あの頃の私へ。
言いたいことは、いっぱいある。
「あの時、あれをしておけば」とか
「こう考えれば」とか
「もっと視野を広く持って」とか
言い出したらきりが無い。
でも、これらは既に経験して歳を重ねたから言えることだ。
当時は、その物事に対して未経験であり、歳も若かった。
「愚か」や「浅慮」の言葉で切り捨てるのは、あまりに酷だ。
当時は当時なりに考えていた。
時にどうしようも出来ず、逃げたりしたこともある。そして、逃げた分だけ苦労を買い、自身の学びとしてきた。
人としての道から逸れることもなく、今この命があるのは、当時のあなたの選択が正しかった証だ。
あなたが選択肢を間違えていれば、私はこの世にはいないだろう。或いは、今の私ではないだろう。
この世は意外とシビアだ。
今日ある命は、明日もあるとは限らない。
道一つ、時間一つ間違えずあなたが選んだから、今がある。
お陰様で大きな病も怪我も経験せず、今の私として存在できている。
あなたは、様々なことを経験しながらも命を落とさず、人の道を踏み外すルートも選ばなかった。
それだけで十二分だ。
若いのによくやった。
あなたからのバトンは、この身体が受け取っている。
ありがとう。
私も、未来の私に渡せるよう努めるよ。
逃れられない…。
さて、何から逃れられない?
仕事?
勉強?
家族?
恋愛?
人間関係?
三大欲求?
承認欲求?
人生?
食欲、睡眠欲等の三大欲求は本能によるものだ。個の生存の為に組込まれているシステムのようなものなので、これらから逃れられないのは致し方ない事だろう。
しかし、それ以外の自分たちで作った価値基準によるものは、本来なら逃れることが出来るものたちだ。
それなのに、何故か人は逃れられず、自身の首を絞めていたりする。
案外、逃れられないようにしているのは、現象によるものではなく自分自身によるものなのかもしれない。
今日はお疲れ。また明日。
…今日はこれで終わろうかと思ったが、これではあまりに味気ない。
さて、どうしよう。
────────────────────────
午後6時。
研究所の終業時刻だが、まだ経理承認等の雑務が残っている。
月末にまとめてやると本社の経理さんに怒られてしまう。
経理さんのお小言は、胃によろしくない。
丁寧を通り越して、慇懃無礼の際までいく絶対零度の口調。逃げることも許されない理詰めの嵐。こちらが徹頭徹尾、平頭低身してもおさまらずオーバーキルしてくるのだから恐ろしい。
思い出しただけで胃がキリキリと痛くなってきた。
あんな経験はもうしたくない。若い時だけで十分だ。
正直、経理業務は後回しにしたいのだが、月末前までに申請しなくては。
確か、なかなかの数があったような。
頭の中で数を数えてみる。
一つ、二つ、三つ。
両手を超えた時点で数えるのを諦めた。
今日の残業は、何時間だろうな。
乾いた笑いが漏れそうになるのを堪えつつ、僕は助手がいるデスクへと視線を向けた。
先程まで一心不乱に入力業務をしていた彼女は、パソコンの電源を落とし、帰り支度をしていた。
几帳面な彼女はいつも帰り際に、デスクの上を整理して帰る。
出しっぱなしにして片付けをしない僕とは真逆だ。
ここのところ、本社からの難題のせいで終電が危うい頃にデスクの整理をしている姿を見ることが多かった。
それとなく、「早く上がりなさい」と促しても「キリが良いところまで」と返されてしまうと強く言うことは出来なかった。
若いとはいえ、体を壊してしまわないかと心配していのだが、今日は無事定時にあがれるようだ。
ホッと息をついていると、片付けを終えた彼女が、晴れやかな表情で挨拶をしてきた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
久しぶりの定時あがりが嬉しいのか声も明るい。
「お疲れ様。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます。博士も今日は早く上がれそうですか?」
「僕は、もうちょっと仕事してから帰るよ」
経理さんのお咎めが怖いから、とは言えない。
「徹夜しちゃ駄目ですよ」
ジト目をした彼女がこちらをジッと見てくる。
助手の彼女は──経理さんほどではないが─怒るとそこそこ怖いうえに勘が良い。
冷静な分析力と観察力を駆使されたらひとたまりもない。
予想残業時間不明の件は何としても隠さなくては。
「大丈夫、ちゃんと帰るから。また明日ね」
帰れる時間は不明だが、帰るのは本当だ。人に嘘をつく時は本当のことを一部入れれば良い。
大人の汚い手口だが、彼女には効かない策だったかもしれない。
現に彼女の大きな目は、ジト目のままだ。
心臓の音が五月蝿い。
その上、笑顔がピクピクと引きつりそうになる。
しかし、ここで一つでも挙動がおかしいと嘘がバレてしまう。
平常心。平常心。平常心。
何度も平常心を唱えた事が功を奏したのか、彼女はフッと息をつくとジト目をやめてくれた。
「本当に徹夜は駄目ですからね」
「大丈夫!徹夜はしないから、ほんの一時間程度くらいだから」
必死に言い繕った僕の言葉をどの程度信じてくれたかは不明だが、彼女は不承不承といった感じで帰っていった。
嘘に嘘を重ねてどっと疲れてしまった。
そういえば、嘘を一度付くとその嘘を支えるために嘘をついて、その支えのために更に嘘をついてと嘘は雪だるま式になると聞いたことがある。
嘘をつくと碌なことにならないのは、このせいなのかもしれない。
ならば、嘘を本当のことにしてしまえば嘘をついたことにはならなくなる。
「経理業務はまた明日…」
そこまで呟いて、経理さんの絶対零度の声が脳裏に響いた。
寒くないのに鳥肌が立ってきた。
…先延ばしは出来ないようだ。
僕はパソコンに向き合うと、一時間を念頭に置いて経理ソフトを開いた。
2023年5月21日
アプリを初めて入れた日だ。
その日のお題は「透き通る水」。
透き通る水と水清ければ魚棲まずを絡めた文章を作ったのを覚えている。
久しぶ の文章はぎこちないものだった 、他に思い浮かばなかったので右上のOKボタンを押した。
公開する等の選択肢の画面に進むこ なく、宣伝 流れ、宣伝 終わる 左上にハートマーク 付いていた。
「なるほど、文章を作ってOKを押す ハートを貰える仕組みか…」
アプリに装備された習慣化を補助する為のものなのだろう。大した文は書けなかった 、アプリからの労いを頂いてしまった。
こそばゆい気持ちでハートマークを押す 、画面 切り替わり♡1 なっていた。
「取 敢えずお題に則って文章を作れば練習にはなるな」
そ 思っている ♡の数 変動していった。
「ん?機械のお情けは既に貰ったのになんで?」
「…まさか」
脳裏に過ったのは、公開しますか?とか選択肢 無かったこ だ。
スマホを前に私は固まった。
「コレ…、誰かに見られているの、か?」
アプリの向こ 側に人 いる事を文章作成後に知ったのだった。
しかし、ここは交流も無ければコメント等も付かない。故に自由気ままに文章を作ろう 思えた。
れから1年。
1日も休まずテーマに沿った文章を投稿し続けた。
飽き性のはずなのに皆勤賞。
個人的に んでもない快挙で る。
本日2024年5月21日のテーマは「透明」だ。
1年前の透き通る水に通ずるテーマだ。
透明に因んでか、一部の言葉 透明になってしまっている。
透明になって隠れてしまった言葉は一体、何だろうか。
理想のあなた…(゜゜)不思議な言葉
あなたの理想でもなく、理想像でもなく、
理想のあなた。
貴方(あなた)をヒトと読み変えれば
理想の人となるので、物語なり雑談なり作りやすい。
しかし、「あなた」という言葉に拘ると途端に難しい。
「あなた」という言葉を辞書で調べてみると
[代]〔二人称〕軽い敬語として、対等以下の相手を指し示す言葉。妻が夫を親しんでいう場合や名前・身分などの分からない相手に使うことも多い。また、公用文で「貴下・貴殿」に代わる言葉として使う。
本来対等または目上の相手への敬語だったが、今は目上に使うのは失礼だとされる。よそよそしい語感もあり、対等の相手にも使われない傾向がある。
物語中、妻から夫への呼びかけとして使おうかと思ったのだが、今度は「理想」という言葉が邪魔をする。
理想=人が考えることのできる最も素晴らしい状態。
実現を目指す最高目標。
難易度高っ!
妻から夫への期待重っ!
なんだか、物語を作る前から夫が可哀想だ…。
だからといって、身分も知らない人を物語に据えると、一目惚れ的なシチュエーションじゃないと成り立たない気がする。
これは…、一目惚れの物語を求められている、のか?
ちょっと、辞書で一目惚れを調べてみよう。
一目惚れ=一目見ただけで心を惹かれること
うーん…。
…最も素晴らしいという状態まで行きそうで行かないような、どっぷりというよりすぐに引き返せてしまいそうな…。
そもそも理想というのは、自分に使うのが健全であって、他人に使うものではない気がする。
理想のあなたと浮かれて、自分の理想を他人に押し付けると待っているのは幻滅かもしれない。
自分と他人との程良い線引こそ、理想の距離感などと思うのだが、どうだろうか。