「なあ、大好きって感情、わかる?」
「……」
まつ毛を伏せてため息をひとつ。コートの裾がへたれこんで床につく。流し目が酷く寂しい。
「オカンは優しいし、オトンは僕がこんなことしてても全く怒らない」
「ええやん、別にそれは」
「けど大好きって言えるほどじゃないんだよな」
「俺は?」
「…………好き?」
「そこは大好きって言えや」
叶わぬ夢だと知っても諦めきれない苦しみ。
好きになってしまったものは仕方がない。分かってる。そんなことは分かりきった話なのである。
「真田さんは猫飼ってはるんですね」
「おう。」
そんな自慢の男前の隣、それもお家にお邪魔している。そして白に黒ぶちの可愛らしい毛玉を愛しげに抱いている姿を拝むことができている。目尻なんかもう下がりに下がってしまっているし、こんな真田さん、昔の付き合いでキャバクラ行った時以来だ。
「ホンマはもう飼わんでええかなと思ってたんやけどさ、ほらやっぱ、また拾ってもうて」
「拾ってきはったんですか?」
「おん、軒下で血まみれになって落っこっとったこの子がほっとけなくて」
そうメダカちゃんを見る真田さんの目は、一瞬険しくなって、また慈しみに戻る。
「優しいすね」
「サナダは優しいにゃ〜。うん、せやろせやろ」
「メダカちゃんに言わさないでくださいよ」
両腕を上げてキメポーズをする(させられてる?)メダカちゃん、それでも嫌そうじゃないのも、真田さんの扱いが上手だからだろう。
「そういや真田さん、"また拾った"って言ってはりましたよね? 前も何匹か拾ってたんですか?」
「はっ、お前気づいてへんのかい」
「え、なんか飼ってましたっけ真田さん」
「お前を拾って会社入れて立派に育てたやん」
「…………(口があんぐり開いている)」
「いやあ、あん時のお前に付きっきりで色々教えて飼い慣らしたのホンマに大変やったし、ここまで立派になって俺も嬉しく思ってんで?」
「……………………(開いた口が塞がらない)」
「あんときのお前ほんまにブルドッグみたいやったで、ちっちゃくて。太くて。」
「……俺のこと人だと認識してます?」
「してる、してるよ、今は」
こういうところが魅力だし、魅力なんだけども。やっぱり叶わぬ夢ってものはあるらしい。
めちゃくちゃ頑張れば真田さんの隣にい続けるルートもあります。が、今のところだと永遠に忠犬のルートです。まずはメダカちゃんに勝つ所から始めましょうね、ブルドッグさん。
現実とは酷く苛烈であり、より辛く、より滑稽な事実を作り出すらしい。花吐き病とは耽美の代名詞であり、チビでデブの俺とは真逆の言葉である。しかし、俺は今タクシーの中で小さな赤い花弁を吐き出した。花吐き病に罹患した。
運転手さんに乗り物酔い用の袋を貰って事なきを得たが、袋の中には色鮮やかな花弁がちらほらへばりついている。吐瀉物のツンとくる匂いではなく、花の香りがしてきて、余計にせりあがってくる。気持ちが悪い。俺の気持ちも込みで全部。
「真田さん、好きな人おるんでしょ」
紙袋を握りしめてタクシーを出る。家の前で涙を堪えて立ちすくむ。想い人には想い人が居る。そんな当たり前のことが辛い。ましてや自分はチビのデブ、上手くいくはずもない。二人の夢も叶えられていないのに、じわじわ寿命が縮む怖さに手先が悴んできた。溢れた涙がメガネのレンズに溜まる。何も見えない。未来も何も。そうしてうずくまって泣いていると、頭がクラクラしてくる。きっと絶望的なぶさいくだ。やってられない。
目が覚めると白い天井がそこにあった。点滴の匂いとサラサラとしたシーツ。知らない所だった。
「おう、やっと目ぇ覚めたか」
「さなださん?」
身じろぐと手に温もりを感じる。真田さんの手は骨ばって綺麗な手。指も長くて美しい。
「もういい?汗でしっとりしてんねんけど」
「いやいいっすよ、頼んでへんし」
「あそう、でもまあ生きててよかったわ」
『生きててよかった』そうやっていってもらえるぁけで御の字なのだ。
瞬間肺の奥が苦しくなる、どんどん異物がせりあがってくるのが分かる。そういえば俺花吐き病なんやった。首を抑えて悶えても、もうすぐそこまで来ている。
「おいお前大丈夫か?!」
「お"え"っ」
真っ赤な一輪のバラが丸々出てくるなんて。
「お前、花吐き病やったんか……なんかお前、一生治らんかもな、えっと……どんまい」
でもそんな所が好き、好きになってしまった俺の負け。
ローラースケートを履いてる俺らが好き。駆け抜けて初めて見える、流星みたいなペンライトが好き。仲間が好き、歌が好き。声が重なる瞬間が好き。モニターに移る俺たちの、動きがあってる瞬間が好き。夜空を照らす北斗七星が俺たちだった。いつまでも続くものだと思っていた。
いつからだろう、声の重なりが邪魔に聞こえてきたのは。いつからだったろうか、一人でどこまで行けるのかを試したくなったのは。
いつからだったか。あなたが俺を、潤んだ目で見てくれなくなったのは。他に守るものが出来たとか言って、守られているのは性にあわなそうな心で、俺の隣から去っていった。深い愛も、たくさんの大事を守るための棘も、大好きだった。凛々しい心と、儚く細い腕の乖離したそれが、たまらなく愛しかった。
『終わりにしたいだなんてさ、釣られて言葉にした時君は初めて笑った』
俺がここを抜けると言った時。あなたは優しく笑った。まるで、俺の事を全て知っていたかのように。あの時とまるで違う落ち着いたファッションに身を包み、俺の知ってる顔で言うから、あの時から随分と時間が経ったのだと改めて知る。
「ソロ、好きだったもんねぇ」
そうやって口にした途端に、腑の中には溶けた鉄を流し込まれたように、訳の分からない感情が渦巻いた。『わかったような口を聞かないでくれ』『そう言ってくれるのはあなただけ』『引き止めて欲しかった』『送り届けてくれてありがとう』
その全てが口をつきそうになって、開いた目と口が塞がらなかった。
『忘れてしまいたくて閉じ込めた日々に差し伸べてくれた君の手を取る』
「オレ、本当はお前のことすげー好きだった。」
そんな甘い言葉、聞きたくなかった。俺から急に開いた話し合いがお開きになった頃。二人になった瞬間に独白が始まる。
「けど、お前は絶対、オレには釣り合わない」
俺は知っている。この人の寸胴は、自分の方の計りをいつも軽く持ち上げるのだ。
「だから、バイバイした」
あざとい言葉選びすら、全てが好きだった。
「それがお前を傷つけてたのなら、謝らせて」
けれど、貴方はもう、他の人の物になった。左手の薬指に光るシルバーを仕事の時には外すけれど、俺の指輪で上書きなんてできない。
「……もう遅いだろ」
「……バレたかぁ」
「俺はもうこれ以上、俺のものじゃないアンタを見たくない、って言ったらわかる?」
「ごめんね」
困り笑いではにかむ顔すら、可愛らしくて。
「向こうでも、目移りしないでよ」
「……アンタしかもう、見られねぇんだよ」
素直じゃない愛の言葉を互いの餞にして、僕たちは夜空を駆ける別々の星のカケラになった。
全世界5日前仮説。
5分前仮説というのはインターネット界隈じゃ有名な話。私たちが見てる世界は全て5分前にできたと言われても反論はできない。なぜなら、証明するものが記憶しかないのに、記憶すら作り物のレッテルを貼られてしまうから。
だけどそれが、5日前だと言われたらどうだろう。5日も前のことなんて事細かには覚えていないし、それより前のことも、余程大きなイベントでない限りは忘れていく一方だ。私はつい5日前に生まれた。ここに住み、友と学びあった17年間の思い出もある。しかし、私はつい5日前に作られたという記憶もある。
一日目は、細胞のような何かだった。
二日目には、いくつものそれが集まって私が生まれた。
三日目になると、世界が生まれて、家族や友人などの繋がりが設定されてくる。
この時点ではまだ、世界は世界という情報のみであり、風も吹かなければ日も射さない。言うなれば時は止まっている。
四日目でついに、情報が肉体という容れ物にしまわれ、世界に配置される。私は地球の中の日本にいるが、三つ隣の銀河の、名前も表記できない星に配置された存在もいる。
五日目。私たちが単位だった時から今の暮らしに至るまでの全てを忘れて、時が流れ始める。
この世は広い広い箱庭で、何者かの自由によっていくらでも形を変える。私はその記憶を持っている。それもきっと、その自由な閃きの中にあるだけの話なのだと思う。
「ねえツムギ、アイス溶けてるよ?」
「ああごめんレイラ、考え事してた」
「何?また好きな人のこと?」
「ううん、1週間前に出た宿題忘れちゃって」
「いま思い出したのか、ツムギどんまい」
「えへへ、あ! レイラ!アイスやばい!」
「食べな〜」
「あ、そうだ!言うの忘れてた」
「なになに?」
「(ここに題名を入力)」