恋物語(゜゜)
恋物語=男女の恋を主題にした物語、小説。
また一般に、恋の話。 恋についての話。
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仕事が休みの日は、出かける…ではなく、読書。
普段の研究所でも籠って、休みの日も籠もる。
出不精ここに極まれり。
結婚を切望する母親あたりには顔を顰められるだろうが、今は一人暮らし。
お咎めは飛んでこない。
休みに何をしようと自由だ。
そもそも休みとは本来そういうものなのだから、心置きなく、今日は恋物語でも読もう。
ベッドの脇にある本棚から文庫本を一冊取り出し、パジャマ姿のままベッドにダイブする。
ベッドは、ボスンと音を立て優しく体を受け止めてくれた。
うつ伏せになって、枕を胸のあたりにセットし、抱え込む。
こうすることで普通に寝転ぶよりも、本が捲りやすくなって良い。ただし、長時間の場合は腰を痛めることもあるので注意が必要だ。
懐かしい表紙を眺め、ページを捲る。
幼馴染と恋仲になるまでの甘酸っぱい物語。
思春期に何度も読んだ物語は、ちょっと読むだけでシーンが蘇ってくる。
当時は、幼馴染や同学年、或いは一、二年先輩に恋をするのが当たり前と思っていた。
でも、悲しいかな。
良いなぁと思う人はいても、アタックする勇気が当時の自分には無かった。
大学時代は、主に単位、レポート、バイトのローテーション。恋愛というものとは、とんと縁がなかった。
大人になって就職した先でも、良いなぁと思う人は既にお相手がいた。
世の皆様は一体どのタイミングで、生涯の人と出会うのだろうか。
今、私が勤務している研究所は──ちょっとボロくて、研究所には見えない──私と博士しかいない。
私が異動してくる前は、博士一人しかいなかった時期もある。企業の一事務所としても、他の営業所と離れ過ぎているし、部署の役割的にも何でも屋みたいな不思議な位置にある。
私が異動すると決まった時、同僚や上司は、「あの研究所の所長は変わり者」とか、「上の弱みを握っているような人だから気を付けて」とか、「絶滅危惧種並に会えない人」とか、色々教えてくれた。
あんな素敵な文章を書く人が、人の弱みを握るような人物と言われても私はしっくりとこなかった。
存在Xみたいな、ふわふわとした像だけが独り歩きしているような、そんな違和感があった。
実際の博士はド級のお人好しで、気遣い屋で、出来た人だ。
何故実像と違う噂が独り歩きしているかはわからない。
研究所が他の営業所と比べて辺鄙な場所にある理由もわからない。
何故、博士一人の期間があるのかも知らない。
聞けば教えてもらえるのだろうか。
博士と研究所の秘密。
手元の恋物語どころじゃなくなってしまった。
真夜中=夜がいちばんふけた時。
深夜。
深夜=夜更け。深更。真夜中。
夜更け=夜がふけること。また、その時分。深夜
夜の、非常に遅い時。
深更=夜ふけ。深夜。真夜中。
辞書でぐるぐるたらい回しにされるのも久しぶりだ。
ネット辞書によると
真夜中の語は深夜(しんや)、深更(しんこう)、夜半(やはん)(日本の気象庁では「夜半」を「0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい。」 としている。) と同様に夜深くの時間帯を幅広く指す場合があり、曖昧である。
改めて手元の辞書で夜半を調べると、
夜半=よわ。夜中。真夜中。
やはり手元の辞書では、時間の詳細は載っていなかった。
曖昧なものは曖昧なまま。
敢えて定義しないというのは、想像力や言葉の滋味ともいうべきものが、そこにあるからだろうか。
この様な幅の豊かさがあるから言葉は楽しく、同時に難しい。
愛があれば何でもできる?
ある程度のことは、愛ゆえに出来るかもしれない。
しかし、死者蘇生や時を超えて昔の推しに会いに行く等、できない事も多々ある。
愛があれば、限界を超えることはできる。一方で、ある時点の限界は超えられない。
それが自然の摂理なのかは不明だが、制御点のようなものが存在している限り、「何でも」というのは難しいことなのかもしれない。
後悔…。
何かをしても後悔するし、
何かをしなくても後悔する。
人生と後悔は、切り離せない関係なのだろう。
だから、そういうものとして受け入れる、
許容が肝心なのかもしれない。
空は快晴のお出かけ日和。
さて、何処まで行きましょうか?
あの鉄塔の向こう?
あの遠くに見える紫峰の麓?
今日はごちゃごちゃとした思考を御休みさせて
風吹くままに風任せ
心赴くままの運に身を任せ
気まぐれなお出かけと洒落込みましょうか。