並々と愛を注いだコップを飲んで飲んで飲んで、
半分残った時に愛されているとまだ思えるのか?
「愛を注いで」 白米おこめ
後輩は、何でもないふりが得意だった。
嫌味な上司に理不尽に怒られているのを見かけて、
咄嗟に割り込んでは庇ったことが何回かあった。
ほとぼりが冷めた頃、様子を探るように話を聞くと、
彼女は決まって「庇ってもらってすみません」と
申し訳なさそうに笑った。
定時であがりたいだけの人に仕事を押し付けられて、
二人で残業をしている時も彼女は愚痴を言わなかった。
それどころか、「手伝いましょうか」だなんて山積みに
なった自分のデスクを指差して気遣うように笑ってみせた。
いつ聞いても、彼女は決まって「大丈夫ですよ」と答えた。
名ばかりの教育係で、まともな事一つも教えられない自分を
気遣ってくれていることには、薄らと気がついていた。
定時を2時間ほど過ぎた頃、彼女は給湯室で紙コップを2つ手にとった。一つをコーヒーメーカーに置いて、迷わずにブラックのボタンを押す。静かな空間にコーヒーの注がれる音が流れはじめて数秒、彼女はぽつりと声を零した。
間違えた、と。
淹れ終わった後も切れ悪く出続けるコーヒーの滴下を眺めながら、彼女が溜息をつく。もう片方に持っていた空のコップをコーヒーメーカーの横に置いて、机にもたれかかる。
彼女がコーヒーを淹れるところは何回か見た事があるが、好んで飲んでいるのは紅茶だった気がする、と何となくいつもの残業風景を思い出す。自分の僻見もあるだろうが、彼女がコーヒーを淹れる時は、いつも…と、機械に置かれたままの紙コップを懐かしく眺めていると、そのコップを彼女がするりと取り出した。
そうして、ぐ、と一気に煽った。ブラックなんてよく飲めますね、だなんて言われた過去の記憶を疑っていると、飲みきった彼女が思いっきり顔を顰める。にが、だなんて呟いて紙コップをゴミ箱へ捨てる姿に、子供っぽさを感じて面食らう。こんなに負の感情を出している彼女を、自分は初めて見た気がする。見せてくれなかったのか、それとも、単に自分が引き出せなかっただけなのか。こんなの飲んでたら寝不足にもなるなあ、だなんて言いながら口直しだろう紅茶を淹れる姿に、なぜだか酷く心が揺らいだ。すり、と自分の目の下に残っているであろう濃い隈を撫でる。自分に向かって言っている、んだと思った。流石に、自意識過剰ではないと信じたかった。
彼女はそんな事も知らずにティーバッグをゆるゆると揺らして、溶け出していく色を静かに眺めている。濃くなったカップの底からバッグを持ち上げて、コーヒーと同じようにぽたりと垂れる水滴を眺めていた。
「…気づけなかったなあ」
また、ぽつりと言葉を呟く。
その言葉のように、ティーバッグから落ちる水滴のように、彼女の目から涙があふれてこぼれた。
息が詰まる。焦った心のまま、
咄嗟に指先でその涙を拭おうとして、
指がずるりと頬をすり抜けた。
「…本当に、大丈夫だったんですよ」
ぐす、と鼻を鳴らして、彼女が紙コップを掴む。
不安定な力が入って、中の水面がぐらりと揺れた。
何でもないふりが、得意だったのは。
「何でもないフリ」 白米おこめ
部屋の片隅に立つ、
貴方のそばに近づく度に心臓が高鳴っていく。
Andante, Andantino, Allegro, Presto.
一歩ずつ、一歩ずつ。
目が合わせられず、ただ貴方の顔をちらりと見ては
目を外して、忙しなくその視界を泳がせて。
まるで自分の眼がレンズになったようだった。
眼の中で動画が流れているような、流れる映像の“枠”が
ないことの違和感だけがずっと残るような。
信じられなくて、夢のようで、よく分からない。
握った手は細く、冷たく、大きくて。
私の着けている指輪が彼の手の肉と私の手の肉で挟まれた、
その感覚だけが現実にあった。
それ以外は全て、幻のようだった。
手を離してすり抜けていくその感覚一つですら、
霧のようだった。
それは部屋の片隅であった話。
内緒話のような触れ合い。ささやかで小さなFermate.
部屋の片隅から離れていく。
andante,and.
「部屋の片隅で」 白米おこめ(遅刻)
geschmackvoll!
つんのめって逆さまに落っこちた後。
頭上に広がる蒼の中で、
鰯の群れは優雅に泳いでいた。
横を見れば、沢山のガラスのその奥に
私を見つめる人の姿が見える。
通過列車のような速度で、断続的に見える目。
数十メートルの水槽の中に投げ入れられた鰯。
群れから逸れた鰯。可哀想な鰯。
昼放課は餌やりの時間。
空の鰯の群れにもなれず、
冷たいコンクリートに食べられる迄。
「逆さま」 白米おこめ
“日記をつける”というと、
夢日記と、現実の日記の二つがある。
でも、両方つけている人っているんだろうか。
面倒くさいからかもしれないけど、
無意識に人は「どちらが大切なのか」を
考えて、どちらかを切り捨てているのかもしれない。
このアプリは、夢をかける現実の日記。
なんて良いものを手に入れたんでしょうね、私たちは。
「夢と現実」 白米おこめ