ぎりぎりと目の奥が痛い。
筋肉が張っているのがよく分かる。疲労した身体は灯りを点けるのさえ億劫で、薄暗い部屋の中、液晶の光だけが網膜を刺していた。
ブルーライトカットなんて気休めくらいにしかならないな、けっこういい値段したんだけど。
安いエナドリを飲み干しながらずれた眼鏡を直した。いつの間にか、舌にべったりと残るケミカルな甘さにも慣れてしまっている。
そういえば最後に仮眠を取れたのはいつだったか。
睡眠不足で錆び付いた脳みそでは、そんな他愛のない思考にもなんとも時間がかかる。思い出すのも面倒で、どうでもいいか、とまた液晶に向き直った。
残業もした、それでも仕事が終わらなかったから、こうして持ち帰ってまで仕事をしている。
先輩たちは「繁忙期だから仕方ない」なんて言って笑っていたけれど、その繁忙期っていったいいつまで続くのだろうか。それに、先輩たちは僕よりも残業が少ない気がするのは、それは僕が愚鈍だからなのか、或いは先輩たちの仕事量が僕より少ないのか。
ずきずき、眼痛が酷くなる。
そもそも何で、いま僕はこんなのをやっているんだろう。分かってる、締め切りが近いからだ。それはそうなのだけれど。これって僕じゃなきゃ駄目だったのか? 僕は他にも色々と抱えているのに。「何事も経験だ」とは言うけれど、でも。
目蓋が重たい。
ゆっくりと、目蓋が下がっていく。
まだ終わっていないのに。
しかし身体は言うことを聞かなかった。
落下するみたいに、或いは糸が切れたように、僕の身体は脱力してしまって、そのまま真っ直ぐに意識も途絶える。
ちゅん、ちゅん
ちちちち
雀か何か、小鳥のさえずりが鼓膜を揺らした。
久しく聞いていない可愛らしいアラームの音で、僕は目を覚ます。ぐっ、と伸びをすれば固まりきった筋肉が異音を発した。ひと心地ついてからようやく僕は状況把握に動き出す。まだ脳みそは寝ぼけている。
「今、何時だ……??」
眼鏡を外しながら、液晶に目を向ける。ノーパソのディスプレイの端っこに小さく表示される「11:15」を見つけたとき、リアルに肝がぎゅうっと縮んだのが分かった。
もちろん大遅刻だ。
テキトーに放り出していた鞄からスマホを取り出せば、ずらっと不在着信の通知が画面に並んでいる。
「あぁ……どうしよう……」
ノーパソの前に座り込んだまま、僕は頭を抱えてしまった。薄暗い部屋でぐちゃぐちゃのワイシャツのまま、しばらく呆けていた。何故ならば僕は気づいてしまったから。
辞めたい。
もうあそこで働きたくない。
辛い。
そう叫ぶ自分の心に。
それに気づいてしまったら、無理やり身体を動かすことが出来なくなってしまった。
ちゅん、ちゅん。窓の外は賑やかだ。
閉めきられたカーテンの隙間から射し込む白い光の筋を見る。薄暗い部屋にあそこだけコントラストが生まれていて、綺麗だった。こんなに日光が強いなら外は多分暖かいのだろうな。
「……仕事、辞めようかな。」
気づけば、するんとそんな言葉が僕の唇から滑り出る。無意識で出た物だったけれど、それは確かな形を持っていた。口にしたら、雲に覆われていた心が晴れていくような感覚を覚える。
カーテンを開けば、暖かい日光が網膜を刺す。でもちっとも嫌な感覚じゃない。
不在着信の通知を消して、検索エンジンを開く。
善は急げ、思い立ったが吉日。
やっと息が吸える。
久しぶりに頭がすっきりした。
僕は迷いなく、一つの電話番号に電話をかけた。
『一筋の光』
眠れない。
布団に潜り込んで三十分は経っただろうか。
末端冷え性のせいで氷のような足先では全く布団が暖まらず、私はただただ冴えた頭のまま、小さく小さく身体を丸めていた。
確か、あまりに寝付けないときは一度布団を出て仕切り直しをするといいんだっけ。
遠い記憶の片隅からそんな豆知識を引っ張りだして、もぞもぞと布団から這うようにして転がり出る。
これは、誰から聞いたんだっけ。
ああ、そうだ。
お母さんだ。
昔から、あまり寝るのが上手くなかった私はちょうど今みたいに寝付けずに手持ち無沙汰に横になっていることが多かった。そうして隈を作る私を見かねて、母は色々と調べてくれたのだった。
「また眠くなったら入ればいいのよ。」
そうして寝付けずに意味もなく寝返りをうっていた私をお布団から連れ出して、お母さんは何でもないようにそう言うと、温かいマグカップを手渡してくれた。マグカップの中身は、ほんわりと甘い香りの湯気を立たせるホットミルク。
甘党の私に合わせてたっぷり蜂蜜を溶かしてくれたホットミルクが、冷たい身体に染み渡っていったのを思い出す。一口、またひとくちと、温かいホットミルクが喉を滑る度に、じんわりと心も身体も暖まってゆるゆるとまぶたが重くなっていくのだ。
一人暮らしを始めたから、最近はめっきり飲まなくなっていたけれど、思い出したら無性にあの優しい甘さが恋しくなった。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、蜂蜜の代わりにお砂糖を大さじ一杯掬い入れる。鍋で煮立たせても良いけれど、今日はレンジで温めるだけの簡易版だ。
「ふう……。」
懐かしの味とは少し違うけど、久々のそれはやっぱり甘くて温かくて、お腹の底から熱が広がっていく心地のいい感覚に、ゆっくり息をついた。
次に帰省したら、今度は私が作ってあげようかな。
寒いから、生姜を少し入れてもいいかもしれない。
緩やかに訪れる眠気の中、私はそんなことを考えながら、また一口。懐かしのホットミルクを堪能するのだった。
『眠りにつく前に』
お昼頃から急に振りだした雨はどんどん勢いを強めていって、窓の外をすっかり灰色のカラーフィルムに閉じ込めてしまった。
外を歩く人影はすっかり消えて、寂れた喫茶店じゃ常連さんはおろか、雨宿り客ですら来ない有り様。なんかもう、閑古鳥すら鳴いてないかもしれないくらい、店内は喧騒とはかけ離れた状態になっていた。
このまま雨が降るならもうお客さんは来ないかもしれないな、なんて思ってゆっくり早めの店じまいの支度を始めた頃だ。
お向かいにある、グレーのシャッターがかかって久しい家屋の軒下にぽつんと一人、シャッターよりも濃いグレーの色をしたスーツの男性が立っていた。
けっこうな長身のくせして、あんまりにも静かに、そしてぽつねんと立っているものだから一瞬電柱が増えたのかと思ったが、確かにあれは男性だ。
いかにも社会人という装いの彼の腕にかかっているのは灰色の町中で一際目立つであろう、メロンクリームソーダみたいな模様をしたポップで可愛い傘だった。すごくオーソドックスなビジネススーツに古ぼけたシャッター。灰色に覆いつくされた町中で、鮮やかな緑だけがやたら浮いている。
なぜ、そのチョイス?
というか、何待ち?
店じまいの支度もそこそこに、私はなんだかスーツの彼から目が離せなくなってしまった。スーツの彼というべきか、鮮烈なグリーンと言うべきかは分からないけど。
そして、彼がシャッターの下で雨宿りを始めてから早くも15分を過ぎようか、という時。
ぱしゃぱしゃと水溜まりも気にせずに軽やかに響く足音がした。
「パパー!!」
喜びに上擦った声と共に、ずぶ濡れの小さい女の子が、スーツの彼の元に飛び込む。女の子の手には、大人用の大きなビニール傘が握られていた。
「おかえり。まったく、お前がパパの傘持ってっちゃうから見ろ、パパこんなにびしょびしょだぞ。」
「えー? 可愛い傘でよかったじゃん。ていうか、パパの傘重かった。手疲れちゃった。」
「だからお前もこんなに濡れてんのか……」
苦笑いをしながらも、濡れた前髪をかき分ける手付きはとても優しい。
「これは帰ったらまず風呂だな……」
「えぇー! やだー! お腹すいた!」
そんなことを言いながら、二人は傘を開く。
男性は、シンプルなビニール傘を。女の子は可愛いメロンクリームソーダの傘を。
「あ! パパ、見て!」
「メロンクリームソーダだって!」
女の子がキラキラした顔で指差したのは、雨で片付け損ねていたウチのメニュー看板だった。
「へえー、美味しそうだな。」
「食べたい!」
身体冷やすだろ、なんて言いつつ歩き出そうとするお父さん。しかし最早女の子はさながら水浴びをして固く地面に根を張った草木のように、しっかりと脚を地面に突き立てたまま、看板を指さしつづける。
「食べたい!!!」
「こんなに濡れてたらお店に迷惑かかるだろ。今度また来よう。な?」
「じゃあお店の人に迷惑か聞いてみて!!!」
え、わたし?
いつの間にか、女の子の真ん丸の目はガラス窓越しにしっかりと私の姿を捉えていた。
「お姉さん!! お店入ってもいいですか!!!」
圧がすごい。
なんかもう、顔にメロンクリームソーダと書いてある。幻視が見える。
さて、もちろん迷惑なんてことはあるわけがない。
私は目一杯の歓迎の気持ちを込めて、両腕で大きく丸を描くのだった。
『雨に佇む』
すうっ、と滑らかな手触りの紙の上を、艶のある紅色が滑っていく。つるりとした油性インキの質感。まるで、苺味のキャンディみたい。
貰い物の日記帳に合わせて買った可愛いインクカラーのボールペンで、私は今日あったことを書いていく。
なんか良さげな日記帳を貰えたこと。
新しいペンのインクが可愛いこと。
朝から降ってた雨が、帰る頃にはちょうど止んでたこと。
信号で引っ掛からなかったこと。
夜ご飯が美味しいこと。
今日あった嬉しかったことが、日記帳に溜まって、留まって。
記憶の海に流されないように、たくさん書いた。
なんて胸がぽかぽかする夜なんだろう。
ああ、今日も良い日だった。
『日記帳』
腕を組んで仲睦まじそうに、色とりどりのネオンライトが煌めく歓楽街に消えていく男女二人。
嬉しそうに笑う青年と、目尻を下げた婦女子。
写真の中の二人は、誰が見ても恋人らしくて。
その幸せオーラが憎らしくて奥歯を噛み締めた。
「クロ、ですね。」
数枚に渡って提出された写真の中には、人目を憚らずに唇を重ねている姿が写ったものもある。
「出張ということで、気が緩んだのでしょう。これだけハッキリ写っていれば、証拠能力は充分にあると思われます。」
これを持ち帰ってきた探偵は、淡々と成果についての見解を述べてくれた。女の顔がしっかり撮れてるものもある。これならきっと、女の方にも慰謝料を請求出来るだろう。追加料金を払った分はあると思える、素晴らしい仕事ぶりだった。
「では、後金は口座にお願い致します。」
そう言って探偵はカフェを後にした。
この写真があれば、彼の社会的信用に大きく傷をつけることができる。離婚は当然のこと、彼の会社での居場所さえ、奪うことが出来る。
切り札を手にした。
私は、いつだって勝てる。
だというのに、机の上の紅茶も窓の外も、全部灰色のまま。
悔しい。女に笑いかける顔は、私が好きだった顔のままだった。相手が私から女にスライドしただけ。
それが、何より憎らしい。
もしあの時、
私が落とし物なんてしなければ。
彼に恋なんてしなかったのに。
もし、あの時。
彼の引っ越しに着いていかなければ、そこで縁が切れていたのに。
もし、もしもあの時。
彼の指輪を受け取らなかったら、
もし、もし、もし。
過去に戻れたなら、教えてあげたい。
「あんたが好きなそいつ、とんでもないクズだったよ。」って。
そしたら、こんな苦しい気持ちなんて知らなくてすんだのに。