今日のテーマは「たとえ間違いだったとしても」
さて、どうしよう?
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「お着替えされてからでないと研究室に入れませんから」
どこかツンとした様子で助手は言うと、一足先に研究室に消えていった。
一人エントランスに取り残された僕は、ショボショボと更衣室へと向かった。
雨水を吸った靴のグッチョングッチョンという情けない音が静かな廊下に反響している。
廊下を右に曲がり、更衣室のドアを開ける。
更衣室と言っても、四畳程の狭い部屋だ。
リノリウムの床に、ロッカーとパイプ椅子がそれぞれ1つずつ、それだけしかない。
更衣室のドアを締め、ロッカーを開ける。
いつものオフィスサンダルに置き傘、その隣にワイシャツ、スラックス、靴下が入った袋がある。
本来この袋は、研究所で寝泊まりする時ように準備されているものだ。まさか雨で使うことになろうとは。準備していた時は思いもしなかった。
袋とオフィスサンダルを手にすると、パイプ椅子へ向かう。
オフィスサンダルを椅子のそばに置き、椅子に腰掛ける。
古いパイプ椅子が、ギッと錆びついた音を立てた。
グチョグチョの靴下とスラックスを脱ぐことにする。
水分を含んだ布は肌に纏わりついて脱ぎ辛い。
悪戦苦闘しながらもなんとか脱げた。
脱いだものは、スラックスと靴下だけなのにズシリと重い。床に置くとグチャッという鈍い音がした。
袋の中に入れてあったウェットシートで、足を拭く。
研究所のシャワールームを利用しても良かったのだが、ダルくなってしまうのでやめておくことにした。
ウェットシートで拭くだけでもサッパリとして心地良い。
新しい靴下とスラックスを身につけ、椅子のそばに置いておいたオフィスサンダルに履き替えるとシャッキリとした気分になった。
自然や人にとっても恵みの雨と理解しているが、濡れると気持ち悪く感じてしまうのは、人間故なのだろう。
衣服が無ければ体温調整も出来ず、濡れたままで居続ければ風邪も引く。
命の危険に近いものは、総じて不快に感じるように出来ているのかもしれない。
今回はつい、毒喰らわば皿までもな気分になって濡れることを厭わず寧ろ肯定するという実験を行ってしまった。
結果は、ご覧の通り。
助手に目玉を食らってしまったけれど、人間の生の本能ともいうべき片鱗を掴めたのだから良しとする。
実験というのは、たとえ間違いだったとしても、それが間違いだったと立証出来たならば良い。失敗は成功の母というわけだ。
ドロドロに汚れた靴下とスラックスは、ロッカーの隅にあった適当なビニールに入れておく。
──家に帰ったら摘み洗いと押し洗いをよくしなければ。
きっと、茶色く濁った泥水が出てくることだろう。
手洗いで泥汚れをよく取ったら、後は洗濯機に放り込んでしまえばいい。
一手間さえ惜しまなければ汚れなど大した問題ではない。
伊達に長年独り身ではない──というのは自慢にならないか。
雫=水や液体のしたたり
したたり=ポタポタ垂れ落ちること
最近は雑談が多いので物語にしようかな(゜゜)
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ザーザーと降る雨が、残り僅かの桜を散らしていく。
ボタボタと大粒の雨を受け止める黒い雨傘をさす男は、濡れそぼつ桜から大粒の雫が溢れるのを静かな眼差しで見つめるとポツリと呟いた。
「春雨じゃ、濡れてまいろう…なんて、風流な事は過去の事だね」
降り注ぐ雨は容赦がない。
男の通勤靴は水没し、しとど濡れるスラックスも肌にピタリと張り付き体温を奪っている。
桜の下にある側溝からは、排水が間に合わないのか、雨水が溢れはじめている。
夏のゲリラ豪雨と対して変わらない雨だ。
気候が狂って久しい今日此の頃。季節的な風流を求めること自体不毛というものなのかもしれない。
男は小さく笑うと、
「気候狂いのカオスな雨故、濡れてまいろう」
グチョグチョと靴音を立てながら水溜りを避けることなく歩き出した。
市街地を抜け、田畑が広がる長閑な道を進む。
歩行者の事を考えられていない道は、アスファルトが無く、地面が剥き出しという所も少なくない。
男の進む道もそれに漏れること無く、雨によって泥濘んでいる。
泥濘の道に構うこと無く、男は進んでいく。
吹き付ける雨は止むことを知らず、相変わらずザーザーと音を立て、雨傘を強く叩いている。
悪路を超えると、前方に小さなビルがポツリと見えてきた。
年季の入ったビルで、外壁の劣化や汚れが著しい。門扉にかけられた南京錠が追い打ちをかけるかのように、廃墟のような様相を醸している。
しかも、南京錠と一緒にぶら下がっているアルミ製の看板は──雨風に劣化したのか──研究所の文字だけ辛うじて残っている状態だ。
ご近所が無いので評判は不明だが、端から見ると怪しい建物にしか見えない。
男は、カバンから大小様々な鍵が付いたキーリングを取り出すと慣れた手つきで南京錠を開け、敷地内へと進んだ。
建物に反して敷地内は整備されており、一角には手入れの行き届いた色とりどりの花々が植えられている。
そのおかげか、外から見た時に感じた廃墟感は一気に薄れ、人が日常的に出入りしている所だと感じられる。
男はビルのエントランスで傘を閉じると、傘に付いた水滴をバサバサと払った。
キーリングに付いた鍵の一つを手に取り、ビルの自動ドアを解除しようと屈んだ瞬間、背後から影がさした。
「博士、おはようございます」
「あ、おはよう」
振り返りながら挨拶を返すと、助手がニコニコしながら立っていた。
ニコニコしているけれど、不穏な何かを感じる。
なんだろう?
首を傾げ助手の視線をそれとなく追う。
僕の顔を見ていない?
心なしか視線が足元の方に向かっているような。
「博士、お着替えされてから研究室に来てくださいね。そのまま入ったら今日のお茶菓子抜きですからね」
足元を見ると、子供が雨の日にはしゃいだような状態になっていた。
何もいらない?
本当に、何もいらないの?
余計なお世話かもしれないけれど
何もいらないという言葉はね
何も手元に残せないということだよ。
例えば──命すらも。
だから、
いらないもの…ちゃんと決めようね。
「何も」の、「何」は何だろう。
便利な言葉に依存して
隠している本音は何だい?
もしも未来を見れるなら
見ないかな。
見られる未来が今のルートである確証もないし
未来を見たことによって、
本筋とは違うパラレルワールドの一つの未来に向かってしまう可能性もある。
器用な方ではないと自認しているから、
下手なことはしない方が良い。
不確定を受け入れて、不器用なりに日常を紡ぐ方が
身の丈にあっているようだ。
「アリスがいなくなって俺の世界から色が消えた」
いつものバーにて、いつものイカレ帽子屋と──言いたいところだが、今はイカレ帽子屋ではなくキチ…失礼。頭のおかしい先生が彼の体に宿っているらしい。
さっきから口を開く度にアリス、アリスと嘆いて煩い。
イカレ帽子屋も大概アリス、アリスと五月蝿いが先生程ではない…と思う。多分。
「ハイハイ、無色ね」
適当な返事を返すと、帽子屋の姿をした先生が大げさな身振りで俺を指さした。
「何だそのやる気の無い返事は!この万年アル中ネズミ!色の無い世界に生きる俺に同情の一つくれたらどうだ!」
アル中ネズミとは、何という悪口を言うのだろうか、このクソ先生様は。
俺は眠りネズミだぞ?
まぁ、アル中は認めるけど。
勝手に役割を押し付けられた俺の身にもなってみやがれってんだ。
まあ、言った所で先生様には何も通じないだろうけど。
同情の余地もねえお人だよ、アンタは。
「無色とは透明を指すこともあるが、無彩色で白黒を指すこともある。白と黒の間には、百鼠の層がある。然るにアンタは、灰色の色彩の中で生きているのさ。良かったじゃねぇか、豊かな百鼠に恵まれて」
「オマエが、百人いるとか地獄の世界じゃねえか」
「実際灰色の数は百じゃあ済まねえんだけどな。そんなに嫌なら、色のある世界に戻ったら如何?」
「アリスが戻ったら俺の世界にも色が戻るのさ」
あー、やっぱり。こうなるよな。
そのせいで、不思議の国がいつまでも閉じられた世界になっているというのに…。
先生様とは、やっぱり話にならない。
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Are you Alice?より
眠りネズミと先生