か細い声で、必死になって鳴いているあなたを見つけたのは完全な偶然だった。
薄汚れた小さな段ボールの中で、私の両手のひらくらいしかない小さな小さな身体全部を使って、懸命に生き延びようとしてるあなたが、あんまり可哀想で、それであんまり可愛いから、無理を言って家族に迎えてもらったのをずっと覚えてる。
抱き締めた体は小さくてふわふわで、暖かかった。
「みぃ!みぃー!」
「なあに? みいちゃん、ごはん?」
みいみい鳴くからみいちゃん。
我ながら安直な名前。でもかわいいよね?
寒い日は、もう寒くないようにって一緒に寝たね。いつの間にか、私があなたを連れてくより早く、お布団にスタンバイしてるときもあった。
すごく嬉しかったよ。
みいちゃん。
みいちゃん。
「大好き、」
私の涙声の後、小さな声でみいちゃんが鳴いた。
「……いかないで」
ふす、と小さく鼻を鳴らす。
みいちゃんのお腹を撫でる私の手を、尻尾がするりと撫でていった。
ねえ、みいちゃん。
あなたと、わたし
『また会いましょう』
ススキ。
秋っぽい木が紅葉や銀杏で、秋っぽい花が金木犀なら、こいつは多分秋っぽい草の代表格だろう。
日の光を受けて金色に輝く穂のノスタルジーな美しさが、いかにも秋らしい侘しさを感じさせてくる。ほのぼのというよりは、少し切なさのような物を含んでいるのだと思う。それは秋を感じれば、一年の終わりが脳裏を掠めるからかもしれない。
とにかく、ススキは秋っぽい植物だ。
でも最近気づいたけど、私が今まで道中で見かけて「おぉ、秋だ……」と思っていた植物はススキではなかったかもしれない。
どうも『オギ』という名前のススキによく似た植物があるらしいのだ。そしてこれもススキより遅れはするが、同じく秋ごろに穂を付けるらしい。
ススキと違ってふわふわしているらしいけど、遠目からではそんなの分からない。専門家でもないからなおのこと。
難しい。植物って難しい。
そういえばクローバー(シロツメクサ)と思ったら、カタバミだったこともあった。
絵で見るクローバーの葉はハートの形をしている。そしてカタバミの葉はなんと絵で描かれるクローバーそのままの形なのである。緑のちまくて可愛いハートが放射状に広がりながらくっついている。シロツメクサより余程クローバーをしている形だ。
なので幼少期の私はせっせとカタバミの中から、ありもしない四つ葉のクローバーを探していた。あんまりだ。可哀想すぎる。クローバーなんてお洒落な名前で呼ぶからそうなるのだ。四つ葉のシロツメクサに改名しろ。
幼少期の私が可哀想で健気で泣けてくるが、このいわば植物に騙された思い出というのは、思い返してみればちょっと滑稽で面白くて悪くないかもしれない。「ええ!? 違ったの!?」という衝撃も、そう何度も体験出来るものじゃないし、本物を見た時は何だか感動すら覚えられる。
これは似た物が無ければ体感できない記憶だ。そう考えると、なんか悪くないな……と思えてくる。なんか、パチモンなんて呼んで悪かったな。
ススキとそして秋の持つノスタルジーな雰囲気のせいか、つい過去に浸ってしまった。
たまには、そんな事があっても良いのかもしれない。もう年末も目前だから。
残りわずかの一年を、私はどのようにして使いきろうかな。
『ススキ』
「みいちゃん! みいちゃん!」
ああもう、うるさいわね。
そんなにたくさん叫ばなくたって、ちゃんと聞こえてるわよ。だって私、あんたよりずうっと耳がいいんだから。
いつの日か、ちっぽけなねぐらで泣いていた私を抱き上げてくれた小さな手を思い出した。
まあ、小さいって言っても当時の私の体を包んじゃえるくらいではあったけどね。
でも、その小さな手は柔らかくって暖かくて、それでふんわりいい匂いがしたのを、ずっと覚えている。あと、小さいわりに力が強かったのも。
「みいちゃん私がお姉さんで、みいちゃんは妹だからね!」
私はあっという間にあんたより大人になったってのに、そんなことも言ってたかしらね。でも、あんたの妹ってのも存外悪くは無かったわよ。
寒い季節が来る度に、あんたは私を決まって暖かい場所に連れ込んだ。知ってるわよ、おふとんって言うんでしょ? あんたに抱きつかれてて、身動きは取りづらかったけど、でも暖かくて心地よくて。伝わってるかどうか分からないけど、私、あんたのおかげで寒いのが怖くなくなったのよ。誇りなさいね。
「みいちゃん、みいちゃん!」
ほんとに騒がしい子ね。
仕方ないからそのびしょびしょの顔、舐めてあげる。妹に世話を焼かせる姉なんて、あんまりいないんじゃないかしら。知らないけど。
「みいちゃん……ありがとう……」
そんなの、こっちの台詞よ。
「大好き……」
私もよ。
「みいちゃん、いかないで……」
そんなこと言われても困るわよ。
でもほんと、仕方ないんだから。
仕方ないから、すぐ戻ってきてあげる。
ねえ、だから待ってなさいよ。
あんたは姉で、私は妹なんだから。
こんな姉を見ててあげられる妹は私くらいだもの。
だから、あんたはまた私を見つけてね。
『あなたとわたし』
ぎりぎりと目の奥が痛い。
筋肉が張っているのがよく分かる。疲労した身体は灯りを点けるのさえ億劫で、薄暗い部屋の中、液晶の光だけが網膜を刺していた。
ブルーライトカットなんて気休めくらいにしかならないな、けっこういい値段したんだけど。
安いエナドリを飲み干しながらずれた眼鏡を直した。いつの間にか、舌にべったりと残るケミカルな甘さにも慣れてしまっている。
そういえば最後に仮眠を取れたのはいつだったか。
睡眠不足で錆び付いた脳みそでは、そんな他愛のない思考にもなんとも時間がかかる。思い出すのも面倒で、どうでもいいか、とまた液晶に向き直った。
残業もした、それでも仕事が終わらなかったから、こうして持ち帰ってまで仕事をしている。
先輩たちは「繁忙期だから仕方ない」なんて言って笑っていたけれど、その繁忙期っていったいいつまで続くのだろうか。それに、先輩たちは僕よりも残業が少ない気がするのは、それは僕が愚鈍だからなのか、或いは先輩たちの仕事量が僕より少ないのか。
ずきずき、眼痛が酷くなる。
そもそも何で、いま僕はこんなのをやっているんだろう。分かってる、締め切りが近いからだ。それはそうなのだけれど。これって僕じゃなきゃ駄目だったのか? 僕は他にも色々と抱えているのに。「何事も経験だ」とは言うけれど、でも。
目蓋が重たい。
ゆっくりと、目蓋が下がっていく。
まだ終わっていないのに。
しかし身体は言うことを聞かなかった。
落下するみたいに、或いは糸が切れたように、僕の身体は脱力してしまって、そのまま真っ直ぐに意識も途絶える。
ちゅん、ちゅん
ちちちち
雀か何か、小鳥のさえずりが鼓膜を揺らした。
久しく聞いていない可愛らしいアラームの音で、僕は目を覚ます。ぐっ、と伸びをすれば固まりきった筋肉が異音を発した。ひと心地ついてからようやく僕は状況把握に動き出す。まだ脳みそは寝ぼけている。
「今、何時だ……??」
眼鏡を外しながら、液晶に目を向ける。ノーパソのディスプレイの端っこに小さく表示される「11:15」を見つけたとき、リアルに肝がぎゅうっと縮んだのが分かった。
もちろん大遅刻だ。
テキトーに放り出していた鞄からスマホを取り出せば、ずらっと不在着信の通知が画面に並んでいる。
「あぁ……どうしよう……」
ノーパソの前に座り込んだまま、僕は頭を抱えてしまった。薄暗い部屋でぐちゃぐちゃのワイシャツのまま、しばらく呆けていた。何故ならば僕は気づいてしまったから。
辞めたい。
もうあそこで働きたくない。
辛い。
そう叫ぶ自分の心に。
それに気づいてしまったら、無理やり身体を動かすことが出来なくなってしまった。
ちゅん、ちゅん。窓の外は賑やかだ。
閉めきられたカーテンの隙間から射し込む白い光の筋を見る。薄暗い部屋にあそこだけコントラストが生まれていて、綺麗だった。こんなに日光が強いなら外は多分暖かいのだろうな。
「……仕事、辞めようかな。」
気づけば、するんとそんな言葉が僕の唇から滑り出る。無意識で出た物だったけれど、それは確かな形を持っていた。口にしたら、雲に覆われていた心が晴れていくような感覚を覚える。
カーテンを開けば、暖かい日光が網膜を刺す。でもちっとも嫌な感覚じゃない。
不在着信の通知を消して、検索エンジンを開く。
善は急げ、思い立ったが吉日。
やっと息が吸える。
久しぶりに頭がすっきりした。
僕は迷いなく、一つの電話番号に電話をかけた。
『一筋の光』
眠れない。
布団に潜り込んで三十分は経っただろうか。
末端冷え性のせいで氷のような足先では全く布団が暖まらず、私はただただ冴えた頭のまま、小さく小さく身体を丸めていた。
確か、あまりに寝付けないときは一度布団を出て仕切り直しをするといいんだっけ。
遠い記憶の片隅からそんな豆知識を引っ張りだして、もぞもぞと布団から這うようにして転がり出る。
これは、誰から聞いたんだっけ。
ああ、そうだ。
お母さんだ。
昔から、あまり寝るのが上手くなかった私はちょうど今みたいに寝付けずに手持ち無沙汰に横になっていることが多かった。そうして隈を作る私を見かねて、母は色々と調べてくれたのだった。
「また眠くなったら入ればいいのよ。」
そうして寝付けずに意味もなく寝返りをうっていた私をお布団から連れ出して、お母さんは何でもないようにそう言うと、温かいマグカップを手渡してくれた。マグカップの中身は、ほんわりと甘い香りの湯気を立たせるホットミルク。
甘党の私に合わせてたっぷり蜂蜜を溶かしてくれたホットミルクが、冷たい身体に染み渡っていったのを思い出す。一口、またひとくちと、温かいホットミルクが喉を滑る度に、じんわりと心も身体も暖まってゆるゆるとまぶたが重くなっていくのだ。
一人暮らしを始めたから、最近はめっきり飲まなくなっていたけれど、思い出したら無性にあの優しい甘さが恋しくなった。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、蜂蜜の代わりにお砂糖を大さじ一杯掬い入れる。鍋で煮立たせても良いけれど、今日はレンジで温めるだけの簡易版だ。
「ふう……。」
懐かしの味とは少し違うけど、久々のそれはやっぱり甘くて温かくて、お腹の底から熱が広がっていく心地のいい感覚に、ゆっくり息をついた。
次に帰省したら、今度は私が作ってあげようかな。
寒いから、生姜を少し入れてもいいかもしれない。
緩やかに訪れる眠気の中、私はそんなことを考えながら、また一口。懐かしのホットミルクを堪能するのだった。
『眠りにつく前に』