夜の海
僕が音楽を始めた理由はごく一般的だ。
ベートーヴェンの月光に惚れたから。
知っての通り月光はピアノソナタであるから、僕が一番最初に触れた楽器はピアノである。しかし始めたもののグランドピアノで弾けるのは先生の家のみ。日本の狭い家にはグランドピアノなど置けないのだ。
そんなある日、先生から友達を紹介してもらった。
今でこそ彼が偉大な人だとわかるが、当時は夜中に爆音を掻き鳴らすヤンキーのような見た目に腰を抜かした。
だが、彼の話した言葉の全てを僕は忘れていない。
何よりヴァイオリンを始めるきっかけは彼にあったからだ。
彼の名はエリック・フィッシャー。
世界三大コンクールの1つ、エリザベート王妃国際音楽コンクールで審査員を逃げた男だ。しかし間違いなく歴史に名を残すであろうヴァイオリニスト。
僕の師であり、人生の大半を共に過ごした友人で自称ベートーヴェンの子孫だ。なんともまあ、ふざけた人である。
「エリック!!」
「どうした」
「どうしたじゃない。何度言えばわかるんだ。日本では靴を脱いでから家に上がるんだ」
彼の足にはピカピカに磨かれた茶色の革靴がある。
「ふむ。私も尋ねるが、ケイは裸足でヴァイオリンを弾くのかい? そんなわけないだろう?」
確かにヴァイオリンを裸足で弾くことはない。
だが、それで土足を許すわけにもいかないのだ。
自分の意見を決して曲げない男には僕が折れるしかない。だから、どうでもいい布をエリックに投げた。
「せめて靴の裏を拭いてくれ」
「失礼した」
そう言うと泥の一つも残さぬよう丁寧に拭き上げるのだから憎めないやつである。
僕がヴァイオリンのメンテナンスを始めると、エリックは自身のヴァイオリンを取り出した。彼は一目僕に向けると、弓を激しく動かした。
ベートーヴェンの月光、第3楽章。
僕と彼を繋いだ曲であり、ヴァイオリンに惚れた曲である。
彼の奏でる月光は華がある。
夜の海を眩しいくらいに照らす月が見えるほど。
海の底まで照らす月光に僕は憧れた。
「さあ、ケイ。レッスンを始めよう」
彼と僕はヴァイオリンでしか語り合えないのだ。
自転車に乗って
「ダメだったなあ」
コンクール会場から少し離れた橋にもたれかかり、空を見ていた。速い動きをみせる雲からわかるように風の強い日だった。ヴァイオリンケースに挟む2位の賞状がパタパタと揺れる。
あと少しすれば賞状は風に飛ばされるだろう。
それでも良かった。
「あ...いた」
「あ」
自転車に乗って僕の前に止まるのは村田ひな。
コンクールで1位を取った天才ヴァイオリニストさんだ。
それにしてもなぜ自転車なのか? 彼女は同じアパートの隣人だが、ここからアパートまで車で40分の距離がある。
「どうして自転車なんだ?」
「体力作り」
やはり彼女はストイックだ。結果は必然なのだ。
「そんなことどうでもいい。どうして逃げたの」
気づくと彼女の目は僕に怒りをぶつけていた。
怒られることなどしていない。なんなら逃げてもいない。
だから少し怒りが伝播した。
「逃げてない。真剣に戦って負けた。何を怒ってるのかさっぱりわからないね」
「ふざけないで。あなたはいつまで経っても…!!」
「そう。いつまで経っても2位。君の下。シルバーコレクターとはまさに僕のことさ」
「違う。わかってない。何も!」
彼女は地面を強く蹴って自転車を走らせる。
その方角はアパートとは真反対。
そういえば彼女はアパートが家ではないのだ。ただ練習をするためアパートに来ていただけ。
「今夜は静かに眠れそうかな」
彼女の顔が頭を過ぎる。
コンクールで見せた笑顔、僕に向ける鋭い眼差し。わかってないと叱る顔。その全てがなぜか頭から離れない。彼女と言葉を交わすことなんて、今までほとんどなかったのに。
彼女が僕に関われば関わるほど、ふつふつと腹の底で何かがうごめくのを感じた。
「勝ちたかった」
僕はヴァイオリンと賞状を持って早足でその場を離れる。
無意識に出た言葉を忘れたかった。
自宅へ帰る。
彼女とは反対の方向へ僕は歩き出した。
心の健康
乾いた空気がひやりと頬を撫でる。埃くさい香りのコンクール会場はたゆたう眠気に包まれていた。
それもこれも同じ曲の連続が災いした結果と言える。
しかしこの環境もいつも通り。
もちろん、彼女の登壇で引き締まる空気もいつも通り。
赤赤しいノースリーブドレスと長い栗毛は彼女のシンボルである。赤く艶のあるヴァイオリンを片手にピアノの前に立った。
——演奏No.30 ヴァイオリン部門 プロの部 村田ひなさん。ヴィエニャフスキ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品14より第1楽章。
技巧派で知られるヴィエニャフスキの曲を選んだのは彼女自身の長所を見せるためだと思った。
しかし違った。彼女は戦うために選んだのだ。
彼女はピアニストとともに一礼をするとニコリと笑って見せる。緊張感が張り詰める会場に安堵が流れた。
気を許していいという合図に会場がリラックスする。そして彼女の曲を心から求め始めた。
——ポロロン
曲が始まると、いとも簡単に弦を弾いて見せる。
会場にいる観客は巧みで情熱的なヴィエニャフスキに心躍らせた。それに対して審査員含めた我々プロたちは瞬きすらも出来なかった。
「あの曲をあんなにも簡単に——」
近くで見ていたプロの誰かから聞こえた。
とある偉大な作曲家が言った。
"音楽っていうのは96%まで技術です。"と
しかし彼女はその4%をも実力で手繰り寄せた。
100%の演奏。それが僕たちの感想だった。
そして曲が終わる。
拍手で会場が大きく揺れた。確かに揺れた。
舞台袖に捌ける彼女の顔は昨晩見せた鋭い眼差しに戻っている。一瞬僕に向けられた視線は何を意味するのか、それを考えている内に出番がやってきた。
僕が弾く曲。
——演奏No.46 ヴァイオリン部門 プロの部 高尾圭さん。パガニーニ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 作品7より第3楽章 ラ・カンパネラ。
悪魔に魂を売った同じく技巧派パガニーニの名曲。
最高難易度のこの曲を弾かねばならない。
緊張が走る。
しかし彼女の向けた眼差しを思い出す。
ドクドクと胸が躍り始める。
彼女の弾いたヴィエニャフスキが、幾度となく比較されたパガニーニ。その曲で戦えるからだ。
彼女は会場を味方につけて100%の演奏をした。けれども怯える必要はない。初めからわかっていたことじゃないか。幾度となく彼女に負け続け、比較された僕はチャレンジャーなのだ。
だから技術で100%の演奏をしてみせよう。
それこそ僕の戦い方だから。
緊張により荒れ果てた心に平穏が戻る。
彼女のように笑顔を見せることはできない。
ただ、真っ直ぐ戦おう。彼女のように。
逃げることは許さない。
きっとそれが彼女の向けた視線の意味だ。
弓が弦を走った。
君の奏でる音楽
今音楽を始めるなら楽器は何を選ぶか?
ギーコギーコ
大抵の人が好きな音楽のジャンルで選ぶだろう。
キィーーー!
しかし僕は言いたい。
「練習しやすい楽器を選べよ!!」と
ワンルームのアパート、都内駅近で月3万。内装も綺麗で築5年。二階建ての角部屋に僕は住んでいる。住人は僕含め2人の寂しいアパート。しかし当然大島てるにも載っていない。空き部屋が多い理由は大家のプロモーション下手が理由だろう。
だが違う理由があったと、入居して気がついた。
二階に住む1人の住人が一日中ヴァイオリンを弾き続けるのだ。運の悪いことに隣の部屋で。夜だけはやめさせて欲しいと大家に言うも、変化の一つも見せない。
それはなぜか。
隣人は大家の姪なのだ。
つまりこのアパートはハズレ物件である。
「頼むから寝かせてくれ!」
いつもなら耳栓をして寝るのだが、今日は何だか寝付きが悪い。明日の予定に胸をざわつかせる自分が信じられない。
ただ、明日の不安が頭をよぎり胸が苦しくなる。
さらに耳栓をしても聞こえる音が胸をむかつかせ、苛立ちは頂点を迎えた。
ドンドン
強く壁を叩く。
きぃーこきぃーこ
「小さくなってもうるさいんだよ!」
声を荒げても音は止まない。
僕は布団から出るとサンダルを履いて、隣人の扉を叩く。
「夜中までやる必要はないだろ! 頼むから辞めてくれ」
刹那、夜は静けさを取り戻す。
安堵して部屋に戻ると扉が開いた。
今回みたく扉を叩くことは数回あった。しかし、そのいずれも音が止むだけで扉は開かなかった。それゆえ僕も足を止めてしまう。
開いた扉を見つめ、ふと思う。
そういえば隣人の顔を見たことがない。その姿すら見たことがなかったのだ。そのため直接文句を言う機会もなかった。
しかし、今その機会は訪れた。
だから僕は踵を返し、隣人の部屋を覗く。
目つきの悪い顔だ。染めムラのある長い栗毛はボサボサ。雑巾のようなボロ切れを着て、右手には忌まわしきヴァイオリン。左にはそれを弾く弓を持って世闇を見据えていた。
「……何」
鈴の音を転がしたような声。
「……」
「だから何」
戸惑う僕に再度問う。
「音下げてやったでしょ」
僕にその声は聞こえていなかった。
彼女の先——彼女の部屋に目を奪われていたからだ。
山のようにトロフィーが捨ててある。部屋には吸音材が貼られ、無機質な部屋。小さなアンプと楽譜立てが置いてあるのみ。
一目でわかる。
彼女はここで生活をしていない。ただ練習しているのだ。
そこで扉が閉じられた。
彼女は部屋の前にいる。
「部屋覗かないでくれる?」
「あ、ごめ——」
「で、なに?」
彼女の顔を見て更に後退りした。
「え? なに?」
「いや、何でもない——」
小首を傾げる彼女を横目に僕は自分の部屋に戻って、扉の前に座り込んだ。
気づいてしまった。
彼女は僕と同世代の天才ヴァイオリニスト、村田ひな。明日のコンクールで戦うライバルであり、常に負け続けた因縁の相手。
そんな彼女は僕の隣にいた。
そして僕は知ってしまった。
休む暇なく毎日弾き続ける彼女の姿を——
頭にそれが過ぎると背中に冷たい汗が流れる。
直ちに自分のヴァイオリンを構え、一心不乱に弾き続ける。
彼女の奏でる音楽が耳に入らないよう——汚く下品に。