坊主

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心の健康

 乾いた空気がひやりと頬を撫でる。埃くさい香りのコンクール会場はたゆたう眠気に包まれていた。
 それもこれも同じ曲の連続が災いした結果と言える。
 しかしこの環境もいつも通り。
 もちろん、彼女の登壇で引き締まる空気もいつも通り。
 赤赤しいノースリーブドレスと長い栗毛は彼女のシンボルである。赤く艶のあるヴァイオリンを片手にピアノの前に立った。

 ——演奏No.30 ヴァイオリン部門 プロの部 村田ひなさん。ヴィエニャフスキ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品14より第1楽章。

 技巧派で知られるヴィエニャフスキの曲を選んだのは彼女自身の長所を見せるためだと思った。
 しかし違った。彼女は戦うために選んだのだ。
 彼女はピアニストとともに一礼をするとニコリと笑って見せる。緊張感が張り詰める会場に安堵が流れた。
 気を許していいという合図に会場がリラックスする。そして彼女の曲を心から求め始めた。

 ——ポロロン

 曲が始まると、いとも簡単に弦を弾いて見せる。
 会場にいる観客は巧みで情熱的なヴィエニャフスキに心躍らせた。それに対して審査員含めた我々プロたちは瞬きすらも出来なかった。
「あの曲をあんなにも簡単に——」
 近くで見ていたプロの誰かから聞こえた。
 とある偉大な作曲家が言った。
 "音楽っていうのは96%まで技術です。"と
 しかし彼女はその4%をも実力で手繰り寄せた。
 100%の演奏。それが僕たちの感想だった。

 そして曲が終わる。
 拍手で会場が大きく揺れた。確かに揺れた。
 舞台袖に捌ける彼女の顔は昨晩見せた鋭い眼差しに戻っている。一瞬僕に向けられた視線は何を意味するのか、それを考えている内に出番がやってきた。

 僕が弾く曲。
 
 ——演奏No.46 ヴァイオリン部門 プロの部 高尾圭さん。パガニーニ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 作品7より第3楽章 ラ・カンパネラ。
 
 悪魔に魂を売った同じく技巧派パガニーニの名曲。
 最高難易度のこの曲を弾かねばならない。
 
 緊張が走る。

 しかし彼女の向けた眼差しを思い出す。
 ドクドクと胸が躍り始める。

 彼女の弾いたヴィエニャフスキが、幾度となく比較されたパガニーニ。その曲で戦えるからだ。
 彼女は会場を味方につけて100%の演奏をした。けれども怯える必要はない。初めからわかっていたことじゃないか。幾度となく彼女に負け続け、比較された僕はチャレンジャーなのだ。

 だから技術で100%の演奏をしてみせよう。
 それこそ僕の戦い方だから。
 緊張により荒れ果てた心に平穏が戻る。
 彼女のように笑顔を見せることはできない。
 ただ、真っ直ぐ戦おう。彼女のように。

 逃げることは許さない。
 きっとそれが彼女の向けた視線の意味だ。
 
 弓が弦を走った。
 
 

8/14/2024, 9:01:48 AM