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今日はお疲れ。また明日。

…今日はこれで終わろうかと思ったが、これではあまりに味気ない。

さて、どうしよう。

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午後6時。
研究所の終業時刻だが、まだ経理承認等の雑務が残っている。
月末にまとめてやると本社の経理さんに怒られてしまう。
経理さんのお小言は、胃によろしくない。
丁寧を通り越して、慇懃無礼の際までいく絶対零度の口調。逃げることも許されない理詰めの嵐。こちらが徹頭徹尾、平頭低身してもおさまらずオーバーキルしてくるのだから恐ろしい。
思い出しただけで胃がキリキリと痛くなってきた。
あんな経験はもうしたくない。若い時だけで十分だ。
正直、経理業務は後回しにしたいのだが、月末前までに申請しなくては。

確か、なかなかの数があったような。

頭の中で数を数えてみる。
一つ、二つ、三つ。
両手を超えた時点で数えるのを諦めた。

今日の残業は、何時間だろうな。

乾いた笑いが漏れそうになるのを堪えつつ、僕は助手がいるデスクへと視線を向けた。
先程まで一心不乱に入力業務をしていた彼女は、パソコンの電源を落とし、帰り支度をしていた。
几帳面な彼女はいつも帰り際に、デスクの上を整理して帰る。
出しっぱなしにして片付けをしない僕とは真逆だ。

ここのところ、本社からの難題のせいで終電が危うい頃にデスクの整理をしている姿を見ることが多かった。
それとなく、「早く上がりなさい」と促しても「キリが良いところまで」と返されてしまうと強く言うことは出来なかった。
若いとはいえ、体を壊してしまわないかと心配していのだが、今日は無事定時にあがれるようだ。
ホッと息をついていると、片付けを終えた彼女が、晴れやかな表情で挨拶をしてきた。

「お疲れ様です。お先に失礼します」
久しぶりの定時あがりが嬉しいのか声も明るい。

「お疲れ様。気を付けて帰ってね」

「ありがとうございます。博士も今日は早く上がれそうですか?」

「僕は、もうちょっと仕事してから帰るよ」

経理さんのお咎めが怖いから、とは言えない。

「徹夜しちゃ駄目ですよ」
ジト目をした彼女がこちらをジッと見てくる。
助手の彼女は──経理さんほどではないが─怒るとそこそこ怖いうえに勘が良い。
冷静な分析力と観察力を駆使されたらひとたまりもない。

予想残業時間不明の件は何としても隠さなくては。

「大丈夫、ちゃんと帰るから。また明日ね」

帰れる時間は不明だが、帰るのは本当だ。人に嘘をつく時は本当のことを一部入れれば良い。
大人の汚い手口だが、彼女には効かない策だったかもしれない。
現に彼女の大きな目は、ジト目のままだ。
心臓の音が五月蝿い。
その上、笑顔がピクピクと引きつりそうになる。
しかし、ここで一つでも挙動がおかしいと嘘がバレてしまう。
平常心。平常心。平常心。

何度も平常心を唱えた事が功を奏したのか、彼女はフッと息をつくとジト目をやめてくれた。

「本当に徹夜は駄目ですからね」

「大丈夫!徹夜はしないから、ほんの一時間程度くらいだから」

必死に言い繕った僕の言葉をどの程度信じてくれたかは不明だが、彼女は不承不承といった感じで帰っていった。

嘘に嘘を重ねてどっと疲れてしまった。
そういえば、嘘を一度付くとその嘘を支えるために嘘をついて、その支えのために更に嘘をついてと嘘は雪だるま式になると聞いたことがある。
嘘をつくと碌なことにならないのは、このせいなのかもしれない。
ならば、嘘を本当のことにしてしまえば嘘をついたことにはならなくなる。

「経理業務はまた明日…」
そこまで呟いて、経理さんの絶対零度の声が脳裏に響いた。
寒くないのに鳥肌が立ってきた。
…先延ばしは出来ないようだ。

僕はパソコンに向き合うと、一時間を念頭に置いて経理ソフトを開いた。

5/22/2024, 2:51:01 PM