
仕方ない。
過去の言い分を叶えておこう。
以下は、過去から書けと言われたものである。
冗長注意の看板を立てかけておくので悪しからず。
───────────────────────
一人散歩をしていると、「あれは何だろう?」と興味のアンテナがピンっと立つ事がある。
そうなると──本来の散歩の目的とは異なる横道にソレたとしても──その気になるものを一先ずの目的地にしてしまう。
目的地に向かって歩いていく時、頭の中は「知りたい」気持ちと知らない道を歩く興奮に満ちている。
その気持ちに答えるように、景色も呼応し、それまで不鮮明だった目的地が鮮明になって見えてくる。
「ああ、〇〇だったんだ」と答えを得た脳みそは、例え対象物がガッカリなものであっても「知らないものを知ることが出来た」という喜びを得る。
そこで、満足して戻れば良いのだが、そこから更に興味のあるモノを見つけて、同じ事を繰り返してしまう。
はたと気づいた時には、本来の道から離れ随分遠くまで歩いてしまっていたりするのだから、興味とはげに恐ろしい。
興味があるから目的地になって、そこで満足を得たら、また興味あるものへ向かっていく。
この構造は、人生における「夢」の設定とどこか似ていると、今も変わらず思っている。…本筋へ戻ろう。
随分遠くという感覚は、実は、もと来た道を戻る時に実感するものであったりする。
ひたすら目的地に向かって歩いている時は、ただ目の前の事に夢中である為、自身の総距離など眼中にない。
何故こんなに後先考えず歩いてしまったんだろうと後悔するのは、いつも戻りの時だ。
そこで当時の私は思った。
もし、地図も標識もない世界で、家も持たず一度通った道も戻らないという旅をしたら──。
ひたすら前へ前へと向かう旅だ。
目に映る景色が変わる時になって初めて、それまでの道と異なることを知るのだろう。
地図や標識がなければ、どれほどの距離を歩いているのかもわからず、遠いや近いという判断もないのかもしれない。蓄積される疲労からは「歩いた」という事実のみを実感するのだろう。
本来、遠いという言葉は、二つのものが空間的、時間的に、また心理的に離れているさまをさす。
当時の私は、基点という留め針があって初めて、遠いや近いは定義されると思っていた。
過去の発想にもう少し耳を傾けてみよう。
基点の部分には、色々当てはめることが出来る。当時の私は「帰る場所」を基点とした。
帰る場所があるから、遠いところがある。
基点があるから、そこから距離の離れたところは、遠いところと定義される。
基点が存在しなければ、遠いところは存在しない。
「帰る場所があるから遠いところへ行ける」
上記に隠れていた言葉を開示すると、
──帰る場所があって、遠いところに興味があるからこそ、そこへ行ける──
基点があり、遠いところが定義されたところで行こうという意思がない限りそこへは行けない。
興味があるからこそ、遠いところへ行けるが、そもそもの基点がなければ、遠いところは存在しない。
故に、基点があるからこそ、遠いところへ行ける。
子供なりに哲学をしていたのだと、当時の私は言う。
大人になった私から当時の私へ、定義云々は脇において、一つアドバイスを贈ろう。
基点の「帰る場所」を「命」に変えてみると、より滋味のある言葉になると思われる。
「命があるから、遠い場所に行ける」
さらに言葉の枷を外すなら
「命があるから、どこにでも行ける」
想像の羽は、無尽蔵。
果てない興味が尽きるまで、
その命が続く限りまで、
何処までも歩いていきなさい。
「遠い」も「近い」も無く、
貴方は自由だ。
文章を書き終えほっと息をつくと、
「ちゃんと色々考えていたんだよ」と誇らしげに胸を張るかつての自分が見えたような気がした。
8/16/2024, 2:08:50 PM