上司の家へほんのちょっと荷物を届けに来ただけなのにあれよあれよという間に家の中へ招かれてソファに座っている。
ケーキと飲み物でも、と出される自分の生活圏内では見ないような繊細さが分かるケーキ、存在だけで優雅さを感じる形の違うポットとカップが2つと2客
ドキリとした。もちろんトキメキなんて甘酸っぱい感情じゃない、ただの飲み物のクセしてペットボトルの紅茶でも、喫茶店の珈琲でも出せない謎の風格を放つ紅茶への緊張である。
背の高いポットからカップに注がれているのはただのお湯
ご婦人曰く紅茶を淹れる前にカップを温めて注いだ時の温度が下がらないようにするらしく、ペットボトルでしか飲み物を買わない自分には「これからお抹茶を立てましょうか」と聞かれているような背筋が伸びる気分である。
注いだカップのお湯はどこへ?と思った心を見透かされたのか2人分のお湯がワイルドに元のポットへ帰って行った。
見慣れた形の急須と言いたくなる形のソレをくるりくるり、手慣れた様子で回していよいよ注がれる赤みを帯びた紅茶
どうぞ、と言われてカップを手に取り香りを楽しむ
……どれみたい、とかあれみたい、とか、よく分かんないけど良い匂いだと思う。だが、肝心なのは味だ…。上司のお宅で奥様が作ってくれた飲み物を残すなんて自分には出来そうにもなく、ゆっくり傾ける間胃がキリキリしてきた。
(違いとか分からないけど良いのか?それよりこれだけ手間暇掛けてもらって口に合わなかったら…)
死ぬ程猫舌なんですよ、誰に聞こえるでもなく言い訳しながら悪足掻きしてみたが、とうとう重力に負けた紅茶は口へ入り喉を通って胃袋へ進む
鼻の奥を通り抜けていく華やかな香り、だが口に残り過ぎず控えめに主張する健気な感じ…!
驚愕だった。感動したのだ。
普段ジャンキーな物しか口にしない自分でもコイツの良さを分かってやれるのかと、だからだろうか……うっかり緩んだネジがIQの下がりきった頭を通り抜けスルッと口から出ていた。
「中々ですね」
馴れ馴れしい言葉遣いにハッとするも奥様は自分の後ろを見つめ上品に微笑んでいる。恐る恐る視線を辿っていけば上司が立っていた。
「お、お邪魔してます…。」
情けなく震える声
気まずい空間に、優雅な香りだけが堂々と漂っている。
『紅茶の香り』
横になってるだけで暑苦しかった夏が徐々に遠のいていく
もう少し早く居なくなって欲しいと言いたくなる文句を飲み込んで、窓の外から流れ込んでくる少し冷たい風に目を細めた
ふと窓から見える木に視線を向ければまだ紅葉には早いらしく、まだまだ青い色をした葉が元気に揺れている。
過ごしやすくなった今なら暑さで憂鬱だった事が何でも出来る。
スポーツの秋、読書の秋、行楽の秋…。
もう少し待てばいつもと同じ道が赤や黄色に色付きやがて落ちた葉が道に化粧を施してくれるのだろう、これもまた秋の醍醐味である。
個人的な事を言えば、好きな果物が秋に多い事から果物の季節でもある。葡萄に桃に梨も美味しいし柿も良い、食べ物といえば果物だけじゃないな、甘いサツマイモや南瓜もそうだが期間限定品のお菓子やケーキも楽しみたい
そうそう、秋なら何を言っても秋刀魚は外せない、炊き立てのご飯に焼いたサンマと少し辛い大根おろしを添えて醤油を掛ければそれだけで秋を満喫できるだろう
そこまで考えた所でぐぅと腹が鳴り我に返った。
あぁ今年も食欲の季節がやって来る。
『秋』
8年ほど前まで、物心がついた時にはもう当たり前のように自分の世界に馴染み、これからも変わらずそこに居続けてくれるのだと漠然と思ってた存在があった。
確かに愛されていたのに、その存在らしくもなく踊りが合ってない、歌が下手と評される事がよくあった人達だ。
個人的には好きも嫌いもなく広告で見かけて「居るんだ」と思ったり耳馴染みのある音楽に安堵したりして袖が触れ合う程度の”ファン未満”
しかし大々的な報道は、その程度の自分ですら胸の中に爆竹でも投げ込まれたようで落ち着かない気分に変えてしまった。
またメディアが勝手言ってるだけでしょ?
色んなものを見えないフリしながら半信半疑でその日を迎えた。
画面の中ではスーツを着た5人が沢山の花に囲まれながら最後の歌を唄い、深々とお辞儀をして幕が落ちていく
葬式にも見えるその様は自分にとっての常識が一つ崩壊した瞬間でもあり、心臓がバクバクと脈打ち鬱陶しい程だった。
ドッキリじゃないの?
まだ疑いながら1日、2日と過ごしたが生憎とまだネタバラシはされていない
あの日から今日まで、数多の人達が世に出て歌い踊っている。正直な所彼等よりも歌や踊りが秀でた人達はいるが、彼等ではない。
時々思い出しては、もう一度歌って踊ってるところを見たいなと思う。
そこまで考えた所で代表曲の歌詞が脳裏を掠め思い至り腑に落ちた。
あぁ、彼等の存在もまた唯一無二の花だったのか
『世界に一つだけ』
自分含めたいつもの3人と最近仲良くなったばかりの1人を加え俺の部屋に集まっていた。
本来なら懐かしのゲーム機を出し、遊び和気藹々とした空気で満たされているはずだったその空間は『一生主食を一つしか食べられないならご飯かパスタか』で白熱していた。
…いや、正確な情報を付け加えるのであれば白熱しているのは前から仲が良かった友人2人だけで、残された2人は困惑しながら眺めているだけである。新顔の友人に至っては可哀想なことに関係値があまり築かれていないのでどこか居心地悪そうな顔さえしている。
始めは米とパスタそのものの長所で討論していた2人だが、今は「米粉パンは米に含まれない」とか「うどんはパスタじゃないだろ」と真面目な顔して一触即発の鋭さすら孕んだ温度で話し合っているのだ。呆れたものである。
ちらり、傍観者の同士と目が合う、言葉が無くても不思議な事に通じ合うものがあった。
そろそろゲームしない?言おうとした所で愚かな2人の会話が途切れ一瞬の静寂が空間を満たした。
ただの静寂ではない、衣擦れすらよく響く静寂だ。
ぐぅ
授業中に鳴る携帯くらい響き渡る腹、ジワジワ熱くなる顔。ただの生理現象で恥ずかしい事じゃない。黙って心の中で言い訳を重ねる自分を見兼ねたのか同士が救いの手を差し伸べてくれた。
「あぁー…。ハンバーガーでも食べに行かない?」
後光が差してる。一生友達で居よう。新たな親友の優しさに感激し信奉者になるかと思った。
『時を告げる』
人気が無くとも歩いてる時にイヤホンやスマホを見ていると注意力が散漫になってる自分に気付いて落ち着かなくなるので不得意だ。
なので、もっぱら歩いてる間はくだらない事ばかり考えて時間を潰している。何気なく地面へ向け、視界に白線が飛び込んで来て連想ゲームの様に幼い頃の記憶を思い出した。
絶対的な安全地帯と日によってマグマかワニの居る川に変わる地面
雑草が回復薬に見えてたし、側溝にはお化けか怪物が潜んでる気がしてた。大雨が降ったって理由もなく胸が躍ったしポツポツ傘に当たる雨粒の音は耳を傾けてるだけでいつの間にか家に着いてるほど夢中になれた。
子供の時は色んな物が特別で、光って見えてたなと考え現実へ戻る。
今はどうなのか、思い返すも休日以上の特別に中々出会えていない…。
数本だけ色の違う素麺にも惹かれなくなり、いつからコンクリートに潜むワニや枕とタオルケットで出来た塹壕が見えなくなってしまっていたのか
考えると物悲しい気分になってしまい、幼い頃の特別に縋りたくなってひっそり白線の上だけを歩いてみる。
どこか気恥ずかしく感じながら安全地帯を探し歩けば、胸の奥で少しだけ何かが光った気がした。
『きらめき』