逃れられない…。
さて、何から逃れられない?
仕事?
勉強?
家族?
恋愛?
人間関係?
三大欲求?
承認欲求?
人生?
食欲、睡眠欲等の三大欲求は本能によるものだ。個の生存の為に組込まれているシステムのようなものなので、これらから逃れられないのは致し方ない事だろう。
しかし、それ以外の自分たちで作った価値基準によるものは、本来なら逃れることが出来るものたちだ。
それなのに、何故か人は逃れられず、自身の首を絞めていたりする。
案外、逃れられないようにしているのは、現象によるものではなく自分自身によるものなのかもしれない。
今日はお疲れ。また明日。
…今日はこれで終わろうかと思ったが、これではあまりに味気ない。
さて、どうしよう。
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午後6時。
研究所の終業時刻だが、まだ経理承認等の雑務が残っている。
月末にまとめてやると本社の経理さんに怒られてしまう。
経理さんのお小言は、胃によろしくない。
丁寧を通り越して、慇懃無礼の際までいく絶対零度の口調。逃げることも許されない理詰めの嵐。こちらが徹頭徹尾、平頭低身してもおさまらずオーバーキルしてくるのだから恐ろしい。
思い出しただけで胃がキリキリと痛くなってきた。
あんな経験はもうしたくない。若い時だけで十分だ。
正直、経理業務は後回しにしたいのだが、月末前までに申請しなくては。
確か、なかなかの数があったような。
頭の中で数を数えてみる。
一つ、二つ、三つ。
両手を超えた時点で数えるのを諦めた。
今日の残業は、何時間だろうな。
乾いた笑いが漏れそうになるのを堪えつつ、僕は助手がいるデスクへと視線を向けた。
先程まで一心不乱に入力業務をしていた彼女は、パソコンの電源を落とし、帰り支度をしていた。
几帳面な彼女はいつも帰り際に、デスクの上を整理して帰る。
出しっぱなしにして片付けをしない僕とは真逆だ。
ここのところ、本社からの難題のせいで終電が危うい頃にデスクの整理をしている姿を見ることが多かった。
それとなく、「早く上がりなさい」と促しても「キリが良いところまで」と返されてしまうと強く言うことは出来なかった。
若いとはいえ、体を壊してしまわないかと心配していのだが、今日は無事定時にあがれるようだ。
ホッと息をついていると、片付けを終えた彼女が、晴れやかな表情で挨拶をしてきた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
久しぶりの定時あがりが嬉しいのか声も明るい。
「お疲れ様。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます。博士も今日は早く上がれそうですか?」
「僕は、もうちょっと仕事してから帰るよ」
経理さんのお咎めが怖いから、とは言えない。
「徹夜しちゃ駄目ですよ」
ジト目をした彼女がこちらをジッと見てくる。
助手の彼女は──経理さんほどではないが─怒るとそこそこ怖いうえに勘が良い。
冷静な分析力と観察力を駆使されたらひとたまりもない。
予想残業時間不明の件は何としても隠さなくては。
「大丈夫、ちゃんと帰るから。また明日ね」
帰れる時間は不明だが、帰るのは本当だ。人に嘘をつく時は本当のことを一部入れれば良い。
大人の汚い手口だが、彼女には効かない策だったかもしれない。
現に彼女の大きな目は、ジト目のままだ。
心臓の音が五月蝿い。
その上、笑顔がピクピクと引きつりそうになる。
しかし、ここで一つでも挙動がおかしいと嘘がバレてしまう。
平常心。平常心。平常心。
何度も平常心を唱えた事が功を奏したのか、彼女はフッと息をつくとジト目をやめてくれた。
「本当に徹夜は駄目ですからね」
「大丈夫!徹夜はしないから、ほんの一時間程度くらいだから」
必死に言い繕った僕の言葉をどの程度信じてくれたかは不明だが、彼女は不承不承といった感じで帰っていった。
嘘に嘘を重ねてどっと疲れてしまった。
そういえば、嘘を一度付くとその嘘を支えるために嘘をついて、その支えのために更に嘘をついてと嘘は雪だるま式になると聞いたことがある。
嘘をつくと碌なことにならないのは、このせいなのかもしれない。
ならば、嘘を本当のことにしてしまえば嘘をついたことにはならなくなる。
「経理業務はまた明日…」
そこまで呟いて、経理さんの絶対零度の声が脳裏に響いた。
寒くないのに鳥肌が立ってきた。
…先延ばしは出来ないようだ。
僕はパソコンに向き合うと、一時間を念頭に置いて経理ソフトを開いた。
2023年5月21日
アプリを初めて入れた日だ。
その日のお題は「透き通る水」。
透き通る水と水清ければ魚棲まずを絡めた文章を作ったのを覚えている。
久しぶ の文章はぎこちないものだった 、他に思い浮かばなかったので右上のOKボタンを押した。
公開する等の選択肢の画面に進むこ なく、宣伝 流れ、宣伝 終わる 左上にハートマーク 付いていた。
「なるほど、文章を作ってOKを押す ハートを貰える仕組みか…」
アプリに装備された習慣化を補助する為のものなのだろう。大した文は書けなかった 、アプリからの労いを頂いてしまった。
こそばゆい気持ちでハートマークを押す 、画面 切り替わり♡1 なっていた。
「取 敢えずお題に則って文章を作れば練習にはなるな」
そ 思っている ♡の数 変動していった。
「ん?機械のお情けは既に貰ったのになんで?」
「…まさか」
脳裏に過ったのは、公開しますか?とか選択肢 無かったこ だ。
スマホを前に私は固まった。
「コレ…、誰かに見られているの、か?」
アプリの向こ 側に人 いる事を文章作成後に知ったのだった。
しかし、ここは交流も無ければコメント等も付かない。故に自由気ままに文章を作ろう 思えた。
れから1年。
1日も休まずテーマに沿った文章を投稿し続けた。
飽き性のはずなのに皆勤賞。
個人的に んでもない快挙で る。
本日2024年5月21日のテーマは「透明」だ。
1年前の透き通る水に通ずるテーマだ。
透明に因んでか、一部の言葉 透明になってしまっている。
透明になって隠れてしまった言葉は一体、何だろうか。
理想のあなた…(゜゜)不思議な言葉
あなたの理想でもなく、理想像でもなく、
理想のあなた。
貴方(あなた)をヒトと読み変えれば
理想の人となるので、物語なり雑談なり作りやすい。
しかし、「あなた」という言葉に拘ると途端に難しい。
「あなた」という言葉を辞書で調べてみると
[代]〔二人称〕軽い敬語として、対等以下の相手を指し示す言葉。妻が夫を親しんでいう場合や名前・身分などの分からない相手に使うことも多い。また、公用文で「貴下・貴殿」に代わる言葉として使う。
本来対等または目上の相手への敬語だったが、今は目上に使うのは失礼だとされる。よそよそしい語感もあり、対等の相手にも使われない傾向がある。
物語中、妻から夫への呼びかけとして使おうかと思ったのだが、今度は「理想」という言葉が邪魔をする。
理想=人が考えることのできる最も素晴らしい状態。
実現を目指す最高目標。
難易度高っ!
妻から夫への期待重っ!
なんだか、物語を作る前から夫が可哀想だ…。
だからといって、身分も知らない人を物語に据えると、一目惚れ的なシチュエーションじゃないと成り立たない気がする。
これは…、一目惚れの物語を求められている、のか?
ちょっと、辞書で一目惚れを調べてみよう。
一目惚れ=一目見ただけで心を惹かれること
うーん…。
…最も素晴らしいという状態まで行きそうで行かないような、どっぷりというよりすぐに引き返せてしまいそうな…。
そもそも理想というのは、自分に使うのが健全であって、他人に使うものではない気がする。
理想のあなたと浮かれて、自分の理想を他人に押し付けると待っているのは幻滅かもしれない。
自分と他人との程良い線引こそ、理想の距離感などと思うのだが、どうだろうか。
突然の別れ
( ゚д゚)ファッ?
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「困った」
深夜1時。
研究室のパソコンの前で、僕は唸っていた。
個人的に分析をかけたいサンプルがあるのだが、研究所にある分析機では難しい。
さて、どうしようか。
時間と手間をかけて研究所の分析機を使うか、他部署の最新機を使わせてもらうか。
上から目を付けられているので、なるべく目立った事はしたくない。
研究室の壁にかけられた時計を見る。
時刻は深夜1時15分。
「仕方ない」
この時間なら多分、繋がるだろう。
パソコンの隣りにある電話の受話器を手に取る。
電話帳内にある見慣れた名前を選択すると、発信音が鼓膜を叩く。何回かの呼び出し音の後、不機嫌そうな声が電話に出た。
懐かしい、彼の声だ。
「こんな時間にごめんね。ちょっとお願いがあって」
「こんな時間とわかりつつ掛けてくる、嫌がらせ以外に何があるんだ?」
言葉にからかいの音が含まれているのが電話越しでもわかる。本気のご機嫌斜めではなさそうだ。
僕はホッとすると、本題へ入ることにした。
「あのね、君のところにある最新の分析機にかけてほしいサンプルがあって」
「…また上に良いように利用されてるのか、お前?」
声のトーンが下がった。
「いやいや、今回は…」
違うと続くはずだった僕の言葉は、かき消された。
「面倒事処理やら、無理難題が来てるなら断るのも大切だぞ。入社前のかぐや姫っぷりを披露してやれよ」
「あっ、あのねぇ。好きでかぐや姫したわけじゃないの知ってるでしょう?」
「知ってるよ。でも、大学生にしては見事なかぐや姫だったじゃないか。一人で研究したいので、研究所をください。住むところもないので、生活スペースがあると助かります。異動等もしたくありません。最近は、一人でというのはあまり叶えられていないみたいだが、他は叶えてもらっている。かぐや姫より高待遇じゃないか」
「全部この会社を断る為の口実だよぉ…知ってるでしょ…」
「高飛車な鼻持ちならない奴になれば、入社しないで済むって思っていたんだもんな。折角、かぐや姫演じたのに、全部用意されちまって四面楚歌。泣く泣く入社することになったんだもんな。かわいそうに」
「これっぽっちも可哀想って思ってないでしょう…」
「入社早々、1つの研究所持ちとか馬鹿待遇だぞ。しかも、住居として使用可とかどんだけだよ。昇進したいヤツから見れば、贔屓されすぎて憎まれてもしょうがないだろう」
「だから、それは教授に嵌められて…。それに、研究所を住居にしていたのは、君がいた時までで、今は引越してるよ」
「そういう話は広がらないものさ」
「…ヒドイ。そういう君だって、今や複数の研究所を掛け持つお偉いさんじゃないか」
「どっかの誰かさんがいつも昇進を断るからだろう」
「僕は、研究が出来れば良いからね」
昇進の話は何度か来たが、全て断った。代わりにこの研究所いられるよう交渉してのんでもらっている。
本社が僕の条件をのんでいる限り、僕はこの研究所の所長のままだ。
「変わらないなお前。本当に変わらない」
「君と一緒に働いていたあの日のまま?」
「ああ。俺に突然の異動辞令が出て別れるまでの、あの時と何ら変わっていない」
「ふふふ。褒め言葉として受け取っておくよ。ありがとう」
「同期として、お人好し過ぎるお前が俺は心配だよ。本社にも顔を出さないせいで、色々な噂が独り歩きしてるぞ。注意しろよ」
「経理の方とかに目つけられちゃってるからね」
研究所の電気代が高いだとか、水道料金が〜とか、非常に世知辛い。
「…それだけじゃないからな」
「僕のところに配属された子達を君のとこに流してること、とか?」
「…それも、ある」
「良い子達ばかりでしょう?」
「ああ。気の利くヤツばかりで、助かっている」
声がやわらかい。彼の下に行った子たちは良い働きをしているようだ。
「良かった。良い環境で力を発揮してもらいたいからね。これからも彼らをよろしくね」
「ところで、ウチの分析機にかけてほしいサンプルがあるんだろう。なんだ?」
「個人的な研究のサンプルなんだけど。社内便で送るから、分析をお願いしても良いかな?」
「やってやるから、俺宛で送れ」
「ありがとう、よろしく頼むよ」
その後、二、三言交わして僕は、電話を切った。
壁にかかっている時計は、午前1時45分をさしていた。
僅か45分の邂逅に詰まった時の流れに、僕は軽い目眩を覚えながら、長い息を吐いた。
同期の彼と働いた期間は1年にも満たなかった。
短い間しか一緒に働けなかったが、彼の本質は、義理堅く、兄貴分的な度量の持ち主だ。仕事においても、冷静な思考と判断のバランスが良く、人の上に立つ素質を持っている。
そんな彼だからこそ僕は…。
先の未来を想像しようとしたが、やめた。
いつかの事を思い煩うのは、今ではない気がする。
それでも…。
「またきっと、頼ってしまうんだろうな…」
静かな研究室に僕の呟きだけが小さく響いた。