ガラスの中で、ユラユラと花が揺れている。
赤、ピンク、オレンジ、白のガーベラが美しいそれは、博士の誕生日プレゼントとして届いた代物だ。
それを届けてくれた──資料庫に現れた配達員の話を聞いた時は、博士の非常識っぷりに驚いた。
施設内に許可なく入り込まれたら、普通は110番案件だ。それなのに普通に受け取ってしまうとは、いかがなものか。
常識を力説する私に、博士は「真面目な君らしいなぁ」と、のほほんとしていた。
もう少し、危機感というものを持ってほしい。
件の配達員は配達伝票を回収した後、資料庫の扉に触れ──扉を開ける間もなく姿を消したという。
博士は「不思議なこともあるもんだよね。貴重な体験しちゃった」と笑っていたが、私は笑えない。
突如現れて消えていくなんて、お化けではないか。
…無理!普通に怖いっ!
もし、私一人の時に対応していたとしたら、お巡りさんを呼ぶか、卒倒するかの二択しかない。
博士のいる時に現れたその配達員は、不幸中の幸いだったといえるだろう。
ハーバリウムが届いてからというもの、博士は暇を見てはハーバリウムを掌の中で転がしている。
色の無い研究室に、その色は一際映えて見える。
花が好きな博士のことだから、プレゼントがお気に召したのだろうとあまり気にしていなかったのだが──
ユラユラと揺れるガーベラを見つめる博士は、どこか遠い目をしている。
まるで遠い日の記憶をなぞっているかのようなその目は、静けさの中に旧懐の色がある。
ユラユラと揺れるガーベラは、その瞳を静かに受け止めていた。
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博士とハーバリウム
テーマ「遠い日の記憶」
雲一つ無い快晴の空を見ると、ここではない、どこか遠い場所に行きたいと思ってしまう。
やらなくてはいけないことも、立場も、全部放り投げて──心の思うがままに。
これが休みの日に起こる感覚なら笑って許せるのだが、仕事に向かう最中、遠くは学生時代の学校に向かう最中に起こっているから困りものだ。
学生時代、エスケープは人の迷惑にもなるからと我慢をしていた。もっと正確に言えば、小心者過ぎてやる勇気がなかったとも言える。
大人になれば消えて無くなる、学生時代の一時の感情。当時はそう思っていたのだが、当ては外れたようだ。
学生時代叶えられなかったエスケープの願望は亡霊と化し、大人になった今も心の中に巣食っている。
その証拠が、先の青空を見る度に思う感情だ。
もし今、亡霊の思うがままに行動したならば、信用問題、ひいては死活問題に繋がっていってしまう。
故に、亡霊の願望を叶えることは、よほどの事がない限りこれからもないだろう。
青空を見る度に疼く、エスケープ願望の亡霊を胸に抱き、今日も生きていく──。
それが良いことか悪いことか、その答えを私は知らない。
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テーマ「空を見上げて心に浮かんだこと」
終わりにしようと思っても、うまく終わらせられない──物語が…。
「無計画で筆を取るから」
「書きながら終わりを見つける癖をやめなさい」
「もっと計画的に」
脳内のあちこちから非難の声が聞こえる。
「手を抜けば、文は自然に長くなる。書く側が時間をかけないと、読む側で時間がかかる。他人の時間をむしり取る権利は誰にもない」
最近読んだ本の、グサリときた言葉まで引用し始めた。
この言葉に出会った時、文章も文も長くなる癖がある私は「あぁ、自分のことだ」と、ひどく落ち込んだ。
「長文になり過ぎず、ほどよく内容が伝わるようにしよう」と反省したばかりなのに、この間の長文である。
最早つける薬はないと、いっそ開き直った方が良いのだろうか。
いや、もう少しやりようがある、はず…多分。
文章を模索する旅は、まだまだ続きそうだ。
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長文にも関わらず読んでくださる方、
♡をくださる方、
いつもありがとうございます。
おかげさまで見てみたいと思った♡数を見ることが出来ました。
目標達成、これで何回目でしょう。
正直、自分でも驚いています。
何回か、このアプリを終わりにしようかなと思っていたことがあるのですが、その度に皆さんからの♡が背中を押してくれました。
今、こうして続けていられるのも皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。
交流は出来ないこのアプリですが、♡が届くにつけ「読んでくれている人がいるのだなあ。ありがたいなあ」と温かい気持ちになっております。
文章の練習も兼ねておりますので、まだまだ読み辛い文章を作ってしまうかもしれませんが、これからも温かく見守っていただければ幸いです。
手を取り合う──と言っても、一定数裏切る人がいる。
「光あるところに影」とは、昔から言われていることだが、人間が誕生してから一体何年経っただろうか。
何百、何千年の時間を費やしても、人は同じ歴史を繰り返している。
いい加減、他者との関係性について上手くなっても良い頃だと思うのだが、近年はますます難しくなっている傾向だ。
世界中の人が疑心暗鬼に陥ることなく、純粋に手を取り合える日々は、一体いつ訪れるのだろうか。
可能ならば自身の命がある内に、是非見てみたいものだ。
優越感、劣等感は独り相撲だ。
あの人より勝っている。
あの人より劣っている。
他者と比較して勝った、負けた。
比較相手からすれば、寝耳に水──或いは、比較されていることにも、気付いていない可能性がある。
一喜一憂しているのは己自身のみ。
これを独り相撲と言わずして何といえば良いのだろうか。
優越感、劣等感に支配された人は、優越感劣等感を抱くもの事で頭がいっぱいになってしまっていて、本質を見落としている可能性がある。
誰しも己以外の誰かには、なれない。
他者と比較して優越感に浸ろうと、劣等感に浸ろうと、その行為に価値はほとんどなく、ただ自身を慢心させるか、卑下で己を痛めつけるかに繋がる。ならばせめて、己の形を知り得たと、学びとして昇華した方がよほど有意義なことではないだろうか。
とは言え、劣等感に苛まれている人にとってはそれが全てになってしまっている可能性もある。もしそうであったならば、それはとても苦しいことだ。
劣等感で他者の所有する能力や物に執着してしまう時は、自身がそれを手に入れられる可能性があるから、執着しているとも考えられる。
可能性があるから執着するのであって、ゼロパーセントの可能性だったら執着などなく、そもそも目にも入らない。
優越感、劣等感に浸りそうになった時ほど、己をよく観察するチャンスなのかもしれない。