坊主

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君の奏でる音楽

 今音楽を始めるなら楽器は何を選ぶか?
 ギーコギーコ
 大抵の人が好きな音楽のジャンルで選ぶだろう。
 キィーーー!
 しかし僕は言いたい。
「練習しやすい楽器を選べよ!!」と
 ワンルームのアパート、都内駅近で月3万。内装も綺麗で築5年。二階建ての角部屋に僕は住んでいる。住人は僕含め2人の寂しいアパート。しかし当然大島てるにも載っていない。空き部屋が多い理由は大家のプロモーション下手が理由だろう。
 だが違う理由があったと、入居して気がついた。
 二階に住む1人の住人が一日中ヴァイオリンを弾き続けるのだ。運の悪いことに隣の部屋で。夜だけはやめさせて欲しいと大家に言うも、変化の一つも見せない。
 それはなぜか。
 隣人は大家の姪なのだ。
 つまりこのアパートはハズレ物件である。
「頼むから寝かせてくれ!」
 いつもなら耳栓をして寝るのだが、今日は何だか寝付きが悪い。明日の予定に胸をざわつかせる自分が信じられない。
 ただ、明日の不安が頭をよぎり胸が苦しくなる。
 さらに耳栓をしても聞こえる音が胸をむかつかせ、苛立ちは頂点を迎えた。
 ドンドン
 強く壁を叩く。
 きぃーこきぃーこ
「小さくなってもうるさいんだよ!」
 声を荒げても音は止まない。
 僕は布団から出るとサンダルを履いて、隣人の扉を叩く。
「夜中までやる必要はないだろ! 頼むから辞めてくれ」
 刹那、夜は静けさを取り戻す。
 安堵して部屋に戻ると扉が開いた。
 今回みたく扉を叩くことは数回あった。しかし、そのいずれも音が止むだけで扉は開かなかった。それゆえ僕も足を止めてしまう。
 開いた扉を見つめ、ふと思う。
 そういえば隣人の顔を見たことがない。その姿すら見たことがなかったのだ。そのため直接文句を言う機会もなかった。
 しかし、今その機会は訪れた。
 だから僕は踵を返し、隣人の部屋を覗く。
 目つきの悪い顔だ。染めムラのある長い栗毛はボサボサ。雑巾のようなボロ切れを着て、右手には忌まわしきヴァイオリン。左にはそれを弾く弓を持って世闇を見据えていた。
「……何」
 鈴の音を転がしたような声。
「……」
「だから何」
 戸惑う僕に再度問う。
「音下げてやったでしょ」
 僕にその声は聞こえていなかった。
 彼女の先——彼女の部屋に目を奪われていたからだ。
 山のようにトロフィーが捨ててある。部屋には吸音材が貼られ、無機質な部屋。小さなアンプと楽譜立てが置いてあるのみ。
 一目でわかる。
 彼女はここで生活をしていない。ただ練習しているのだ。
 そこで扉が閉じられた。
 彼女は部屋の前にいる。
「部屋覗かないでくれる?」
「あ、ごめ——」
「で、なに?」
 彼女の顔を見て更に後退りした。
「え? なに?」
「いや、何でもない——」
 小首を傾げる彼女を横目に僕は自分の部屋に戻って、扉の前に座り込んだ。
 気づいてしまった。
 彼女は僕と同世代の天才ヴァイオリニスト、村田ひな。明日のコンクールで戦うライバルであり、常に負け続けた因縁の相手。
 そんな彼女は僕の隣にいた。
 そして僕は知ってしまった。
 休む暇なく毎日弾き続ける彼女の姿を——
 頭にそれが過ぎると背中に冷たい汗が流れる。
 直ちに自分のヴァイオリンを構え、一心不乱に弾き続ける。
 彼女の奏でる音楽が耳に入らないよう——汚く下品に。

8/13/2024, 5:34:43 AM