「キンモクセイ」
横断歩道近くの家に咲いている金木犀が、今年もまたよく香っている。下校時に鼻を近づけ秋を堪能することが、近頃のユズホのブームらしい。
「アキトもやってみろよ〜。いい匂いだから」
隣を歩くのが恥ずかしいからやめてくれと、アキトは軽く肩をどついた。
「しなくても、ここまで臭う」
信号が青になる。二人はまた歩を進める。
いきなり強い風が吹き、アキトは体を震わせた。
いよいよクロゼットからアウターを引っ張り出さなければならない寒さになってきた。二人は身を寄せ合いながら長い一本道をひたすらに歩く。途中、コンビニに寄ってユズホが買ってきた肉まんを一口もらいながら、アキトたちはとにかく歩いた。
まったく。高校から駅までのこの長い道ときたら嫌になってしまう。
「な〜アキト、進路希望なんて書いた?」
「まっさらだよ。まっさら」
「おれも。提出日、明後日だぜ」
進路という言葉を聞くと頭が痛くなる。もう二人は高校二年生、もちろん卒業後について考えなければいけないのはわかっている。でも何を考えればいいのか、どう考えればいいのか、わからない。
「ユズホが働いてるところ想像できない」
ましてや自分が働いてるところなんて。
学校から出て二十分ほどでようやく目的の駅が見えてきた。あと一年半もこの道と付き合って行かねばならないとは。
また風が吹く。次は、どこからか黄色い匂いがした。
――おれ卒業ヤだなあ
ユズホが愁いを帯びた表情で、呟く。
「なんでだよ。卒業したら毎日こんな道歩かなくて済む」
相槌として聞いた。
進路先は決まらない。でもさっさと卒業して、自由になりたいという矛盾を抱えるこの時期は。
内心肯定しつつ、どこかモヤついたまま答えを待つ。
「おれアキトと帰るの好きだぞ。あの金木犀匂えるのも、来年で最後だしさぁ」
――この時期は、高校二年生という時期は、思っているよりも早く終わってしまう。横断歩道の金木犀も、匂いのピークは一週間だ。この生活が終わってほしくない、まだ子供のままでいたい、でも早く大人になってしがらみを感じずに生きたい。
目の前になった建物に入り込む。外よりはやはり暖かい。
「……だからって進路希望書かないワケには、いかないだろうが」
「そ〜だけどぉ……」
三番ホームの、既にできていた列に並ぶ。
いつも通りの帰り道だったが、アキトは少し、いつもとは違うことを考える。
「ま。希望調査だすの明後日だし、とりあえず明日は金木犀匂っとくよ」
「それがいい! あと三日もしたら嗅げなくなるからな」
到着した電車が予想外の満員で、二人はもう一本後を待つことを余儀なくされた。いつもなら学校の話やお互いの趣味の話に花を咲かせるところを、今日はやっぱり変えてみた。
「ユズホは行きたい大学とか――」
#長い#続くかも#お気楽に
今年のBoys project――通称『ボイプロ』は世界各国で、東西南北で、天上天下で、数十年に一度巻き起こるか起こらないかの社会現象となった。ネットのトレンドランキング総なめに始まり、歴代最高視聴率を更新しかけ、各々の「推し」をデビューさせようの会があちらこちらで発端する。番組放送後四ヶ月経ったいまでも勢いは劣ることを知らず、新参アイドルグループ『LIPS』へのファンレターや差し入れ、勿論オファーも絶えない。
仮眠でもとろうかと、ハルヒは控え室に備え付けてあるソファに寝そべる。その際にまざまざと思い出される、あの目まぐるしい一ヶ月間の記憶。
「金のため、億のため、金、億、億万長者……」
まぶたの裏に浮かび上がる、不合格者の涙と無念の表情。そして強く、鮮明に、脳裏に焼き付くサックの嘲り顔。あれはあまり、いい思い出じゃない。
今年のボイプロは、多くの意味で社会を揺るがし、注目を浴びた。始まる前からも既に、終わった後も未だに。そして生まれたLIPSが、その波を不本意か本意か継承していくだろう。
□□□
すごいすごいと周りを駆け回るのはハルヒの妹たち。長女の雪葉と次女の琴子の興奮を落ち着けながらも、自分自身、いま心拍数が三桁いってるのではと思ってしまうくらい高揚していた。
「やーやー書類選考通っただけで、まだなんも始まってないからな」
自分でそうは言いつつ、内心通っただけでも奇跡だと舞い上がっている。
ハルヒはかの人気番組『ボイプロ』に応募した参加者の一人であり、たったいま一次書類選考に受かったというメールが届いたところだった。合格者の顔写真一覧に自分の顔が載っていることに安心しつつ、緊張はより一層高まる。
「じゃあお兄ちゃん、もう来週から合宿いっちゃうんだ。頑張ってね、私学校のみんなにお兄ちゃんのこと広めるから!」
「あ、琴子も琴子も! 絶対お母さんとテレビみるね、ちゃんといっぱいうつってよ?」
はいはいありがとな、と琴子の小さな頭を撫でてやると無邪気な笑みが溢れる。ダイニングでこの様子を見ていた両親も、穏やかな目をして食後のティータイムを嗜んでいた。安い麦茶だが。
「ぜってーアイドルになって、金がっぽがっぽ稼いでお前ら楽にしてやっからな。そしたら毎日いい肉ですき焼き食えっから」
「嬉しいけど、毎日は胃にくるなあ」
父さんがそう言ってみんなで笑い、そうして一段落してからハルヒは自室へ戻った。自室といっても妹二人と一緒の部屋で、ハルヒのスペースは一畳半ほどしかない。いつか二人に自分の部屋を与えてやりてえな、考えてから少し寂しくもなる。ハゲた壁紙をそっとなぞり嬉しさの余韻を噛み締めておく。
裕福かどうかで言えばそんなことないし、貧乏かどうかで言えば貧乏よりの家庭だった。食事も衣服も生活できないほど不自由はしていないが、それはどうにかこうにか全員がやりくりしていたからだ。ハルヒはずっと見てきた、同じ靴を何年も履き続ける母を、服を着まわしている妹たちを、食事を妻と子供に譲る父を、見てきた。見てきて、だから将来は稼げる職に就くと決心したのだ。
――人気アイドルの年収は軽く億いくから
「なんだっけなー億って、ゼロが何個あんだろな」
――マジっすか、おれアイドルなります!
「いち、じゅう、ひゃく、せん……」
――ええ? きみバカだなー、なごむよ
「億個あんだろな、ゼロ。億だし?」
モデルの先輩が教えてくれた、人気アイドルの年収。軽く億。具体的な数字は思いつかないが、億が高いことは知っている。そしてそれだけの財があれば、家族を養えることも理解した。だからハルヒは、アイドルになりたい。
アイドルになる、絶対に。稼いで稼ぎまくって、父と母を、妹たちを養ってやる。
自分が億稼いでデカい豪邸に家族と住み、毎日すき焼きを食べる。そんなことを妄想しながらこの日のハルヒは眠りについた。
□□□
「ほんじゃ、兄ちゃんいってくらあな! おまえら喧嘩すんなよ!」
ガシガシとまた、琴子の頭を撫でてやる。
「しないもーん」
「もーん」
どーだかなと肩をすくめるも、ほんとだもん、もん、というふうに可愛い妹二人は上目遣いにハルヒを睨んだ。どーだかな、だってこいつらは昨日だってテレビの番組があれがいいだのこれがいいだので言い争っていた。まあ、ボイプロが始まればそんな喧嘩なんてしなくなるだろう。
父親から借りたキャリーケースの取手を伸ばす。中にはボイプロ期間中に着る用の服と日用雑貨、それに家族写真が丁寧に仕舞われている。といっても、しまってくれたのは母親だが。
「なあ母ちゃん、おれがすっげー金持ちになったら欲しい服とか靴とか全部買ってやっからな」
「……無理はしないことよ。いってらっしゃい」
――気持ちだけで十分。
本当に謙虚な人だった。ぜってー、なんかすっげえ高えブランドのアレとかコレ買ってやる。欲しがるところなんて想像できないけど。
そうして家族と別れ、バスで目的地へ向かう。今回のボイプロで宿舎として使われる建物へ。確か、そのために国内のホテルをまるまる貸し切ったんだとか。それも、すっげーホテル。
「ホテル、なにがすげーんだっけな。やっぱ全面ガラス張りとか⁉︎」
「そんなホテル泊まるの嫌なんですけど」
「えー……カッケェじゃん。近未来的なさー」
「むしろダサいし、キミ独り言が大きすぎません? ああ隣座るね」
突如として現れた青年が、ハルヒの妄想を一蹴してしまう。そして馴れ馴れしく隣のシートに座った。男の服からだろうか、気持ちのいい上品な匂いが漂っている。こういうのは、「しぷれー」と、言うヤツだった気がする。しぷれーじゃないなら、オリエンテーションみたいなやつだ。
見るとヤツは、小洒落た格好をした若い男だった。一瞬普通の大学生かと思ったが、身につけているアクセサリーはかなり高価なものらしく、こいつはそこそこ金持ち大学生だとハルヒは結論づける。目利きがいいから、そのブレスレットが単体でウン万する代物だとすぐにわかった。
「そもそも全面ガラス張りだとさ、プライバシーが――」
「女風呂覗けんじゃね⁉︎」
「ボーイズプロジェクトですよー」
そうだわなとハルヒが落胆すると、明るい茶髪を揺らしてちょい金持ち大学生は笑った。もっとよく見るとこいつはイケメンだった、結構そこそこの。優しげな目元が、どことなく可愛らしい小型犬を彷彿とさせる。
青く深く
ぼくだって、好きであなたをこんな目に遭わせたわけではありません。
凄惨な家庭環境のなかで頼れるのはぼくしか居なくて、友人関係だって上手くいかなくて、寂しそうなあはたはいつもぼくだけにその愛情を注いでくれました。
ぼくもそんな君を誰よりも愛おしいと感じて、その腕の傷も、捨てられない錠剤のシートも、錆びた剃刀も愛しました。
あなたと抱き合う時、少し痛くしてしまうことがあったのは、反省しています。それでも、愛ですから。
辛そうで、いつも苦しそうで、風邪薬の空き瓶はとうとう二桁を突入しました。
あなたが死にたいと、ぼくに共感を求めるとき、ぼくは頷きますけれど内心恐ろしい。それでも、もう君を楽にしてあげたかった。
二人で。という、幸せな約束を守れませんでした。浴槽で深く、浴槽で、深く眠るあなたに謝りながら、なんとも言えずにいます。
愛してくれてありがとうと、笑うあなたはずるいです。
ぼくもそう、そのままお返ししたいので、どうか聞いてくださいね。
『突然の君の訪問。』 ノンフィクション
ああ、思い出しました。中学二年生の頃。
あなたが電話越しに、自殺を仄めかすものですから。
ぼくは夜の20時過ぎに、風呂上がりで髪も乾かさず、あなたの家に行きましたね。
自転車で十分間。十二月。
馬鹿みたいに寒かったんですよ。
チャイムを鳴らすと、あなたが出てきました。何かと厳しいあなたの両親は、片方は入浴中で、片方は仕事でしたね。
もし扉を開けて出てきたのが母か父かなら、ぼくたちは二人まとめて怒られていたでしょうね。
「ごめん。冗談の、つもりだった」
泣きながらやってきたぼくに、あなたは謝りましたね。
あなたがぼくを見て直ぐに謝った理由くらい、分かりますよ。ぼくが怒っていたからでしょう?
嘘でも「冗談」なんて言えばぼくがもっと怒るとは、思わなかったんですか。
冗談ではないことも、ぼくにはバレバレでしたよ。
あなたが自傷行為をしていること、ぼくが一番初めに気がつきましたよね、そういえば。
ぼくはお前のリスカとODについて、
「したいならすればいいんじゃねーの」
とまるで興味のなさそうに言いました。
あなたがぼくに求めていたのは「そんなことやめろ」なんて言葉ではなかったのでしょう?
そんな自分でも友人でいて欲しかったのでしょう。
バレバレですよばーーーーーーーーか。
あなたの家に行った夜の、次の日でしたね。
ぼくはお前を一発殴りましたね。力のないぼくのグーですから、あまり痛くはなかったはずです。
クソッタレなお前は殴られても笑ってたから、今回は止めて欲しかったんだなって。
そんなお前に一月前、ぼくは言いましたね。
「高校卒業までに、死ぬのが目標」
仮にぼくがあなたに電話で自殺を仄めかすことがあったとしても、あなたはぼくの家には駆けつけてくれないでしょうね。
その代わり、気持ち悪いくらい電話をよこすのでしょう?
ぼくはお前の考えていることは、大体わかります。
お前もきっとそうなんだろうな。
「お〜、死んでみろよ止めてやるから」
ぼくらはよく似てるから、お互いに引けませんね。
お前にだけは絶対に負けたくないので、絶対に死んでやりますよ。
ぼくには負けたくないのでしょうどうせ。何かと張り合ってくるお前のことですから。
ぼくが居ないとお前の人生は一気につまらなくなるでしょうから、まあ、止めたいなら止めておけばいいんじゃないんですか。
馬鹿野郎、別に止めて欲しいわけじゃないです。
『海へ』
母なる海とは言いますが、残念怨念もう勘弁、ぼくには母親の記憶がありません。
もし母が浮気をしていなければ、父と離婚しなければ、仮定の話をしたならば。
ぼくはきっと母に見守られながら、浮き輪に乗って揺られるのでしょう。
揺られた後は三人でパラソルの下、おにぎりなんか頬張るのでしょう。
頬張った後は、なんでしょう。
あなたの顔も、ぼくは知らない。
あなたはそう、ぼくを捨てた──
つもりは勿論ないのでしょう。
母といま海に行くとしたら、ぼくは思わずあなたを。
母なる海とか、なんとか、言いますから。
海へおかえりなさい。おかあさん (笑)