「あっ!」
つるり、と手が滑った。がちゃん、と音が鳴った時にはもうお気に入りのマグカップは見るも無惨な姿になっている。
「やってしまった……」
洗剤というものは、洗う時に必須なくせヌメヌメしているところが良くないと思う。反省して欲しい。もっとサラサラの洗剤とか、出すべきなんじゃないだろうか。そんな風に世の洗剤に対して文句を並べながら、指を切らないように気をつけつつ破片を片付ける。
片付けながら、ふとこのマグカップが貰いものだった事を思い出して手が止まる。自分で買うようなデザインではなかっが、どこか気に入っていた。バラバラになってしまった破片の模様を眺めながら、これをくれたのは誰だったかと思い出そうとする。自分の身近な友人だったら流石に覚えているはず…だと思う。多分。マグカップ自体は何年も使っているので、貰ったのはもう随分と昔の話だ。何かが引っ掛かるような、どこか絶妙に思い出せそうな気がして、私は頭を捻る。
中学か、高校か。このマグカップと一緒に受験を頑張ったような記憶があった。こいつと一緒に過ごした時間は思い出せるのに、肝心の初対面が思い出せない。長く過ごした友人のようだ。そんな風に考えていると、唐突にこれを渡された時に言われた言葉を思い出す。
「これ、貰いものだから君にあげるよ」
ぼやーっとしているが、誰かの輪郭が見えた気がした。朧げだが、制服的に中学の頃だろう。もう少し思い出せば特定できそうだ。無理なら卒業アルバムを開くまでだが、ここまで来たらノーヒントで思い出したくて、さらにか細い記憶の糸を辿っていく。渡されたシチュエーションとか、どうだったか。
なんか、確か、体良く押し付けられたような気がする。もしそうじゃなかったら、私は性格的に人から貰ったものをこんなに使い倒せない。マグカップとか、それこそ割ったらお終いだし。いや、現に今割ってしまっているのだけれど。
割れた破片の白色が、あの頃の制服の白色と重なった。
「……要らないって言われても返品は不可だからねぇ。そうだな、まぁ俺だと思って大切にしてくれると嬉しい」
ぽん、とマグカップを剥き身の姿で渡される。普通箱とかに入っているもんじゃないだろうか。せめてプチプチが欲しい。つい反射的に受け取った後、どういう事だと問えばさっきのトンチンカンな返事がかえってきたんだったか。
…よくよく考えて、一人の男の子にたどり着く。私と委員会が同じだった先輩と、よく一緒にいた人だ。先輩と一緒にいる時に会話をすることも少なくなかったが、それでも二人だけで話した事は数える程しかなくて。少なくとも、何かプレゼントを貰う程親しくはなかった。当時、心底不思議に思ったのを覚えている。それでも、その先輩は私が掴めるような人物ではなかったというか、とにかく飄々としていて、まぁなんか、意味があるようなないような、それすらも掴ませてくれない人だった。マグカップの柄がすこし可愛らしかったので、同級生や男友達にあげるのには躊躇った、だから女子かつ後輩である私を選んだと、そのぐらいだろうと思っていた。
「それと。一生に一度の、俺からのお願い。そのマグカップは実際に使って。間違えても、棚の中で埃を被るなんて事ないように」
だから、そう言われた時は驚いた。釘を刺すようにつんとマグカップを指先で突いて、先輩は私としっかり目を合わせた。あまり人と目を合わせるようなタイプでは無いと思っていたし、今まで合うこともなかったので動揺から目を逸らしてしまう。揺らいだ心のまま、私はある懸念点を伝えたのだった。
「…私絶対に使ってる内に割りますよ?」
「ん?…うん、俺、君に割って欲しいからね」
私の返答をまるで読んでいたかのように、先輩はさらりと言葉を返す。いや貴方さっき“俺だと思って”って言ってなかったか。割ってええんかい…とツッコみそうになったが、再び見上げた先輩の表情が思ったよりも儚げで、憂いに帯びているような目をしていて口を閉ざす。
「君、不器用だし。洗っている時にでも手を滑らして、いつか派手に割ってくれると思ってさ」
「酷い言われようですけど、自分でもそう思います。でも、だったら尚更なんで使って欲しいんですか?そりゃ、マグカップ的には使った方がいいんでしょうけど」
小物入れとか、別に飲み物を飲む以外の使用法もあるだろう。でも、先輩は“実際に”使ってくれと言った。飲み物を淹れるのに使って欲しいと、そういうことだと思った。
「…人から貰った物を割れば、優しい君はそれをくれたのは誰だったか思い出してくれる……なんて。ただの賭けだよ」
ふと、寂しそうに先輩は笑った。初めて見た表情なのに、嫌になる程それが似合っていて、胸が苦しくなる。その後、呟くように「君は俺の事、好きでも嫌いでもないでしょ」と言われて私は固まった。否定しようとして、言葉は出なかった。否定しきれなかった。その通りだった。私にとって、彼は先輩の友人であって、それ以外の枠に当て嵌めようとした事もなかった。
「言っても困らせると分かってる事を、わざわざ言うつもりはないし。…ただね」
先輩の手が、私の頭をゆるりと撫でる。
「俺なんて忘れて幸せになって欲しい気もするし、ずっと忘れて欲しくないような気もする。…だから賭け。マグカップが割れた時に、俺を思い出すか否か」
先輩が紡ぐ言葉は全部衝撃的で、私は反射でマグカップを落とさないように、ぎゅっと両手で掴んでいた。今落として堪るかと思った。先輩はそれに気づいたのか、撫でていた手を止める。今になって、愛おしそうな目を微塵も隠さずに見つめながら、そっと囁いた。
「…君は、どっちに賭ける?」
気づけば、私は泣いていた。キッチンのシンクの泡に、零れ落ちた涙が当たってじわりと萎む。視界に入る破片が滲んだ。落としてしまった。割ってしまった。…それでも、思い出したのだ。私は、彼を思い出した。
酷く残酷な賭けだ。例え賭けに勝っても、彼には何の利益もない。胸が苦しくてどうしようもなかった。…ねぇ、先輩。私、やっぱり割りましたよ。それでも、かなり持ったほうだと思います。だって、先輩とのこと、すっかり忘れてましたから。賭けの結果、知りたくないですか。
そんな事を言えたら、どんなに良かっただろうか。連絡手段など何もないのに、伝えたい言葉だけが溢れるように脳内を占めていく。
滲んだ視界のまま、マグカップの欠片を丁寧に集める。細かい破片一つ残さないように拾い上げて、思ったよりも数が少ない事に気づいてある事を思いつく。やれないことはない。
…後日行った金継ぎ体験で、先輩のことを思い出しながらマグカップを直した。それでも、当たり前だけれど同じ姿にはならなかった。とんでもない置き土産を残したなと思いながら、私はまた、マグカップに飲み物を淹れた。
ああ、先輩だと思って、今更大切にしながら。
『マグカップ』 白米おこめ
雨上がりの空に傘を差しちゃいけないなんて誰が言ったの?
あなたが持ってきてくれたのなら、
私いつでも太陽に背いてみせるの
「雨上がり」 白米おこめ
一騎打ちだ、と思った。
一つ前のターンで、自分の手札を指定して見た彼女との。
自分の手元にある“犯人”のカードを、
彼女は表情を崩さずに見ていた。
今の俺に尽くす手はない。残り一枚となった手札では、ただ自分のターンが来るまで手をこまねいて待つしかなかった。ひとり、またひとりとカードを場に出していく。一人が探偵を出して、迷った末に俺ではない人を指差して犯人だと宣言する。違うと言われて盛り上がる人々の中、犯人を探すリアクションを適当にしながら彼女を盗み見る。
その時ばちりと彼女と目が合って、俺だけに見えるような目元だけの笑みを返された、気がした。
その間もターンは過ぎる。“アリバイ”のカード。運悪く誰もカードを交換する手札を出さない。また一人カードを出す。一人と指定してカードを交換する。俺は選ばれない。
心臓が鳴る。彼女の手番が近づく。
彼女は、決まっていたかのように
持ち札の左側のカードを場に出した。
「犯人が勝つに1票」
テーブルに置かれる、“たくらみ”のカード。
取り繕うのも忘れて彼女の目を見れば、
楽しそうな彼女と今度は確実に目が合う。
それから数ターン。
最後の探偵も回避した俺に、自分のターンが回る。
「__俺の勝ち」
緊張なんて無かったかのように、一応カッコつけて犯人のカードを場に出す。予想通り周りの人間がどよめいて、褒め言葉だのブーイングだのが飛び交いまくる。ハイハイと適当にいなして、彼女の顔を見る。しれっと一緒に勝利している彼女も、気づいた人間からワイワイと何かを言われている。
俺の視線に気づいた彼女が、ニヤっと口角をあげて
もう一つの、“出さなかった手札”をぺらりと返す。
そこにあったのは“いぬ”だった。
手札を全員へ見せる、公開処刑のようなカード。
つまり、彼女は勝てたのだ。
俺を犯人だと当てて、皆が勝つルートがあったはず。
俺が勝つ側にノったのではない。選んだのだ。
皆じゃなくて、俺と一緒に勝つルートを。
素知らぬ顔をしてカードをシャッフルする彼女を見つめる。
ゲームの勝ち負けなんて目じゃなかった。俺が犯人だったのに、俺の中じゃ彼女の勝ちでしかない。無謀に挑戦した一騎打ちで、まんまと踊らされたのだ。犯人は踊る。お手本のようなタイトル回収をする彼女の手によって、再び手札は配られる。次に踊るのは、彼女か、俺か。
『勝ち負けなんて』 白米おこめ
「犯人は踊る」というカードゲームを題材にしています。
分かりやすくて楽しいゲームです。
ひらりひらりと飛ぶ姿が、どうにも眩しかった。
仲が良さそうに友人と話しては、
少しだけ伏せた睫毛の下の瞳に光が灯る。
ビールを飲む手が不自然に止まりそうになるのを、
無理矢理動かして冷えた炭酸で喉と脳を焼いた。
カードを捲る手が、山札をシャッフルするその指が、
どうにも誘うように滑らかに動いて見えて。
あちらこちらと、分け隔てなく微笑みかけるその顔が、
どうにも愛おしくて白旗をあげる。
彼女は渡り鳥だ。
春と秋だけ僕を通り過ぎる、旅鳥。
自分の選んだ場所で夏を過ごし、
自分の選んだ場所で冬を過ごす。
長期休みのその時に、僕の元ヘは降り立たない。
巣も作らず、僕は空を舞うその姿を下から眺めているだけ。
ふわりと抜け落ちた羽根が気まぐれに頬を撫でて、
これで満足しなさいと言わんばかりに手の中へ落ちる。
悔しくて握り潰しそうになるのをぐっと堪えて、
恋しさのままにその羽根で道具を作るのだ。
側にいるような錯覚を求めて、加工して、原型を無くして。
ハッと気づけば、笑うように彼女は
僕よりもずっと高く遠い場所を飛んでいるのだ。
渡り鳥よ、どうか僕に撃ち落とさせてくれ。
冷えた缶で濡れた指先で、君の羽根を撫でてしまいたい。
保護をして、餌を与えて、うんと可愛がれば、
君はもう飛ぶ必要がない。
ニワトリやエミューのように、飛べなくなれば。
僕の元からずっと離れず、君は留鳥と成り変わる。
君であればいい。渡り鳥のような君を好きになっても、
渡り鳥が好きな訳ではないのだから。
そう思いながら、焼いた肉を彼女の元へと持っていく。
不思議そうに、それでも嬉しそうにぱくりと食べるその顔に
求愛給餌という単語はないのだろう。
いつか刻印のついた輪で君を縛ることを夢見て、
今だけは、自由に飛ぶ姿をじっと見つめさせて。
「渡り鳥」 白米おこめ
さらさらと言う単語は、色々なものに使える。
川の流れ、生地の触り心地、話すスピード。
それでも私は、君を表すような擬音語だと思うのだ。
君の少し長い髪の、艶やかな黒髪に似合う言葉。
流れは耐えず、絹のような触り心地で、透き通ったような。
直接言うのは憚られるから、そっと、文章でだけ伝える。
君のその、さらさらとした黒髪が、
目に焼き付いて離れない。
思わず目で追ってしまうほど、その毛先一つに、
心が惑わされる__
書き切って、頰の熱を冷ます。
少しひんやりとしているだろう君の手が、
額に当てられたらいいのに。
「さらさら」 白米おこめ