美坂イリス

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8/8/2025, 1:32:40 PM

 いつからだろう、何の変哲もない『普通の人生』に憧れ始めたのは。

 思えば、私の人生は例えて言うならば荒波を越えるようなものだった。具体的に言うと古傷を抉るようなものだから、言うつもりもないけども。だからこそ、私は普通の人生を希っていた。
「……ねえ」
「何?」
 時刻は午後二時十三分。夏空の下、屋上で。私は隣に座ってグラウンドを眺めている彼女――確か、保育園の頃からの付き合いだったか――に声をかける。
「例えば、普通の人生、ってどんなものだと思う?」
 その言葉に、彼女は間髪を入れずに返す。
「今の生活そのものじゃない? あたしも、あんたも」
 そんな。その言葉が、夢であればいいのに。けれど、それは夢じゃない。
 こんなに退屈で、こんなにくだらなくて、こんなに無意味な、そんなものが。

 今まで、私がずっと願っていたものは、そんな最低のものだったんだ。

8/6/2025, 10:16:21 AM

 私だって、もう幼い子供じゃない。今までも、何度もお別れは体験してきたし、「またね」という言葉も口にしてきた。けれど、今日は。
「……またね」
 入道雲の立ち上る、音のない真夏。私は涙をこらえて、黒い縁取りの中で笑うおばあちゃんの写真を抱いてそう呟いた。

8/5/2025, 3:25:54 AM

 バスを降りると、響き渡るのは蝉時雨。

「やっぱ田舎だねぇ……」
 畦道脇のバス停の椅子に荷物を置いて、私は周りを見回す。うん、まだ青い田んぼに、緑の山々、その向こうには白い入道雲が浮かぶ青い空。
「ま、街の方よりは涼しいよね」
 確か、バス停の近くに小さな川があったはず。そこを通る風が、汗ばんだ肌を冷やしてゆく。
「しっかしまあ、変わらないもんだね……」
 最近はもう、夏ぐらいにしか実家に帰ってきていないけれども、この風景は幼い頃から変わらないまま。
「さて。じゃあ、家に向かいますか」
 誰にともなく、そう呟く。ここからは歩いて七分ぐらい。そこまでたいした距離じゃない。

 そして、私は目を細めながら空を見上げた。
「ただいま、夏」

8/4/2025, 3:22:46 AM

 夏の日差しを受ける堤防の上、私たちは空を眺めていた。聞こえるのは蝉の声と小さな波音。

「暑いね……」
 私の言葉に、彼女はこくん、と頷く。
「このままじゃラムネも炭酸抜けちゃいそうだし……」
 またもや、こくんと頷く彼女。
「……イルカが……!」
 その言葉に、彼女はぐん、と首を私の視線の先に向ける。
「……もういない……」
 しょぼん、と表情を変える彼女。
「……あんた、あんまり喋らないけど本当に感情表現が分かりやすいよね」
 そう言うと、彼女は首を傾げて『何が?』と言うような顔をする。それに、私は思わず笑みを浮かべる。

 手元には、いつの間にか気の抜けてぬるくなったラムネ。そして隣には、無口な君。その間を、ふっと風が通り過ぎていった。

8/1/2025, 3:16:38 AM

 空を見上げた。夏の光が眩しくて、私は空に手を伸ばした。

「……」
 堤防の上に座り直して、私は海を見やる。聞こえてくるのは潮騒と、海鳥と蝉の混声合唱だけ。
「……夏だね」
 誰にともなく私は独りごちる。時刻は午後二時十八分、七月三十一日。うん、完全に夏の盛りだ。

 見つめる先に広がる海、その向こうの青空。どこまでも、青く広がる世界はあまりにも大きくて。

 私は、一言すらの言葉も失くしていた。

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