彼女は人を大事にする人だった。落ち込んでいる人がいれば食事に誘い、それとなく元気づけて。食事に誘われれば喜んでと笑顔で返して。それは男女隔てなく。そんな人柄も勿論好きだったが、彼女が時々他の男のことで頭を悩ませている事に良い気がしないのも事実だった。私は彼女のことだけしか考えていないのに。私ばかり好きなようで、彼女にも私と同じぐらいの思いを持って欲しい。
この彼女に対する明らかに重い感情をバレたくなかった。だからどうにか繕っていた。いい男のふりをしていた。そんな事をしても意味はないと分かっていた。
#不完全な僕
入浴を済ませ、いつもよりも念入りにボディクリームを塗る。ちょっとお高めのコレはこういった類の中では珍しく無香料で、乾くと肌触りがツルツルで気に入っていた。
それから顔に化粧水、乳液、パックをして、彼の毛を乾かしてヘアオイルを塗る。コレも無香料。パックを外して余った液は手に塗りつけて。
次は化粧。いつもより少し華やかに。小ぶりだけど上品なピアスを付けて、それとお揃いのネックレスを付ける。
髪の毛をアイロンで巻いて、この日のために買ったちょっといいワンピースに袖を通す。
髪の毛を後ろ手で括って頸を晒すと後ろから伸びてきた手がワンピースのチャックを背中から上に上げてくれる。最後のホックが首の後ろでプチッと止まった音がした。
「先輩、とても綺麗ですね」
「ありがと」
「ここまでする必要あります?」
「同窓会なんてね、値踏みだよ、値踏み。結婚してるか、子供はいるか、そんな事ばっかりが話題なんだから」
少し落ち着いた色のルージュで唇を彩り終えて、全身鏡で最終チェックする。髪型良し、化粧良し、服良し。
「だから私は、せめていい服着て着飾って今がとっても幸せですってアピールしなきゃいけないの」
「.....成程。ではコレも有効かと」
シュッという音と共に頭上からベールをかぶせる様に嗅ぎ慣れた匂いが降ってくる。高級感のあるムスクの香り。彼がいつも付けている男物の。
「コレは安いものじゃないです。こうする事でアナタにはそこそこのステータスで、そして同窓会に行かせるのでさえこうやってマーキングをするぐらいアナタにゾッコンな恋人が居るのだと分かるでしょう?」
彼は自らの手首にもシュッと一振りしてその手首を私の首や胸元へ擦り付けた。
「...後は、アナタを射止めようと近寄ってくる男共もこのマーキングで近寄れなくなるかと」
「ふふ。ありがと。これで少しは肩身の狭い思いをしなくて済むよ」
抱きつこうとして気づいた。口紅をしていなければ、この可愛い嫉妬と独占欲を見せる恋人に甘い甘いキスをしてやれるのに。私のことが好きだと言葉と行動で表してくれる、本当に彼のそう言うところが私は大好きなのだ。
「じゃあ行ってくるね」
後ろ髪を引かれる思いで玄関の扉に手をかけた。
「待ってください」
振り向くと彼が私の手を取った。
「堂々と同窓会に行ける方法まだ他にもあります」
「ん?どういう事?」
「結婚しましょう」
そう言うとどこからともなく指輪を出して私の薬指にはめた。なんて?ここで?今?いきなりの事に混乱して私の口はぱくぱくと動くだけでまともな言葉が何も出てこない。
「...え?な、なに..?」
「こんな形でプロポーズする事になるとは思いませんでしたが、たった数時間だとしても貴方に肩身の狭い思いだなんて絶対にさせたくありません。返事を聞く前に指にはめてしまってすみません。取り敢えず同窓会の間はこの指輪をつけて行ってくれませんか」
指輪にはまった綺麗なダイヤの指輪。それから目を離し見上げると耳まで赤くなった彼が居た。ああ、もう。
口紅を塗っていた事なんて忘れて彼に飛びついた。
動いた事でふわっと香る彼の匂いが2人を包んだ。
きっと今日は空気が揺れるたびにこの香りが私を幸せな気持ちにしてくれるだろう。
私は返事代わりのキスをした。
「匂いも苗字も君のになっちゃうね」
「ソレ最高ですね」
#香水
もう数日もしないうちに9月だというのに、日中はまだかなり暑い。汗をポタポタと垂らしながらこれでもかと靴底をすり減らしているというのに一件の成果も得られない。
ラジオやテレビ、携帯電話。欲しい情報は簡単に手に入り、ペーパーレスを掲げるこの時代にもはや今更新聞を買う人なんて誰も居ないのではなかろうか。そう思わせるくらいに本当に今日は成果がない。それにこの暑さで心も折れそうだ。
結局今日は一軒も契約してくれる家は無かった。
足はまさに棒の様だ。やっとの思いで自宅マンションに帰り着くと我が部屋に灯りがついている。
あぁ、彼がきているらしい。
玄関を開けると奥から恋人が出てきた。私の顔を見て少し眉毛を下げると優しく抱きしめてくれる。そして手を引っ張ってお風呂場へ。湯船に溜まったお湯に私の好きな入浴剤を入れてくれた。彼が沸かしてくれたお風呂に入る。
リビングに入るとチョイチョイと手招きしている。
それに従ってソファーに座る彼の足の間に座るとブワッと熱風を当てられた。髪をすく彼の指が気持ちいい。手のひらからマイナスイオンでも出ているんだろうか。暫くして髪の毛が乾ききる頃には疲れた心も体もすっかり元通りになっていた。
結局、彼が与えてくれる私への思いやりや優しさ、愛情が疲れた体と心には一番の特効薬なんだと思う。
振り向いて彼に抱きつくと、ふっと笑った彼はいとも簡単に私を抱き上げて彼の膝の上に向かい合わせに跨らせた。そしてその大きい両手で私の額から後頭部へ髪の毛を撫で付ける様にして撫でてくれる。まるで子供にするみたいなやり方。
何も言わずに、ただただ私を甘やかす彼。
「君は私に甘いなぁ」
「彼女を甘やかすのは彼氏の特権でしょう」
「ああ、もう、ホント好き」
今日は本当に、ほとほと疲れ果てた。でも彼に充電100%にしてもらった私はきっと明日も頑張れる。
#言葉はいらない、ただ...
「開けてくれませんか」
3回目のインターホンを無視して暫く、ドアの向こうからトントンと控えめにノックする音の後に、低くて耳触りのいい声が聞こえた。
「居るのでしょう?」
トントントン。先程より大きく戸をノックしている。
「先輩、ドアを開けなさい」
“先輩”と呼んでおきながら“開けなさい”と命令するその矛盾にドキリと心が跳ねて居留守の抵抗虚しくドアを開けた。彼は数センチ開いたドアの隙間にスッと体を滑らせて玄関に入ってきた。
「何故直ぐにドアを開けてくれないんですか」
目の前に立つこの男は180センチを超える長身で150センチの私が上がり框に立っていてもまだ首を後ろに倒して見上げなければならない。
「コレが居留守を使った理由ですか」
彼は私の頬に手を添えた。すっぴんの顔を見られるのは初めてだった。眉毛も描いてないし、そばかすだって隠してない。付き合って日も浅いのにまさか急に家に訪ねてくるなんて...
「恋人が風邪をひいて仕事を休んでいるのだから介抱したいと思うのは当たり前のことでしょう」
真っ直ぐに見下ろしてくる双眸は私の心をいとも簡単に読み取ってしまう。
「こんな事で居留守を使われては堪りませんね。普段の先輩もとても綺麗でいつも見惚れてしまいますが、化粧をしていない先輩は少し幼くなって、その姿は自分しか知らないのだと思うと高揚感が高まります。恥じらうその姿も余りにも可愛らしい。体が万全だったのなら今直ぐにでも抱き潰してしまう所でした」
明け透けな物言いにカッと頬に熱が集まる。
「あれ?顔が赤いですね。熱が上がってしまいましたか?」
態とらしく口角を上げてトボける彼に沸々と怒りが沸いてきた。急に来ただけではなく、私の反応を見て楽しんでる...
「今度から」
「はい?」
「今度から絶対連絡してから来て...」
「何故ですか」
「二度とスッピン見せない」
「すみません。もう揶揄わないからそんな事言わないでください。...あぁ、顔を隠さないで」
「.....」
「顔を見せてください」
「.....」
「.....先輩、コッチを向きなさい」
「ねえ、私があなたの時々敬語が外れるギャップに弱いっていつから知ってたの...?」
「....うわ、スッピン上目遣い本当堪らないですね...先輩早く風邪治してください。抱きたい」
「........もう帰ってよ」
#突然の君の訪問
あの日もこんな雨だった。
晴れていればその煙は龍の様に登って行けただろうに。
数時間経って対面した彼女はもう姿形は何も残っていなかった。あるのは燃え残った骨ばかり。
顔のあたりの小さい骨をツンと指で突いてみる。良かった...壊れなかった。それを指で摘みポッケに隠した。
親族の居なかった彼女の骨は職場の私たちが集めて骨壷に入れた。それを親代わりの上司が大事に抱えた。
こんな事ならさっさとプロポーズして自衛隊だなんてそんな危険な仕事を辞めさせておけば良かった。
10年、ずっとすきだった。何故言葉にしてこなかったのだろう。触れたかった。愛していた。
外に出て空を見上げる。
『ずーっとだいすき』
雨に髪や肩を濡らしながら振り向きざまに言った、彼女の顔が思い出される。
何故直ぐに返事をしなかったのか。いいレストランで、いいシュチュエーションで、なんて変なプライドは捨てて、その場の感情でただ答えればよかったのに。
ポツポツと顔に降り注ぐ粒に隠れる様にしながら涙を流して、ポッケにある彼女のカケラを飲み込んだ。
#雨に佇む